心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
('00.09.05登録)

第六信 ロンドン雑記(1)
ロンドンの宿


 

 私が七月三十日の午後、イギリスのドーバーに近づいていたことは、前便で申し上げましたが、それからいろいろな事件が身辺に集中して、落ち着いて筆を執る暇《いとま》がなく、心ならずも三週間ばかり報告を怠りました。今日は天気も曇り、訪れて来る人もいませんから、ポツリポツリ思い出のまま、なぐり書きをすることにしましょう。

 イギリスに着いてまず驚いたのは、気候のイヤに薄寒かったことで、道行く人々は厚い外套を着、毛皮の襟巻きを巻きつけているものが、なかなか多いのでした。ことに、暑い極東から急にこんな西の国にまぎれ込んだ疲れた旅人には、気候の急変は少々難儀な話で、私はとうとう風邪をひいてしまい、一週間ばかりはクシャミの連発でした。私がすっかり旅の疲れと風邪とから回復し、土地に慣れて来たのは、八月七、八日頃だったでしょう。こうしてみると、シベリア経由も、一度なら面白い経験ですが、二度やりたいとは思いません。少々面倒くさくても、やはり船の旅の方が身体には楽なようです。

 ドーバーでは税関の検査を終わると同時に、私はすぐ汽車に乗り込んで、ロンドンに向かいました。あらかじめ聞いてはいましたが、汽車の沿道、どこへ行っても、生垣《いけがき》に縁取《ふちど》られた草原のような森ばかり多いのが、まず眼につきました。右を見ても、左を見ても、ちょうど奈良の公園みたいなところばかりで、耕された畑地《はたち》も極めて少ない。もちろん鹿はいませんが、その代わりに羊だの、牛だの、馬だのがのそのそしています。なるほど、英国が強大な海軍力と、植民地経営と、商工業とに全力を挙げているはずだとうなづかれました。

 間もなく汽車の沿道には、無数の赤レンガ造りの家屋が、ゴチャゴチャ見え出しました。その構造は大てい似たり寄ったり、三階か四階の二棟つづき、四棟つづきなどで、裏にはきまって細長い芝生の内庭《うちにわ》が付いています。小ざっぱりしてはいますが、いささか型にはまって、窮屈な感がないでもありません。関西の御影《みかげ》あたり、関東の大森あたりの住宅のそれぞれの展開とは、かなり様子が違います。その後ロンドンの近郊を、ちょいちょい歩いて見ましたが、どこへ行っても、大てい同様の感を与えます。別に悪いとは思いませんが、日本でその真似《まね》をしたいとも感じられませんでした。

 私たちの乗った汽車は、間もなく郊外の住宅地を突き抜けて、石とレンガ、自動車、電車と、人間とで埋まった大都市に入り、とある大きな停車場に着きました。車掌からこれはヴィクトリア停車場で、終点だと注意され、極東のお上りさんは、ともかくも赤帽を呼び、ともかくもタクシーに乗っかりましたが、実は大陸とは違って、言葉が楽に通じ、また広告だの看板だのが読めるので、ホッと安心の胸をなで下ろしたのでした。

 少し勝手が判るまで、一時日本旅館に腰を落ち着ける覚悟で、私は自動車をデンマーク街の「ときわ」に着けましたが、あいにく満員だというので、「ときわ」の紹介で、パディントン街の「東洋館」というところに行って鞄をおろしました。あまり景気のよい宿ではありませんでしたが、主人も番頭も日本人で、日本人のお客さんが五、六人も泊まっているのを見た時は、ちょっとなつかしい気がしました。その晩はさっそく風呂に入ったり、刺身で一杯傾けたり、どの日本旅客も喜んでやりそうなことを、私もやって喜びました。

 翌朝は、さっそく海軍監督官事務所に電話をかけて、機関中佐のWさんと、Aさんとに来てもらい、とりあえず日本大使館に連れて行ってもらったり、付近を案内してもらったり、宿の相談をしたりしましたが、少々悪寒《おかん》がするので、その日は早く宿屋に引きあげました。

