心霊学研究所
『シルバー・バーチの霊訓(5)』を読む

九章 神は愛の中にも憎しみの中にも


 

 引用文中の“/”は“中略”です。かなり大胆に省略している部分もありますので、なるべく本を買って読んでくださいね。

 九章では“神”について語られます。既成宗教、たとえばキリスト教などで言われるような、人格を持った存在としての神ではなく、法則としての神という概念が説明されます。

 

「神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫(ビマン)しております」

 より大きな宇宙とは、霊的な宇宙のことでしょうか。それとも、この宇宙と平行に存在するパラレルワールドの事でしょうか(最近の宇宙物理学では、この宇宙以外の宇宙の事も予言されているようですが…)。どちらにしても、神は、それらの全ての宇宙に瀰漫しているというのですから、ただごとではありません。
 少なくとも、過去の宗教が説いてきた神とはスケールが違うようです。

 

 神が宇宙の全てを知ることが、なぜ可能なのかという質問を受けて、シルバーバーチは……

「神と呼ばれているところのものは宇宙の法則です。それはすべての存在に宿っております。すべての存在が神なのです。各自の魂が自分を知っているということは神がその魂を知っているということです。/全宇宙が神の法則の絶対的支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわら神の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです」

 つまり、シルバーバーチの説く“神”とは、汎神論(ハンシンロン)的なもののようです。法則である神は全てに宿っている。ゆえに神は全てを知る。全ては神という法則の中でおこなわれている……。
 「では」と、質問が出てきます。全てが法則の中で行われているなら、悪を行う人間も法則の中で行っている事になる。法則に違反するものは存在しないことになってしまうのではないだろうか?
 シルバーバーチの答えは明快です。

「完全が存在する一方には不完全も存在します。が、その不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。/
 生きるということは進化することです。/あなた方のおっしゃる善も悪もその進化の行程における途中の階梯にすぎません。終りではありません。あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。その時点においては善であり、その時点においては悪だと言っているにすぎません」

 ですから、たとえば地震のような人間にとって都合の悪いことも、この地球という天体の進化していく過程の現象であり、宇宙の進化という観点から考えれば“善”であると言えるわけです。それを“悪”と見るのは、人間の理解力が不完全であるからです。すべては、進化の法則の途中段階の現れだということです。
 人間も、自然も、その善も悪も、完璧な神の法則の(より完全な顕現をしていく過渡的段階の)不完全な顕現であると言えるでしょう。

「日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどと言うことは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。
 それと同じ寸法であなた方は、神が存在するならばなぜ他人に害を及ぼすような邪悪な人間がいるのかとおっしゃいます。
 しかし人間各個に自由意志が与えられており、魂の進化とともにその活用方法を身につけてまいります。霊的に向上しただけ、それだけの多くの自由意志が行使できるようになります。あなたの現在の霊格があなたの限界ということです。しかし、あなたも神の分霊である以上、人生のあらゆる因難、あらゆる障害を克服していくことができます」

 何度も同じ話を繰り返すようですが、霊が主であり物質が従です。霊に従属する存在でしかない物質の世界であるこの世には、本来霊である人間を挫けさせるものは何も無いはずであるということが言えます。
 しかし、霊だけが貴く、物質はどうでもよい物なのかというと、決してそんなことはありません。本来神である霊が、自我意識、または精神を持つためには、物的身体を持たねばならないからです。ある意味では、物質あってこその霊であり、シルバーバーチによれば、精神とは、物的肉体と霊が結びついて出来るものだと言います。

−−霊が意識をもつ個的存在となるためには物質の世界との接触が必要なのでしょうか。
「そうです。意識を獲得するためには物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。物 matter から霊spirit へと進化していくのです。つまり物的身体との結合によって、物的個性を通して自我を表現することが可能となります。霊は物に宿ることによって自我を意識するようになるのです」

 完全なる存在であるはずの霊が、不完全な物質と結びつかなければ“自我”を持つことが出来ないなんて、なんだか面白いですね。
 ……面白いなんて思うのは、ちょっと変な感覚でしょうか?(^^)

 この部分には訳注が付いています。それを踏まえて、僕なりに説明してみます。

 ここでシルバーバーチが言っている「物的身体」とは、霊的な身体(幽体・霊体・本体)も含むもので、質問者のイメージしている“物質”とはレベルが違うことに注意する必要があります。霊界の身体と、この世の身体では、神性の顕現の度合い、完全性の度合いが違い、進歩した肉体ほど、それを通して顕現できる神性が多くなります。
 僕が思うに、完全な存在となって神と一体化するまで、物的世界に住んでいるという事なのでしょう。そして、完全など“絶対に”達成できないのですから、私たちは永久に物質の世界に住み続けるのです。(個性を持っている限り……ですが)

 

 神は私達を通じて体験を得ているのではないかという質問に対して、シルバーバーチは「そうではありません。」と答えます。しかし、部分が進化したなら、全体である神も進化するという理屈にならないでしょうか? シルバーバーチは答えます。

「それはあなた方を通じて顕現されている部分に影響を及ぼすだけです。それ自体も本来は完全です。が、あなた方一人ひとりを通じての顕現の仕方が完全ではないということです。霊それ自体はもともと完全です。/それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです」

