心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('02.01.31登録)

第十信 欧州大陸の一角(3)
元は黒海艦隊の司令長官


 

 翌二十五日、今日はパリを辞してスイスに入る予定なので、身なりをととのえて待っていると、果たして十時過ぎに、例のクック社の老案内人が、自動車で迎えに来ました。

 「あなたの英語は実に立派ですね」と、私は疾走する自動車の中で、さっそく老人に話しかけました。「どこで習ったんです?」

 「実は私はフランス人ではないんです。……私の本国はロシアで……お国へも四回ほど参りました」

 「えっ、日本に四回も来たことがあるんですか? 職業は何です?」

 「実は……」と、老人は少々口ごもっていましたが、ようやく決心がついたらしく「実は私は海軍の将校でした」

 「海軍の将校!」と、私は少なからずびっくりして、「では日本へは軍艦で来られたのですネ」

 「そうです。日露戦争が終わった時は、捕虜を受け取るために、私が艦長として長崎へ参りました」

 「艦長ですって……。それが今パリでクック社の雇われ人なのですか?」

 「イヤお恥ずかしい話ですがその後、もっと昇進して、実は黒海艦隊の司令長官だったのです。司令長官の案内人。……運命という奴は、イタズラものですヨ」

 そう言って、彼はフランス式に両肩を軽くゆすって、両掌を前面に拡げました。

 「イヤそいつは実にどうもお気の毒です」と、私も心からびっくりもし、また同情もしました。

 「お年はおいくつです?」

 「七十一です。が、身体だけはお陰でこの通り達者で……」

 「お国へはまだ帰れませんか?」

 「帰ったら、すぐに逮捕されてしまいます」

 ホテルからリオン停車場に着くまで、二十分ほどの間、私たちは間断《かんだん》なく応答を重ねました。他にもいろいろ身の上話や、感想などを聞きましたが、中でも私の興味を引いたのは、彼の労農政府《ろうのうせいふ》(訳注:ソビエト連邦政府)への評価でした。

 「あんなものは、過渡時代のシロモノに過ぎませんよ。帝政時代に積もり積もった弊害を一掃すべく出現した、一種の破壊用具で、やがてその次の時代にホンモノが現われます。私は年はとっても、希望は常に捨てません。これでもより良き日を目撃してから死ぬつもりでいます」

 私たちはリオン停車場のプラットホームで、固く握手して別れましたが、その時私がそっと握らせた、少しばかりのチップに対して、老人は丁寧に謝辞を述べました。

 栄枯盛衰の移り変わりの哀れな物語は、いずれの時代、いずれの国土にも、よくあることですが、花の都のパリにおいて、思いがけず遭遇したこの日の一挿話は、私に対して実に深刻な印象を与えたのでした。

 「世の中はさまざまだ……」

 汽車に乗ってからも、しばらく老案内人の姿は、私の眼底を離れませんでした。

 


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