心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('01.03.15登録)

第七信 ロンドン雑記(3)
『ライト誌』社を訪ねる


 

 私がシベリア旅行の疲れからすっかり回復し、またいくぶんロンドンの地理にも通じかけて来たのは、八月十日過ぎでした。

 「これからボツボツ小手調べに、心霊学界の人たちに会ってみようかしら……。それにはまず誰を訪ねたら良いかな?」

 ご承知のとおり、八月という月は、ロンドンでは、面会にもっとも不向きな時期で、少し気のきいた人たちは、大抵どこかの海岸などで過ごし、市内に残るものはいません。ロンドン着早々、私が会おうとしていた二、三の人たちなども、いざ問い合わせてみるとことごとく不在でした。そんな次第で、私はなるべく無駄足を踏まぬ用心をして、二、三の心当たりの人々に手紙を出して、在不在を問い合わせしてみる事にしました。すると『ライト』誌の主筆ガウ氏の息子さんから、八月十三日の日付で真っ先に通信が来て「父は今日事務所に出勤しません。また明日は雑誌の締切で多忙のため、お目にかかれませんが、十五日の午後三時頃においでくだされば、喜んで面会をいたします」との挨拶でした。

 十五日は幸い天気も良かったので、私は青柳君をつれて、朝の十時頃から宿を出て、行く途中のついでに、ハイドパークやケンジントン・ガーデンをぶらつきました。ロンドンの真ん中にありながら、思い切ってだだっ広く、池あり、森あり、草地あり、充分極東のお上りさんを、あっと言わせるだけの価値があるのでした。

 「こうしてみると、日比谷公園はちと狭過ぎるナ」

 すぐにお国を引き合いに出したがるところが、お上りさんのお上りさんたるゆえんでしょう。さんざん歩きまわった挙句《あげく》に、とあるレストランで昼飯を食べると、モウお約束の午後三時近くなりましたので、ただちにサウス・ケンジントンの『ライト』誌事務所を訪れました。

 案内されて幾つかの階段を上って応接室に入ってみると、テーブルやら、書籍やら、写真やら、ゴチャゴチャになっているところ、やはり雑誌の発行所だなという感を与えました。真っ先に会ったのはガウ氏の令息ニールさんで、年齢は三十余才の元気者、編集事務は、この人が主として受け持っているらしいのでした。まもなく入って来たのは、イギリス人にしては並外れて小柄な老人。紹介されるまでもない、それはかねて写真で見覚えの主筆タヴィッド・ガウ氏でした。

 「初めてお目にかかります。よくおいでくださいました、アサノさん」

 ガウ氏特有の落ち着いた、しかし情味《じょうみ》のこもった態度でそう言って私を迎えました。

 「お忙しいところを飛んだお邪魔をいたします」と、私もヘタな英語で挨拶をしました。マンチェスターのオーテンさんから、ぜひあなたにお目にかかれとのお手紙でしたので、真っ先にこちらをお訪ねすることにしました。これがロンドンへ着いてから、私のする第一回の訪問です……」

 「そうでしたか、まあゆっくりしなさい。いろいろあなたに紹介したい人もいます」

 私たちは椅子を近づけて、いろいろ話し込みました。私は問われるままに、日本における心霊研究、ならびにスピリチュアリズムの状況をお話しし、また持参した拙著『心霊講座』を取り出し、堂々と日本の文字で署名してガウ氏に進呈しました。

 「これがあなたのご署名ですか。フム、右から左へと縦に読んで行く……。残念ながらさっぱり読めません。ニール、お前も拝見せんか、アサノさんのご本を……」

 ニールさんは、手に持つペンを投げ棄てて飛んで来ました。付近に居合わせた二、三の人たちも、ワイワイ言って書物を引ったくり返して見物しました。

 「日本のお方は全く偉いです。私たちは一字も日本文が読めないのに、あなたは日本文、支那の文字とをご存じの上に、完全に英語をお使いなさる」

 しきりに私に向かって、お世辞を言う者もありました。私は苦笑しながら、

 「イヤ完全に英語を使えるといいですが、とてもダメです。外国語では、思っていることの十分の一も言い表せません。その点において、極東の心霊家は、常に大きなハンディキャップを背負っていますよ……。実をいうと、日本にもあなた方にご紹介したい霊的事柄はたくさんありますが……」

 「そうでしょう、そうでしょう!」

とガウ氏は大きくうなずきました。

 やがて私はガウ氏に案内されて、階上階下の室々を巡覧しましたが、図書室、心霊実験室、客室、編集室など、なかなか立派な設備がそろっていました。そのうえ建物の最上階で、『米国心霊研究協会』の在外審査部長ハアリイ・プライス氏に面会したのは、実に意外でした。いろいろと聞いてみると、同協会のロンドン本部はここに設置されているので、かのフランスの名霊媒ステラC嬢に関する実験なども、皆この部屋で行われたのでした。

