心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('00.04.22登録)

第四信
ハルビンからクラスノヤルスクまで


 

 長春《ちょうしゅん》付近で結んだ夢は、数時間の後、寒さのために、無理に破られました。時計を見るとちょうど午前三時。こんなところで風邪を引くなどは、ほめた話ではないと思いましたので、飛び起きて、コートその他を引きずり出し、今度はポカポカになって再び寝込みました。

 目をさますと十九日の午前七時……。と言っても、内地の時刻とはそろそろ違っています。毎日三十分か一時間くらいずつ針を遅らせて行くので、時間はめちゃめちゃです。しかも地方時間のほかに、標準時間として、モスクワ時間なるものが汽車では使われているので、午後一時に朝食を食べたり、何かするというおかしなことになります。で、私は時計などは一切ヌキにして、太陽の昇り降りを見て、目分量で時刻を決めることにしました。もしも曇っている場合には、腹の減り加減から見当をつけることにします。とにかく私が、七時頃に目を覚まし、顔を洗って茶を飲んでいるうちに、早くも汽車はハルビンに着きました。私は荷物の大部分を車内に残して、北満ホテルの案内人に連れられて、プラットホームに降り立ちましたが、モウここに来ると日本人の影はほとんどなく、その辺を往来しているものは、ロシア人と支那人と半々くらい、そして汽車の掲示その他一切が、みなロシア文字ばかりときているから、少なからず心細く感じられました。柵を出ようとする時、案内人はプラットホームの一ヶ所を指して、

「あそこが伊藤公の避難された場所です」

 そう言われて、私はちょっと足をとめましたが、プラットホームは、要するにただのプラットホームで、しんみり追憶にふけるにはあまりに殺風景、あまりにせわしい気分に充ちていました。

 北満ホテルには、福来博士がすでに二日前から私の到着を待っていました。まだ発車までには十時間もあるので、私はすっかりくつろいで、まず一風呂浴びて浴衣姿で、二時間ばかり睡眠をとりました。午後は福来君と一緒に、自動車でグルリと市内を一周しましたが、さすが三十余万の人口を持っているだけあって、なかなか立派なもので、ハルビンの銀座通りといわれるキタイスカヤ街などは、本物の銀座を凌ぐものがありました。それから中央寺院、松花江《しょうかこう》埠頭、市公園、極楽寺《ごくらくじ》などと、われわれは興味をもって見物してまわりましたが、とりわけ私の注意をひいたのは、支那街の郊外で、まるきり支那人ばかりの別天地をかたちづくり、ロシア人などを眼中におかぬ顔に、平気でお国ぶりを発揮しているのが、とても気に入りました。その頭数も二十一万ときいては、まったく恐れ入ったもので、日本人の三千三百人は、これに比べて、いかにも貧弱に感じられました。

「こりゃあどうあっても、北満の門戸《もんこ》開放が急務らしいな」と、私はひそかに思いました。「それにはスピリチュアリストも、できるだけ早く、ハルビンあたりに支部でも設け、偏狭な人種的争闘観念の撤廃に努力せにゃあならん……」

 私たちがハルビンを立ったのは、日没後間もない頃でした。今度は二人連れなので、何かと旅には便利なことでした。しかも同じ列車には、久米民之助氏が、令息二人を連れて乗り合わせておられました。きけば、夏期休暇を利用して、令息たちに欧州見学をさせるのが唯一の目的であるそうで、旅行として、真に理想に近いものの一つと感ぜられました。「まったく結構ですな」と、私は心から言わずに居られませんでした。

 明けて二十日の早朝、おもては、意外にもかなり強い雨が降りしきっていました。もともと単調な旅であるのに、その上雨では一層たまりません。私は再びベッドにもぐりこみ、うつらうつらと寝込んでしまいました。が、昼近く床を離れた時には、幸い空もすっかり晴れ渡り、広い広い北満の野が、はてしもなく左右に展開していました。この辺へ来ると、どこにも人力の加えられた痕跡はなく、草はただ伸び放題、花はただ咲き放題、十里二十里にわたって、人っ子一人見当らないところばかりでした。樹木らしいもののほとんど無いのも、またこの辺の特徴でした。

