スピリチュアリズム勉強会&座談会
('01.08.10作成)

第3回('01年7月22日)
「シルバーバーチは語る」3章

その2


 
 地上世界はサウロがダマスカスへ向かう途中で体験したような、目の眩むような閃光で一気に改革されるものではありません。大霊の霊力の道具が増え、そのチャンネルを通して届けられる霊的真理に目覚める人の数が増すにつれて、少しずつ霊的な光明が地上界に行きわたるのです。(P.42)

ペ:これは、一昨年ぐらいまでノストラダムスの大予言の影響なのか、ニューエイジ系の人達が地球全体のレベルが一気にシフトするんだみたいなことを言ってましたけど、そういうものじゃないんだという。ああいうことを言いたがる人たち、本人は真理を語っているつもりでいい気持ちになってるんでしょうけど、実際は単なる現実逃避にすぎないんですよね。しかし現実はそういうものではなくて、やはり1人1人の努力の積み重ねで少しずつ変わっていくんだろうと思うんですよ。

有希:まぁ、一気に改革されたら逆に怖いですよね。中には霊現象がパッと見えて一気に変わるという人もいますけど、霊的真理のない中でそういう体験していると、霊現象ばかりに目を向けてしまって肝心な成長ができないこともありますから。本当は霊的真理を得るための霊現象であるはずなのが霊現象だけになってしまうと本末転倒ですもんね。

ペ:ここではシルバーバーチは地上世界全体のことをいっていますが、個人に対しても同じことが言えますよね。

有希:そう思います。それで、先回の中で言って書かなかった内容なんですが、P55-2行目の

 物質界の人間も本来は霊的存在です。その人間に霊的摂理を教えるためにラップなどの物理的心霊現象から始めなければならなくなったことを残念に思います。それほど現代の人間が物的感覚に浸り切り、霊性がマヒしているということです。(P.55)

ラップ現象とかを使うと、確かにハッとしてやっぱり霊界はあるんだと気づくけれども、人間の霊性が低いためにその事ばかりに目が向いてしまうのだろうなーって。

ペ:スピリチュアリズムでも19世紀から20世紀始め位までほとんど物理現象ばっかりでしたからね。霊的教えは、誰もそんなこと知った事じゃないという感じだったみたいですから。

有希:確かに霊性が低いといえば低いですよね。

長田:そうですよね。でも段階があるから仕方ないというか。今の日本もテレビ等で霊現象をしきりに取り上げられているけど、まだその段階だということで、これから真理が少しずつ入っていくわけだから楽しみですよね。

ペ:ただ、そういう物理現象から始めなければいかなかったのは残念だというのはその通りなんだけれども、だからと言ってこの世の人間がそれ(物理現象の意義)を否定してしまって、こんなものは全然だめだと言ってしまうのはどうかと思うんです。そうしなければいけなかったのはこの地上の人間にとって必要だったからで、それが必要な状態であったということが残念だったということであって、今の地上の人間がそれを軽く見てしまうことはかえって間違いかなと思います。
わざわざこんなことを言うのは、中にはこれを勘違いして「物理現象のことなんてくだらない」みたいなことを言いだす半可通が出そうな気がするんですよ。そうじゃないんだ、決してくだらなくなんかはないということは言っておきたい。実際、ハリー・エドワーズのような、スピリチュアリズムの世界でも最高クラスの人も、若いころは徹底的に物理現象を研究していたぐらいですから。それに、現象が必要な状況というのは現在であまり変わってないと思いますし。

有希:確かに必要な人には必要ですものね。P42の

 霊に係わることは慎重な配慮による養成と進歩を要します。急激な変心は永続きしません。私たちの仕事は永続性を目指しているのです。一人また一人と、暗闇から光明へ、無知から知識へ、迷信から真理へと這い出るごとに地上界が進歩するのです。(P.42)

確かに急激な変心は永続きしないということはありますね。初めはがむしゃらにシルバーバーチを読んだり、よく話をしたりしたんだけど、仕事が忙しくなったり、彼女が出来たとか、子供が生まれたりするとプッツンする人がいます。「最近どうしてる?」と聞くと「忙しくてもうバーチどころじゃないですよ」と、とっても残念な言葉を結構聞いているものですから。

ペ:すごくよく分かりますよ。一時的にバーッと熱中しちゃう人ほどパッといなくなっちゃいますよね。

有希:そうなんですよ。でも、一旦は読んでいるわけだから、いつか読み返してくれる時が来るといいなと思っています。そういう人達が次に目覚める時は人生のどん底を体験した時とか、家族の誰かが亡くなって霊界が身近になった時かなーと思っているんですけどね。

長田:やっぱり苦しい事に直面しないと考える事がないのかもしれないですね。ところで、ここの「慎重な配慮による」とはどういうことですか?

