心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('00.06.26登録)

第五信(1)
クラスノヤルスクからモスクワまで


 

 七月二十三日の車内生活は、頗《すこぶ》る平凡なものでした。案内記によって風光明媚を想像していたエニセイ川も、昨日見たアンガラ川と比べると、景色としては遥かに劣り、またクラスノヤルスクの町も、人口九万と称するわりには、お粗末な感を与えました。沿道の風光も、決してすてたものではありませんが、相も変わらぬ白樺、エゾ松の森、相も変わらぬ野生の花、相も変わらぬロシアの売店、----旅客たちは眼にも、腹にも、そろそろ食傷気味で、昼間から惰眠《だみん》をむさぼる向きも多いのでした。

 翌二十四日にも、ほぼ同様の旅路で、どこがどこやら、そろそろ区別がつかなくなって来ました。が、さすがにオムスク市だけは、記憶にきざまれています。オビ川の左岸に高低起伏して建てられた美しい家並《やなみ》は、たしかに、少なからず旅客の眼を慰めるに足りました。モ一つオムスクでうれしかったのは、その構内食堂で、ビールの杯を挙げたことで、久しぶりにこれはうまいと思いました。近頃は少し旅慣れがしてきて、いくらか悠然と構えて、時間の許す限り、停車場の付近をぶらつき、手真似でタバコや絵ハガキを買ったり、物を食べたりするぐらいの度胸ができてきたのです。

 翌二十五日の旅で、感興を引いたのは、スヴェルドロフスク、つまり旧エカテリンブルクです。ロシア皇帝ニコライ二世一族が、過激派のたくらみに倒れた所だそうで、停車時間が三十七分もあるので、ゆっくり下車して歩き回って見ましたが、別にこれと言って目立つ何物もなく、ロシア人は、例によってきたない服装《なり》をして、ノンキそうな顔をさらしているのでした。

 ここではウラル産のルビーとか、その他いろいろな土産物を売っていましたが、とびつくほどのものは、あまり見当らないようでした。仕方がないので、われわれは食堂で、トマトをたらふく食って引き上げました。

 ここからそろそろウラルの山越えですが、全体に緩い傾斜で、到る所に人家があり、また耕作地があるのですから、黙っていれば、誰もこれがウラル山だとは気がつかぬ程度で、ただまっすぐな樅《もみ》の木が、到る所に高くそびえ立っているのが、単調なシベリアの景色に飽き飽きした旅客の眼に、楽しい印象を与えるぐらいのものでした。

 二十六日の朝眼をさますと、われわれは既に(ロシア領土内の)ヨーロッパの平原を、ひた走りに走っていました。この辺になると、到る所に里あり、牧場あり、そして田舎道を走り行く荷馬車などが、ときおり車窓から見つけられるのです。

 「もう一日でモスクワに着くのだナ」

 そう思うと、シベリアの旅が、何だかあっけなく済んでしまったような気がしました。

 大体においてシベリアの旅----少なくとも夏のシベリアの旅は、案外に気楽な、そして格別身体にこたえないものでした。一日二日は、やや窮屈に感じましたが、慣れてみれば、こうして車窓から移り行く景色をながめて、ポカンとして一日を暮らすことが、人間の当然の生活であるような気持ちがして来ます。まして到る所に売店あり、売り子あり、またマズイといえども食堂あり、飲食の欲をみたすにも、さして不便を感じません。または小テーブルを前にして、筆を執ったり、書物を読んだりする気持ちは、へんな書斎に座っているよりも、かえってマシなくらいのもので、私のこうした記事なども、随時随所に車内で書きなぐったものです。

 汽車のなかの友達は、とても船のようには親しみができませんが、しかしそれでも、相当懇意《こんい》になった人もいました。特に日本に長く居た、パリの保険屋さんとは、毎日二〜三時間ずつ話し込みました。この人がなかなかの愛嬌《あいきょう》者で、誰を見ても話しかけ、特に女性と見れば、決してただではおきません。相手がもしも妙齢のロシアの女性ででもあると、わざと相手が判らぬ英語などで、顔から火の出るような、露骨な冗談を言い、相手がケゲンな顔をしているのを見て、小躍りして喜ぶというような、ひょうきんなまねをします。

 こんな気軽な男が、案外スピリチュアリズムの信奉者であったことは、すこぶる私を驚かせました。支那からワルシャワへ帰るという、一人のダンス教師を捕まえて、私がワルシャワの大霊媒クルスキーの話をしてきかせたのが、導火線となり、乗客の多くが、急に心霊現象に興味を持ち、ハルビンから同乗した久米さんなども、ロンドンに行ったら、ぜひ有力な霊媒を紹介してくれなどと言い出すようになりましたが、しかし心霊問題に関して、前々からすでに相当の理解と、知識とを準備していたのは、実にあの保険屋さんでした。ドイルやロッジの書いたものなども読んでおり、心霊現象に対して、懐疑的な態度を取ろうとする者でもいると、私に代って、大いに論戦に努めてくれました。「やはり時代は変わりつつあるな」と、私は心に力強く感じざるを得ませんでした。

 ウラルを越えて、モスクワまでの二日間には、これはと目立ったことがありません。一つ二つ簡単にかいつまむと、ちょっと面白いと思ったのは、ヴヤトカの白樺細工、それは日本の箱根細工と同工異曲で、巻タバコ入れなどに、なかなかよく出来たのがありました。それから東部ロシアで、特に良いなと感心したのは白堊《はくあ》の尖塔《せんとう》----到るところの村落には、必ずニョキと大空を指す寺院の尖塔がありまして、それが、青々と波濤のごとくゆるく起伏する大牧場の先などに、遥かに浮かび出た光景は、まさに一幅《いっぷく》の絵です。

 いや、シベリアの旅も、相当飽きてきました。私自身がそろそろ書こうとする気がないぐらいですから、読者のほうでは、なおさら読む気がないに決っております。で、この辺で、記事は飛行機以上の猛スピードを出して、一気にモスクワまで飛びます。

 七月二十七日の午前九時、汽車は徐々に、松林につつまれた郊外住宅地帯を貫いて、予定のとおりモスクワの北停車場につきました。(三・七・二八)


前ページ目次第五信(2)「素通りの欧州大陸」に進む

心霊学研究所トップページ