心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('03.06.02)

六十二.現世のお浚《さら》


 

 私は嬉しいのか悲しいのかよくわかんない気分で、しばらくボーっとあたりの景色を見ていましたが、ふと自分の家の事が気になってきました。

『おじいさんは私の家については何もおっしゃらなかったけど、いったいそれはどこにあるのかしら。』

 私は岩の上からあちこち見回してみました。

 足元は一面の白砂で、その時私が立っていた岩以外にもいくつかの大きな岩があちこちに屹立《きつりつ》しており、そこにはねじれた松、その他の常緑樹が生えていましたが、よく見てみると中でも一番大きな岩山のすそに、一つの洞穴《ほらあな》のようなものがあり、そこに新しい注連縄が張りめぐらしてありました。

『きっとあれが新しい私の家に違いないわ。』

 私は急いで岩を駆け降りそこに行ってみると、思ったとおり岩山の底に八畳ほどの洞窟が自然にできており、そしてそこにご神体をはじめ私が日頃から愛用していた小机までがきちんと取り揃えられていました。

 一目で私は今度の住まいがとっても気にいっちゃいました。洞窟といってもそれはすごく浅いもので、明るさは外とほとんど変りありません。そして底から海までの距離がたった五、六間(約9〜11m)しかなく、あたりにはきれいな砂が敷き詰められていて、所々に美しい彩りの貝殻や匂いの強い海草などが散らばっていました。

『きゃー、三浦の海岸にそっくりじゃない。こんな素敵な所ならいつまでもいたいわ。』

 私は部屋を出たり入ったりし、しばらく座ることさえ忘れて少女のようにはしゃいじゃいました。

 今振り返ってみると、この海の修行場は私のために神界で特にもうけてくださった涙の捨て場所だったのでした。

 環境は人の心を映すと言いますが、自分が現世時代に親しんだ場所とそっくりの景色の中にひしと抱かれて、別にすることもなく一人でいますと、心はいつの間にか遠い遠い昔へと飛び、ありとあらゆる、どんな細かい事柄までもはっきりと心の底に甦《よみがえ》ってくるのでした。赤い貝殻一つや、かすかにざわめく松風一つでさえ、私にとってどんなに多くの思い出の種だったでしょうか。それはちょうどビデオでも再生して見せられているように、物心ついた小娘時代から三十三歳で亡くなるまでの、私の生涯に起こった出来事がすべて細大漏らさず、ここで復習《おさらい》させられました。そんなわけで、この海の修行場は私にとって涙の捨て場所となったのでした。先ほども申したように、最初は辺りの景色が気にいってはしゃいじゃいましたが、それもほんの束の間のことで、その後はただ思い出しては泣き、泣いては思い出し、よくもまあ涙が枯れなかったものだわと感心しちゃうほどに泣き続けました。元来私は涙もろいたちで、今だってすぐ泣くクセは治りませんが、さすがの私もあの時ほど立て続けに泣いた事は後にも先にもありません。

 だけど思い出すだけ思い出し、泣きたいだけ泣いた後に、何ともいえないしんみりとした安らかな気分が私を包みました。こんな意気地《いくじ》なしにも多少なりとも心の落ち着きが出てきたのは、確かにあの海の修行場で一生涯の復習をしたおかげだと思います。今ではあれが私にとって何よりありがたい修行場だったと感謝せずにはいられません。なおここはただ昔を思い出す場所であったばかりでなく、現世時代に関係のあった方々との面会の場所でもあり、私はずい分色んな人々とここで会いました。一例として私の実家の忠僕と夫に会った話でもしましょうか。とくに面白い事なんかないと思いますけど。

 


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