ペ:「急激な変心」をさせると……たとえばパウロとかでも目も眩むような閃光で一気に変わったわけですけれども、その結果があれ(イエスの教えを歪めてしまった)ですから、そういうのじゃあダメ。というか……。

有希:というか、具体的に1人1人に係わっていくと、すっごく慎重にならざるを得ないですよね。この人にとって今最適な事は何だろうか、むやみやたらに本を勧めて頭でっかちにさせてもいけないかもしれないとかね。いくら自分が体験して納得していることでも、伝える時は慎重になります。その人の霊性を落とさないようにとか、その人がいい条件で理解出来るように私がどこまでお手伝い出来るのかな、という配慮はかなりします。だから霊界だったらもっとするんだろうと思います。その人が真理を捨てないように配慮することと、よりよく成長するために何が必要で、何を体験させるべきかという霊界側の配慮というか、そういうのはすごくあるよう気がします。

長田:そうですね、確かこの中にも書かれてありましたね。

 私は高級界の霊が目に涙を浮かべている姿を時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられ、無駄に終わり、いつかはその愚かさに気づいてくれるだろうと願っているのです。(P.56)

人間の成長にかかわることって、スゴく難しいものなんですね。

有希:そうですね。それから私がまだちょっと理解できていないことが出ているんですけど、P43の2行目

 発達にも二種類あることを知らないといけません。精神に係わるものと霊に係わるものです。前者は心霊的能力の発達にすぎませんが、後者は魂の成長そのものです。(P.43)

この精神と霊の違いというのはどうですか?

長田:私も精神が心霊的能力の発達にすぎないというのは、ちょっとまだ理解できないですよ。

有希:これって再生の原理をしっかり理解できていないと区別できないんだろうなーとは思います。自分の中でこれが精神に係わっている事で、これは霊に係わっている事なんだ、なんてなかなか認識出来ないじゃないですか。

ペ:精神とか霊とかいうと分からなくなっちゃいますよね。要するにここに書いてあることは、霊能者だからといって立派な人間とは限らないよ、ということなんだと思いますけど。

有希:ここを読むと、心霊的能力つまりサイキックの能力であって、本人の人格とか成長とかではなくて単に霊能力だと、それって精神なのかなー?ってね。

ペ:それは、肉体と霊が組み合わさった状態が精神だということなんですよ。…ええと、つまり、精神って肉体の状態に左右されるじゃないですか。カルシウムが足らなくなると怒りっぽくなったり(^^;。だからまぁ、要するに心霊的能力というのも半分は肉体的能力だということだと思うんです。だから霊性とも関係ないことはないにしても、霊能力があるからといって霊的にも発達しているかというと、必ずしも一致しないという。

長田:それは一致しないですよね。

有希:ここで「心霊能力が発揮されても魂の成長が伴わなければ、低いバイブレーションの仕事しかできません。」と書いてあるから、そう思うと精神というのは心霊能力とも考えられるけど、心霊能力がない人はどう考えたらいいのか、この辺がうまくつかめてないんですよ。
感覚的に今まで受け止めてきたのが、精神に係わるというのがわりと感情的な部分で、霊に係わる事というのは1人になって素直に理性を中心としている感覚というか、そう区別して来たんです。例えば、誰かと喧嘩をしたり、誰かにいやみを言われたりすると、精神的な部分ではつらいし、感情としては言い返ししてやりたいぐらいに思うじゃないですか、でも別の自分、冷静な自分もありますよね。これは自分を鍛えるのに良い事かもしれないなとか、そんなことは考えるべきじゃないとかね。こういう場面に遭遇するのはいやなんですけど、そのイヤだと思うのが精神的な部分で、でもこれは自分にとっての1つのカルマだから乗り越えなければと思っている部分が霊で、これは全く相反しているんだけど、これが精神と霊かなーと思っていたんですよ。自分の中で違う自分が二人いるみたいな事ってありませんか?

長田:それはありますよ。私はその二人の自分は単に自分の中の利己的な部分と霊的な部分と理解して、それを精神とは思っていなかったんですけど。私は精神というと、人間って特別理由もないのに霊的な気分になれない時ってありますよね。なんとなくすっきりしないというか、イライラしたり、落ち込んだり、本を読まなければと思っていてもその気になれない時とか、逆にすごーく気分爽快で何でもプラスに考えれそうな時もあって。そういうこれといって特別な理由があるわけではないのに、肉体におよぼす感情の部分かなって思っていたんですよ、いわゆる気分みたいな。でも、私も違っていたのかなーてね。

有希:でもこの部分に関しては、精神に係わるものは単に心霊的能力として理解した方がいいみたいですね。

ペ:そう思います。あまり深入りするとワケわかんなくなっちゃうでしょうし。それにしても、こういうこと(ほとんどの霊能力はサイキックなものにすぎない)がわかってない人は多くて、結構霊能者に対してみんな立派な人って思っちゃうんですよね。不思議ですよね。

