心霊学研究所
類魂とは何か

類魂とは何か----生まれ変わりの謎を解く

その3


今回は、スピリチュアリズムの霊界通信の中でも、古典的名著といわれる
『永遠の大道(The Road to Immortarity)』1932年
から紹介します。

霊媒は、ジェラルディーン・カミンズ(1890-1969)。参考までに紹介すると、カミンズの霊界通信で、他に翻訳されているものには、
 『イエスの少年時代』山本貞彰訳  潮文社 1200円
 『イエスの成年時代』山本貞彰訳  潮文社 1300円
 『イエスの弟子達』 山本貞彰訳  潮文社 1200円
 『人間個性を超えて』梅原伸太郎訳 国書刊行会 3800円(絶版)
などがあります。

通信霊は、F・W・H・マイヤース(Frederick William Henry Myers 1843-1901)生前は、古典学者、詩人。スピリチュアリズム初期の最も重要な心霊学者の一人でした。『人間個性とその死後存続』などの著書があり、「超常的(supernormal)」「テレパシー」などの言葉を造ったのもこの人です。SPR(英国心霊研究協会)の会長も勤めています。
死後、G.カミンズを通じて『永遠の大道』『個人的存在の彼方』などの霊界通信を送ってきました。

『永遠の大道』には、三種類の訳が出ています。
  『不滅への道----永遠の大道』梅原伸太郎訳 国書刊行会 3800円
  『永遠の大道』       浅野和三郎訳 潮文社   1545円
  『永遠の大道』       近藤千雄訳  心の道場(自費出版)

ただし、梅原訳のものは、既に絶版のようです。浅野訳のほうは、大正時代のものの本文復刻版で文語体なので、ちょっと読みずらいかもしれません。しかし、美文家で名高い浅野氏の訳文も、一読の価値はあるかもしれませんね。興味のある方は、是非読んでみていただきたいと思います。残念ながら、こちらは妙訳です。
最近になって待望の近藤千雄訳のものも出ましたが、残念ながら自費出版です。実はこれは僕もまだ手に入れていません。(いつも注文しなくてはと思ってはいるんですが……。いけませんね、無精で(^^;)


『不滅への道----永遠の大道』梅原伸太郎訳より

 類魂は一にして多である。一つの霊が全体に生命を吹き込んで多数の魂を一つにまとめている。前にも述べたと思うが、脳髄に中枢があるように、心霊的生命にあっては多くの魂が一つの霊によって結びつけられ、その霊によって養われているのである。
 地上生活にあった時も私は類魂の一分枝に属していた。その場合本霊は目に見えない根のようなものである。(P.81)

ここで本霊と呼ばれているのは、類魂の中心霊のことです。
本霊が根のようなものであるという考え方が、ここではポイントになると思います。

 魂的な次元の人の多くは再び地上に再生しようとは思わないものである。しかし彼の本霊は何度も地上に姿を現す。本霊は、霊的進化の途上にあって、互いに作用しあう類魂を束ねているのである。(P.82)

翻訳の関係でしょうか? ここは、少し意味がつかみにくい気がしますね。この「彼の本霊は何度も地上に姿を現す。」の部分を、浅野訳を見ると

彼等を司配する霊(スピリット)は、幾度でも自分自身を地上に出現せしめる。

ほとんど同じで、やはりちょっと難しいですが、こちらの方が少し解釈がしやすいです。ここには、本霊が地上に姿を現すという風に書いてありますが、はっきり言って(マイヤースの理論、及び本書の前後の文脈から見て)類魂の中心霊が地上に全部的再生をしてくることはあり得ないことです。
ですから、ここでかかれている、「本霊が自分自身を地上に出現せしめる」というのは、創造的再生の事だと思って貰えば間違いないと思います。