 これは、けっこう勘違いしやすい所のようですね。某新新宗教の教祖の本にも「人間が進化することで、神も進化する」などということが書いてありましたし(^^;。
 しかし、これは考えて見れば当たり前、簡単なことです。∞(無限大)に1を足しても、答えは∞+1ではありません。同様に、100を足しても1,000を足しても、あるいは1万でも1億でも、∞は∞のまま、なんら変わることはありません。

 それと同じで、我々人間の霊性が、1から100に増えたとしても、それは無限の存在である神の要素が、より多く顕現できるようになったという事であって、決して無限の存在がより大きくなったという事ではありません。

 その事実をシルバーバーチは、“光”と“鏡”にたとえています。汚れた鏡では、少ししか光を反射できませんが、磨き上げられた鏡はより多く光を反射します。霊的進化の道は、鏡をコツコツと磨いていく作業であると言えるかも知れません。

 

 ここからいよいよ“善”と“悪”の問題に踏み込みます。

「あなたは完全な光をお持ちです。ですが、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で〃悪〃と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している〃不完全さ〃を意味するに過ぎません」

 ですから現在の人類が“悪”と考えているものの中にも神は宿っているのです。ただ、現れ方が不完全なのだということです。そして、現在の人間が考える“善”の概念も、それが不完全なものである以上、人類全体の霊的進化に伴って“悪”とされる日が来るのかも知れません。要は、現れ方の完全さの程度の違いなのですから。

「神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。晴天だけでなく嵐も法則の支配を受けます。/晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。/
 神は法則なのです。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在できません。/あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪(ユガ)み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できる性質は僧しみを表現する時に使用する性質と同じものなのです。/
 /病気にさせるものがあなたを健康にもするのです。愛させるものが憎ませもするのです。すべては神の法則の中で表現されていきます。それが人生のあらゆる側面を支配しているのです」

 善も悪も、方向性と程度の違いはあれど、本質は同じものであるという事でしょうか。

 

 ここで、悪を憎むためには憎しみという要素を学ばなければならないのではないか?という質問が出ます。

「私はそのような考え方はしません。私は悪とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。
/悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、従って物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない人間なのです。利己主義とは、利他主義が方角を間違えたにすぎません」

 許してしまってはいけないけれど、憎んでもいけないという事なのでしょう。なぜなら、善も悪も、霊的進化の途中段階を共に歩む仲間であり、同じ神の分霊なのですから。

 シルバーバーチが挙げた子供の譬は、とても分かりやすいですね。確かに、聞き分けのない子供のわがままを親が許していたら、しつけなんて出来ません。しかし、その「許さない」というのは当然、憎んだりするのとは違うのですから。

 今はまだ我侭な子供も、いつかは大人になります。そして、既に大人になっている人も、昔は子供だったのです。霊的な子供である“悪”とは、決して憎むべきものではないのかも知れません。(って言われてもねぇ……(^^;)

 

 それでは、悪魔とは何なのでしょうか? 悪として生まれついて、神に滅ぼされるまで、悪のまま生き続ける種族。善性のかけらも無く、徹底的に神とは対立する存在……。悪魔の概念とは、おおよそそういう風なものだと思います。

 しかし、シルバーバーチの神の定義を信じるとすると、「悪魔」の実在を想像するのは甚だ困難になります。全知全能の神と、それに対立する悪魔という概念は、矛盾しているからです。その矛盾を産み出した元凶は?……そうです、キリスト教です……ですよね、シルバーバーチさん?(と、呼びかけてみる(^^;)

「そうです。自分たちからみて悪と思えるものを何とか片付けるためにはそういうものを発明しなければならなかったのです。悪も進化の過程の一翼を担っております。改善と成長−−絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。人間にとって悪に思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。/改めるべき間違い、闘うべき不正が在存しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう」

 と言うことは、キリスト教的な「悪魔」観というのは、“悪”と人間を切り離してしまい、人間の霊性進化の可能性を阻害する思想と言えるかも知れません。いつ何時も、自分の内にも外にも存在し、少しずつ克服して行かねばならないもの。それが悪なのだと思いますから。
 そして、心の中身を磨けば磨くほど、その中にまた新たな“悪”が見つかり、それを克服しなければならなくなります。“悪”とは、僕たちの成長を手助けし、導いてくれる、霊性進化のナビゲーターなのかも知れません。

「進化の階段を登れば登るほど、改めるべきものを意識するようになるものだからです。/向上の道に終点はありません。無限に続くのです。それぞれの段階がそれまでの低い段階への勝利の指標にすぎません。/人生は一本調子(モノトーン)ではありません。光と陰/善と悪の双方が揃(ソロ)わなくてはなりません。人生はそうした比較対照を通じてのみ理解できるものだからです。闘争を通して、奮闘を通して、逆境の克服を通してはじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能性が発揮されるのです。そういう摂理になっているのです。/
 人間的存在としての神は人間がこしらえた概念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。/神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜならば、世の中が不変にして不可変、全智全能の法則によって治められていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです」

 

(初出2/26/96・3/07/96 Nifty-Serve FARION mes(16) )


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