心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.09.14公開)

三十七.初対面


 

 かねてより龍宮界からくわしい指示が出ていたので、そのときの私はたった一人で出かけました。初対面なので服装なども失礼にならないように、気に入っていた礼装に例の被衣《かつぎ》を羽織りました。

 ずっと続く山路を進みました。とても高い峠にさしかかったかと思うと、今度は下り坂となり、右に左にクネクネとつづら折の道が続きました。時々樹木の間からは青い海原がのぞきました。やがて到着したところは、そそり立つ大きな岩と岩の間をえぐり取ったような狭い隘路《あいろ》で、その奥が深い深い洞窟になっていました。そここそが弟橘姫さまの日頃お好みの修行場で、洞窟の入り口にはちゃんと注連縄が張られていました。もちろん弟橘姫さまはいつもここにばかりおられるわけではなく、現世に立派な祠があることからもわかるとおりこちらの世界にもそのようなものがあり、御用があればすぐそちらにお出ましになられるそうです。

『ごめんくださいませ。』

 口にこそ出しませんが、私は心でそう思って会釈して岩屋の中に歩いて入りました。すぐに気配を察して奥のほうからお出ましになられたのは、私が長年お慕いしてきた弟橘姫さまでした。第一印象は年の頃やっと二十四〜五歳ぐらい、小柄で細面の大変美しい方でした。どことなく沈んだ印象もありましたが、きりりとしたややつり気味の目元には、すぐれたご気性がうかがわれました。お召し物はまた私達の時代の服装とはよっぽど趣きが違い、上着はやや広い筒袖で、色合いは紫がかっていました。下着は白地で、上着より二、三寸(約6〜9cm)はみ出し、それには袴のように襞《ひだ》がついていました。髪は頭のてっぺんで輪を作った形で、そんなところにも古代風の雰囲気が漂っていました。お履物は黒塗りの靴みたいなもので、木の皮かなんかで編んだものらしく、重そうには見えませんでした。

『私はかくかくしかじかこういうものですが、現世にいたときからあなた様をお慕いしていました。特に先日乙姫さまからくわしくお話をうかがってからは、いっそうおなつかしく感じ、ぜひ一度お会いしたいと思っていました。右も左もわからないふつつかものですが、これからは末永くお教えいただきたく思いますのでどうぞよろしくお願いします。』

 こう言うと弟橘姫さまは、

『かねてから乙姫さまにうかがっていたので、あなたのお出でをお待ちしていました。』と大変お喜びの様子で迎えてくださいました。『自分だってほんの少し早くこちらの世界に引き移っただけのことです。これからは手を取り合って修行していきましょうね。どうぞこちらへ。』

 その口数の少ない控えめな物腰が、私には何より素敵に思えました。『やっぱり歴史に名高いお方だけのことはあるわ。』心の中でそう感心しながら、誘われるままに岩屋の奥深く進んでいきました。

 私自身も山の修行場に移るまでやっぱり岩屋住まいをしていましたが、しかしここはそれよりもはるかに大がかりにできた岩屋で、壁も天井ももの凄いほどギザギザした荒削りの岩でできていました。でも外から想像していたのとは違い、中はちっとも暗くなくて、ほんのりと落ち着いた明かりが部屋全体を照らしていました。『これなら精神統一がうまくできるに違いない。』なんて、餅は餅屋と言いますけど、私は心の中でそんな事を思っちゃいました。

 ものの二丁(丁は町とも書き、約109m。だから二丁は約218m)ばかり進んだところが姫のご修行なさる場所で、床一面になんだかフワフワした柔らかい敷物が敷き詰められていました。そして正面の棚みたいにできたくぼみがどうやら神棚のようであり、一つの丸い御神鏡がきちんと据えられていました。他には装飾らしいものは何一つありませんでした。

 私達は神棚の前に、並んで腰を下ろしました。その頃の私はすでに幽界の生活に慣れていましたが、それでも自分より千年以上も前に帰幽された歴史に名高い方と膝を交えて親しく話しができるかと思うと、何だか夢でも見ているように感じられて仕方ないのでした。

 


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