類魂説を理解できると、カルマや再生などに関する難問が、すっきりと理解できるようになると言います。

馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないが、われわれが前生で犯した罪の償いのために地上に再生するというのは、ある意味では本当なのである。前生は自分の一生であってまた自分の一生ではない。いいかえれば、私と同じ類魂に属するある魂が私がこの世に生を受ける以前に前生生活を送り、私の地上生活のための枠組みを造ったのである。(P.81)

 仏教徒が輪廻転生について語るとき、それは半分の真実を語っているのである。そして半分の真実とはしばしば、全面的誤謬よりも不正確であることが多いものだ。私という存在は二度とこの世には再生しないのである。がしかし、わが類魂の中に加わろうとする新しい魂が、私が織り込んでおいた模様ないしカルマの中に暫しの間入り込む。私はここで「カルマ」という語を甚だ漠然と用いている。というのも新しい魂が受けつぐのはカルマ以上のものであり、また以下のものである。(P.82)

もちろん、こうした「カルマの法則」や、「類魂の存在」をすべての霊が知っているわけではありません。

死後のこちらの世界で、我々は進歩の度合いに応じて類魂というものに気づかされていく。結局われわれはその中に入っていき、わが仲間達の経験を自分のものとする。それゆえ魂としてのわれわれの生活は----自分の個人的自我は別として----二重生活なのだということを理解する必要がある。私は同時に二つの生を生きる。つまり、一つは形態の中での生活、また他の一つはわが属する共同体の意識のなかでの心的な生活である。(P.83)

マイヤースは、「われわれは個人であるとともに全体の一員である」とも言っています。このように類魂と結ばれて、全体との内面的な生活にはいることによって、かえって一人一人の存在の意義が深まり、(地上世界の生物にとってはある意味では必要悪である)利己心から解脱していく事が出来るのです。
もちろん、そういう境地に到達するのは、かなり進化してからになるのでしょう。しかし我々地上世界の人間でも、多かれ少なかれ類魂からの影響力の下で生きているのは間違いのないことです。例えば「インスピレーション」などが、そういう影響の一つです。

しかし、一歩間違うと、酷い過ちに陥る可能性についてもふれています。宗教霊のような存在を例に挙げて、次のように言っています。

類魂について知り、他の類魂の仲間達の感情的、知的経験を共有していく途中で、ある鋳型にはまった類魂の一局面に捉えられてしまうと、その魂は長くその鋳型から抜け出られなくなるからである。
 そうした例としてある特殊な世界にはまりこむ場合をあげたい。例えば狂信的な仏教徒やキリスト教徒達はこうした地上時代の信念の溝のなかに落ち込んでいる。それというのも、そのグループの他の類魂達も同じような観念の鎖に縛られてしまっているからである。そのためにその魂たちは進歩せず、キリスト教徒や仏教徒をつくりあげている一思想ないし一記憶の世界に留まり続ける。まるでタコのアシにしっかり捕らえられてしまったようである。タコとはすなわち、死後の世界について彼等の持つ地上的観念、つまり地上でつくりあげた世界観にほかならないのである。(P.84)

こういう状態に一度陥ってしまうと、元の進化の道に戻るのは容易なことではないようです。マイヤースはこのような状態のことを「知的なさなぎの中に住んで過去の地上的観念に生きること」と言っています。
もちろん同じ事は宗教だけでなく「科学的な諸観念」についても言えます。

何故なら、科学は次第に人類における多数者の宗教となり、特殊な世界観となる傾向が見られるからである。(P.86)

ただ僕自身は、こういうグループというのは、普通に言う「類魂」とは似て非なるものではないかという気がしていますが....


少し長くなってしまいましたので、ここで一区切つけましょう。まだ動物の類魂についてなど、興味深い話もあるのですが、それはとりあえず後回しにして、次回は同じくフレデリック・マイヤースの霊界通信で、「永遠の大道」を補う内容になっている「個人的存在の彼方」と言う本から紹介する事にします。

(初出 8/06/94 Nifty-Serve FARION mes13『神秘学遊戯団』#1641)
(4/13/98 補筆)


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