 チチハル、ハイラールなどを過ぎ、汽車が満州里《マンチュリ》に着いたのは、すでに夕日が西に傾いた頃でした。これからいよいよロシア領に入るので、車の乗り換えやら、税関の検査やらに、三時間あまりの停車時間がありました。

 荷物は税関検査室に置き放しにして、私たちは久米さんたちと相前後して、ブラブラ歩いて、日本ホテルというのに行きました。ホテルは停車場から四〜五丁(500m前後)くらいのところにありました。

 満州里は人口1万以上と聞きますが、よくよく薄暗い、荒れすさんだ感じのする町で、自動車などはほとんど見当りません。住民の大半はロシア人で、支那人がこれにつぎ、日本人はたった百五十人内外だそうです。こんなところで、日本人ホテルの経営はずいぶん困難な仕事であるらしく、宿泊者は一ヶ月にたった二〜三人くらいとのことでした。それでも日本風の風呂を沸かすやら、刺身や甘煮を食わせるやら、畳の上に座らせるやら、浴衣を着せるやら、できる限りの待遇は、むしろいじらしい感じがしました。天草出身と名乗る女中を捕まえて、私たちはいろいろ話を交えました。

「ここからモンゴルに入るにはどうすればいいのかね?」

「自動車でまいりますと、二日かからずに往復ができます。距離は五十里(約200km)くらいだそうでございます」

「危険はないですか?」

「ときどき馬賊が出るそうです。さきほど鳥居さんが、お嬢さんと一緒に、手前どもまでお出でになられましたが、危ないというので、モンゴルへはお入りになられませんでした」

「自動車賃はいくらです」

「百二十円でございます」

「この辺のロシア人は威張りますか」

「いいえ、近ごろはすっかり貧乏して、支那人のほうがよっぽど威張ります。若い、きれいなロシアの女で、支那人の女房になるものがたくさんございます」

「日本人の羽振りはどうですか?」

「特にこれということはございません。すべて商売は、ハルビンが今のところ一番だそうでございます……」

 晩餐をすませてから、私たちはまたさびしい街をブラブラ歩いて停車場に行き、モスクワ行きの別の列車に乗り込みました。車体は今までと同一ですが、ただボーイが少しも英語を解さぬのがなにより閉口で、私たちはへたな手まねで、どうにかすることを余儀なくされました。

 ともかくその晩はただちに寝につき、身体がソビエト連邦に入るのと、魂が夢路に入るのと、ほとんど同一時刻でした。

 明けて七月二十一日、あいかわらず汽車は茫々漠々《ぼうぼうばくばく》たる青草《あおくさ》の広野《ひろの》を、西に向かって走りつつありました。この辺の景色は見ようしだいで、良いとも悪いともいえるのでしょうが、ともかくも、あくまでもだだっ広く、のんびりしているのは、決して悪い感じを与えませんでした。

 良くても悪くても、シベリアの景色に向かって文句はつけられませんが、ただシベリアの汽車の食堂の悪化には、呆れ返りました。現金な奴らで、汽車がソビエト領内に入ると同時に、思い切って値段を高くし、思い切ってマズいものを食わせ出したのです。

「ぐずぐずぬかしたってダメだぜ。ここはソビエトの領内なんだからな」

 まあそう言った調子なのです。

 この辺の停車場には、まだ物売りはあまり出ていないので、乗客はやむを得ず食堂に入りましたが、朝から昼、昼から晩と、回数が重なるにしたがい、その人数はだんだん少なくなって行き、晩餐の時などは、ホンの数人に過ぎませんでした。

「明日からは、いよいよこんな食堂にボイコットだ! 直接ロシアの農民の手から買えば、新しい卵や牛乳が、十分の一の値段でいくらでも買える」

 旅慣れたフランスの保険屋さんがさかんに憤慨します。これにはドイツの商人と、アメリカのノッポさんも、イタリアの断髪老嬢《だんぱつろうじょう》(?)(訳注:断髪とは女性のショートカットのこと。昭和初期に日本でも流行した。老嬢といっても老人ではなく、オールドミスのこと。だから?が付いているわけです)も、またわれわれキモノ連も、双手《そうしゅ》をあげて賛成でした。

