心霊学研究所
『小桜姫物語』浅野和三郎著
('02.08.19公開)

三十三.自殺した美女


 

 次は、ある事情のために自殺してしまった一人の女性との会見のお話をしますね。少し陰気な話なので、お聞きになる方はあまりいい気持ちはしないかもしれませんが、こういった物語も現世の方々にとっては多少の参考になるかなと思います。

 その方は生前私と仲のよかったお友達の一人で、名前はあの敦盛の字を書いて敦子《あつこ》さんといいます。生家は畠山といい、大変由緒ある家柄でした。その畠山家の主と私の父とが日頃懇意にしていた関係で、私と敦子さんも自然親しくなったんです。お年は敦子さんの方が二つ年下でした。

 お母さまがそれは美しい方で、お母さま似の敦子さんも眼の覚めるような美人で、特に髪の生え際なんかは、女の私でもふるいつきたくなるほどおきれいでした。『あんなに美しく優れた器量に生まれて、敦子さまは本当に幸せだ。』なんて、誰もがうらやましがったものです。でも後から考えると、そのご器量がかえって身の仇となったようで、やはり女はあまり醜いのも考えものですが、逆にあんまり美しすぎるのもどうかななんて思っちゃいます。

 敦子さんの悩みは早くも十七、八の娘盛りから始まりました。あちらこちらから雨のように縁談が降ってくるようになったんです。その中にはずい分いい話もあったようなんですけど、敦子さんはとにかく片っ端から断ってしまいました。そうするのにはもちろん彼女なりの理由があったんです。よくある話なんですけど、ある親戚の幼なじみの若者がいまして、敦子さんはこの若者と思い思われる仲になってしまい、ゆくゆくは夫婦に、なんて二人の間に勝手に約束ができていたのでした。これが二人の希望通りになれば何の世話もないんですが、昔から月に群雲《むらくも》、花に風なんていいますように、何か両家の間に事情があって、二人はどうしても一緒になることができないのでした。

 というわけで敦子さんの婚期は一年また一年と遅れていきました。敦子さんはその後すっかり自棄《やけ》気味になっちゃいまして、自分は一生お嫁になんか行きたくないなんて言って、ご両親をずい分困らせました。

 ある日敦子さんが私のところに訪ねてきたとき、私は次のように言い聞かせました。『自分達が良いのも結構だけど、こういうことはやっぱりご両親の許しを得た方がいいんじゃないかしら。』そう言うと、敦子さんは別に反対もせず、かといって納得したようにも見えませんでした。

 それから幾年かが過ぎ、男の方があきらめてどこからか妻を娶《めと》った時に敦子さんも我が折れて、とうとうご両親の勧めるままに、幕府に出仕しているある武士のもとへ嫁ぐことになりました。それは敦子さんが確か二十四歳の時の事でした。

 縁談がすっかり整った折に、敦子さんははるばる三浦まで挨拶に来られました。その時に私の夫も彼女に会いましたが、『あんな美人を妻に持つ男はなんて幸せだろうね。』なんて言ったぐらい、それはそれは美しい花嫁姿でした。でも詳しい事情を知っている私は、美しいお顔にどこか寂しげな様子が感じられました。それは新婚を喜ぶというよりむしろ、辛い運命に仕方なく服従しているといった風情《ふぜい》なのでした。

 ともかくこんなわけで敦子さんは人妻となり、やがて男の子が一人生まれて、少なくともうわべは幸せそうな生活を送っていました。落城後、私があの諸磯でわび住まいをしていた時などは、何度も訪ねてきてくれ、何かと私を力づけてくれました。一度敦子さんと連れ立って、城跡の夫の墓にお参りに行ったことがありましたが、その道々敦子さんが言った言葉は、今でもはっきり覚えています。

『いったい恋しい人と別れるのに、生き別れと死に別れ、どっちが辛いかしら。もしかすると生き別れの方が辛いんじゃないかしら。あなたの今の身の上も辛いでしょうけど、少しは私の気持ちも察してくださいな。今の私はまるで生ける屍なのよ。たった一人の可愛い子供があるばっかりに、やっとこの世に生き永らえているの。もしもあの子がいなかったら、私なんかとっくに…。』

 現世時代の私と敦子さんの関係はざっとこんな感じでした。

 


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