 「あの霊媒は驚くべき正確さです。今年の九月か十月かには、またロンドンへ来るはずです」

 「その際は、私にも立ち会わせていただきたいですが……」

 「なるべく都合をつけましょう」

 私たちは固く握手して別れました。

 そうするうちに、ガウ氏からの電話で、五十余歳の元気な婦人が、大急ぎで応接室に現れました。

 「バッガレーさん、この方は」と、ガウ氏はパイプを口から放しながら私を紹介して「日本の心霊家のアサノさんです。あなたは日本に住んでいた人だから、きっと話が合うでしょう」

 バッガレー婦人は、直ちに私の手を取って固く握りました。

 「初めてお目にかかります。ずっと以前、私は三年間ほど神戸に住んでいたことがあります。また私の長男は日本で生まれたのですが、外交官として、二年前まで東京の英国大使館に勤務していました。現在はこちらに帰っています。日本の方と承ると、私は懐かしくてたまりません。ぜひ宅へおいでください。エーと明後日の午後二時、宅で昼食を差し上げたいですが、お差し支えはないでしょうネ。息子にもご紹介します。ガウさんもプライスさんも、ご一緒に願います……」

 夫人は一人でまくし立てますので、私たちはいささか煙にまかれた様子で、否応なしにご馳走になることに決まってしまいました。そうするうちに、夫人は他に用事があると言って、さっさと帰ってしまいました。聞けば夫人の生国はアメリカだそうで、その姉さんが神戸に来ていた関係から、同地を訪問中、英国の貿易商バッガレー氏と結婚したのだそうです。夫人にとって、日本が深い思い出の種となるのも、まさしく無理もない話でしょう。

 私たちが『ライト』社を辞したのは午後五時半ごろでした。英国における第一回の訪問として、これは私にとって非常に意義深いものであったのみならず、ガウ氏の情味ある態度と、公明透徹《こうめいとうてつ》せる持論とは、無上の好感を私に与えました。その後私は、同氏の著述である『スピリチュアリズムの主張と理想』とを読むにいたって、ますます敬服の念にたえず、英国がこれほど高邁で優れた見識の人物を有することを祝福せずにはいられませんでした。

 八月十七日午後二時には、私は約束に従い、単身でペルラムのバッガレー夫人を訪ねました。家庭訪問としては、それがロンドンでの皮切りなので、お上りさんいささか戸惑い気味でしたが、まずどうにかなるだろうと腹を決めて、宛名と番地を突き止めて、案内を乞いました。場所はサウス・ケンシントン停車場から遠からぬ困難な所で、あたりにはほとんど通行人の影も見かけないくらいでした。

 さっそく案内されて、二階の応接室に通りましたが、廊下には広重の版画が何枚も掛けてあり、また室内の装飾も、蒔絵《まきえ》の重箱をはじめ、日本品がたくさん並べてあり、さすがに日本びいきの外人の家庭だと納得させられました。

 真っ先にひょっこりと現れたのは、二十才前後の令嬢で、愛想よく私を迎えました。

 「ようこそ……。あなたのことは母から承りました。----どうぞお取りください」と言って、さっそくシガレットをすすめてくれました。

 「あなたも日本でお生まれですか」

 「いいえ私はこちらで生れました。私は残念ながら、まだ日本を存じません。そのうちぜひお国へ参りたいと思っております」

 こんな話をしているうちに、バッガレー夫人が来る、プライス氏が来る、ガウ父子が来る、また外交官の息子さんが来る。なかなか賑やかな一座になりました。息子さんというのは、三十二、三の容貌の優れた紳士で、誰が見ても、なるほど外交官だと納得される物腰《ものごし》でしたが、われわれ日本人から見て、何やら日本くさい匂い、何やら日本的な風韻《ふういん》、と言ったようなものが具わっているのは不思議でした。

 「やはり人間は、生まれた国土の影響から全然逃れることができぬものと見えますね。あなたはどこやら純英国人とは違いますヨ」

 私がそういうと、当人も「そんな所があるかも知れませんネ」と言って、母親と顔を見合わせて、意味深い微笑を浮かべました。

 やがて昼食の準備が整ったというので、私を中心として、一同階下の食堂に集まり、芳醇な葡萄酒の杯を挙げながら、非常に結構なごちそうのおもてなしに与りましたが、極東のお上りさんには、座談に伴って、適宜な受け答えをするべく努めという、それだけのことが相当大きな負担で、気の置けぬ日本人同志が、神楽坂裏の飯屋へでも行って、勝手な広言を吐きつつ、徳利を倒すようなわけには行きませんでした。「少々コリャア肩が凝るナ!」 私は心の中でそう感じざるを得ませんでした。

 が、この種の経験の初陣としては、案外これはというほどのボロも出さず、どうやらお茶を濁して席を終えたのは、自分ながら上出来の感がありました。帰途にはまたガウ氏と連れ立って、ライト社に立ち寄り、一時間ばかり話し込んで別れを告げました。

 宿へ戻った時には、ヤレヤレと軽いタメイキを一つ吐いたことでした。(三・八・二九 ハムステッドの仮住まいにて)


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