有希:本当に不思議ですよね。

ペ:友達の霊能者が心霊治療も出来たので、以前一緒にあちこち治療家の真似事をして回ってたことがあるんですよ。それで面白かったのは、別に治療ができるからってそんな立派な人間というわけでもないのに、いい年したおじさんが何か紙を出してきて「ひとつお言葉を書いて下さい」みたいなこと言ってくるんですね、びっくりしちゃいますよ。心霊治療という能力があるだけで、いきなり教祖様扱いですから(苦笑)。

有希:やっぱり人間って自分にない能力を持っている人に憧れるんですよね。特にそういう一瞬のうちに病気を治したり、見えたり聞こえたりというのは特殊な能力のように思われているから、憧れたり頼りたい部分はあるかもしれません。

長田:でもみんな霊界に行けば、見える聞こえるが当たり前な訳だから元々はそういう能力は持っているということですよね。ただその能力を持って生まれて来たか、来なかったかの違いで、その能力がないから発達していないというものではないですよね。本来ならみんな両方の能力を持って生まれてくるのが本当なんですか?

有希:自覚しているかしていないかの違いで、みんな大なり小なりそういう能力を持っているとは思うんですよ。

長田:そうですか。生まれて来る時に、今回はその能力はあまり発揮されなくてもいいと選んで来るだけの話ですかね。

有希:だと思います。

長田:見える聞こえるはないにしても、手当てというように和らげる力は誰でもありますよね。

有希:ええ、末期がんの人はさすってあげるだけで痛みが和らいだりする事はありますものね。そういう意味では誰でも大なり小なり治療能力はあると思います。

 
「理屈を言ってはいけません。そう信じればよいのです。」----私はそんなことは申しません。反対に「神が与えてくださったもの(知的思考力・理性)を存分にお使いになって私をお試しなさい。しっかり吟味なさってください。そしてもしも私の言うことに卑劣なこと、酷いこと、道徳に反することがあれば、どうぞ拒否なさってください」と申し上げます。(P.45)

ペ:ここは僕のすごく好きなところなんですけど、これはシルバーバーチの重要ポイントの一つではないかと思うんです。

有希:これはシルバーバーチが一貫して言っていることですよね。これがなかったらその辺の宗教と変わらなくなっちゃいますもの。この前私のホームページで「最後はやっぱり信じるしかない世界があります。」と抜粋しましたけど、自分で納得できるところだけとりあえず受け入れていくのが一番間違いがないですよね。自分の理性で得たものというのは途中で間違っていると気がつけば、その時々でどんどん修正していけばいいけど、宗教というのはそれが出来ないから厄介だと思います。

ペ:修正させないように仕向けているんですよね。信者同士で教義について話し合うことを禁じていたり、議論はしないで下さいみたいな、とんでもないことを言うところもあるようですから

有希:そうみたいですね。例えば、何か疑問を投げかけると、言葉巧みな人を連れて来て説き伏せてしまうというのはよく聞きます。そして、自分が疑問を持ったことがとっても悪いことの様に説明されてしまうとか。

ペ:疑問を持つことは信仰が足りないからだってね。だから段々疑問を持たないように自分で抑制していっちゃうんですよ。

長田:そうそう、相談した為に信仰が足りないから何か実践を科せられるという事もありますし。

有希:でも、やっぱり疑問は疑問として素直に持つべきですよね。でないと次に進めないし。

ペ:そこがスビリチュアリズムとの違いですよ。

有希:ええ、とても大きな違いだと思います。

ペ:シルバーバーチも牧師と激しく論戦しているし、モーゼスの霊訓に至っては本当に全編スゴイ応酬ですよね。

有希:確かにモーゼスは凄いですよ、ペーパーバーチさんみたいだと思います。

ペ:いやいやいやいや。足元にも及ばないというか、畏れ多いというか……。でも、斯くありたいとは思ってます。

有希:私は論戦があまり好きではないので、好きな方はどうぞという感じなんです。「北風と太陽」という話がありますけど、あの北風のやり方があまり好きになれないので、本人が自分で気づいて行くようにサポートしていきたいというのが私のやり方なんです。もし真っ向から「これは違いますよ」と言えば、相手が逆に自分をガードしてしまって、余計かたくなになってしまったということが今までに何回もあったんです。例えば宗教の人に、「そこはちょっと違うのじゃないの」と言ったとたんに逆にガードが固くなってしまったのに対して、「私はこういう体験をしてこうでしたよ」と言うと「そういう体験は私もそういえばあるわ」と素直に聞いてくれることって結構あるんですよ。だから真っ向からの論戦はついつい避けちゃいます。論戦能力が欠けているのかもしれませんけど。

ペ:相手しだいで使い分けられれば一番いいと思います。

有希:そうですよね。でも、私からすると論戦できる人って凄いなーと思うんです。よくめげないなーと思ってね、

ペ:ううん。そういうので、めげるとか傷つくとかいうのがよく分からないんですけど。答えに窮するような鋭い反論をしてくれる人のほうが僕は楽しいし、勉強になるし、好きなんですよ。
もっとも現実には、威勢よく大言壮語するくせに肝心のコメントがヘナチョコな人がほとんどで、ガッカリなんですけどね。

 


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