 翌八月一日、昨日出したロンドン着のハガキを早くも見たと言って、満鉄の青柳さんが飛んで来てくれました。ここで急転直下的に私の宿がきまり、午後にはさっそく東洋館を引きあげて、ハムステッドの民家に移動しました。

 ハムステッドは、ロンドンの北の外れで、東京ならまず飛鳥山というところです。すぐ後ろはいわゆる「ハムステッドの草原《heath》」で、高低起伏する3km(訳注:原文では三十丁)四方ぐらいの空地になっており、大人の暇人たちが、しきりに凧《たこ》をあげて遊んでいます。ヒースは朝夕の散歩には、実におあつらえ向きの場所で、最も高い場所は海抜五百フィート(訳注:約150m)、空気はロンドンで一番上等だと称せられます。私の宿のすぐ付近なども、樹木が密生しており、そこに詩人キーツの家があります。今でこそこの辺はロンドンの郊外になっていますが、二、三十年前までは、純然たる村落だったということです。

 私の宿そのものが、日本人とはなかなか深い縁故のあるということも、また棄てがたい点で、この十数年でここに宿泊した日本人は、ひょっとすると数十人にのぼるでしょう。奥さんは今年四十三歳の快活で親切な人で、よく食事の後などに、以前下宿していた人たちのウワサ話をしますが、感心なことに他に迷惑を及ぼすような話は一切口にしません。

 「あなたのお部屋は、神戸高商(訳注:旧制の高等商業学校)の校長をしておられたWさんが草分けです。私のところでは、あの部屋がとっておきの一番上等な部屋で……」奥さんは得意になって語り出します。「それからWさんの少し後には、K男爵が長い間あそこにおられました。もっともあの方は始終《しじゅう》ここに住んでおられたのではありません。普段はケンブリッジ大学にお住まいになり、土曜、日曜とか、冬休みとかいう時に、私のところをご自分のホームにしておられたのです」

 「あの方の夫人は有名な美人であり、また才媛でありましたが、惜しいことに今年の春亡くなられました」

「そのことは私も人から聞かされました。ほんとにお気の毒なことでした」

 私たちの会話は、大抵この程度のもので、少しも突っ込んだものではありません。従って毒にもならないが、また薬にもなりません。

 私の部屋の因縁来歴はとまれかくまれ、部屋そのものは、二階正面の二十畳敷きぐらいの広さのもので、日当り、風通しなど少しも申し分なく、家具什器なども、素人下宿としては、恐らく最上位に属し、極東の心霊旅行家が、ロンドンならびにイギリスをのぞくための仮根拠地としては、誠に申し分のないところです。

 私はこの部屋に腰をおろした瞬間に、初めて、いくぶん旅心地が失《う》せて、ここなら落ち着いて仕事ができそうだ、というような感じがしました。

 私のところには青柳さんをはじめ、他にも日本人が二、三名、西洋人が一、二名いますが、ちょいちょい移動があるので、朝夕の食堂の顔ぶれが、必ずしも一定はしていません。ここで一ばんの古顔はO夫人と称する三十余歳の英国夫人で、どこかに毎日通勤しております。その人がいるばかりに、われわれは食卓で強いて英語を使用しますが、どちらにしても多少不都合があるようで、「英語を喋りながら飯を食うのは、何だか旨くない」などとこぼす人もあります。

 他人にとっては、さほど興味のありそうもない、宿のことを少々長たらしく書いたことは、はなはだ恐縮ですが、ともかくも、私がここをロンドンの根拠地として、朝夕を送り、そして市内に用事ができると、ハムステッドの終点から乗合馬車に乗ったり、またはベルサイズの停車場から、地下鉄に乗ったりして、人並みに行ったり来たりしているものと、想像して頂きたいのであります。(三・八・二三)


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