「とにかくこの食堂が、赤露の良い縮図ですよ」と、保険屋さんますます乗気になって喋りました。まずい思想と、政策を皿に盛りあげて、それを世界各国に押し売りしようとするのが、現在の労農《ろうのう》ロシアです。誰しも最初は一皿や二皿は食べてみます。が、まずくて高いものは誰しも好みません。その結果は当然ボイコットです。敬遠主義です」

「ヒャヒャ! 大賛成!」

 二〜三人が側からパチパチ手を叩いてはやしました。

 二十一日はこんなことで、ともかくも暮らしてしまいました。翌二十二日の朝は、福来君から呼びさまされて外を眺めると、眼前には満々たる大湖水が展開しています。言わずと知れた、それはバイカル湖です。

「イヤー! 素敵だ!」

 私たちはしばらく窓に寄りかかって、このシベリアの大湖に見とれました。

 昨日と変わって、この辺はもうすっかり森林地帯で、赤松そっくりの蝦夷松《えぞまつ》と白ペンキを塗ったような白樺とが、野に山に、湖畔に、ところせまく生い茂り、それが藍碧《らんぺき》の水と相映じて、なかなかの風情を添え、ちょっと大きな浜名湖を、北に眺めたような趣がなくもありません。ただ湖面のどこをさがしても、一艘《いっそう》も船らしいものの影もないのが、やはりここはシベリアだなと思わせます。

 汽車はどこまでも湖畔に沿って、うねりうねりと進みます。二時間たっても、三時間すぎても、依然として右手は水の世界、しかも水面はだんだん広がるばかり、ところどころ遠くかすんで水と天とが接するのです。

 湖畔はまたところどころに小さな停車場があり、そこで名物のハヒルスという燻製《くんせい》の魚を売っています。われわれは早速それを買い求め、食堂忌避の第一歩を踏み出しました。鉄道沿線でそろそろ売り子があらわれ、また売店の設備があるのはこの辺からで、最初私たちは珍しさのあまり、牛乳、パン、ゆで卵、鶏の丸煮、腸詰め、ハム、キュウリ、クワツン(何でしょう?----訳者)などをやたらに買い込みましたが、だんだん汽車が進むにつれて、だんだん食料品が豊富になるので、しまいにはそうそう続かなくなりました。とにかく乗客たちの対食堂政策は、これですっかり成立しました。「モウあんな食堂などに用はない。勝手に一皿百ルーブルでも取るがよい。僕は四合ビン二十銭の牛乳と、ひとかたまり十銭のパンとがあれば、立派に一日は暮らしてみせる」などと気焔をはくものもいました。

 午後一時頃になって、ようやく汽車はバイカル湖畔を離れ、アンガラ川に沿って進みました。幅は七〜八丁(およそ760〜870m)もありそうな急流で、なかなかの絶景です。さすがにここには船が少し浮かんでいて、顔じゅうヒゲだらけの、ロシアの太公望などが見受けられました。

 それからの三十分ばかりの後に、汽車はイルクックの停車場につきました。ここは人口九万の由緒ある大都会、立派な大学もあれば、博物館も、図書館もあるところだとききましたが、三十分の停車では、いかんともすることができません。ためしに構内の食堂で二品ばかり食ってみたのと、買い物を少しばかりしてみたのとで、終わりになりました。

 右手の傾斜地にひろがるイルクックの市街を、車窓から展望しつつある間に、汽車はまたその田舎へと突進しました。白樺の森、蝦夷松の林、波濤のような大きな地のうねりは相変わらずですが、たださすがにこの辺には、農民の家屋がちらほら見え、その周囲には、耕地やら牧場やらが点在して、相当多くの人間の住む世界であることを示しました。

 着く停車場ごとに物売りと、乞食と、見物人とが、五十人ないし百人くらいは、必ずいました。売り子の中で一番可憐なのは、野生の花束を売る十歳くらいの男女の子供たちで、つまらないと思いながらも、旅客は小さい銀貨などを投げ出すのでした。

 二十二日の出来事で、特筆大書すべきは、旅客の大部分が、この日から食堂通いをほとんど全部止めたことで、ある人々はこれを赤露征伐などと言って痛快がっていました。


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