スピリチュアリズム勉強会&座談会
('01.06.11作成)

第一回('01年5月26日)
「スピリチュアリズム・ニューズレター」第13号について

その2



4)霊界に導かれて

あれこれ話しているうちに「自分の守護霊、背後霊の導きを感じた事はあるか?」という話が出てきました。

ペ:導きとはちょっと違うかも知れませんけど、大学受験の時、自分が全力を尽くせば後は善きに計らってもらえるだろう(結果は全て霊界の意志----導きである)という安心感はありましたね。

有希:いわゆる「人事を尽くして天命を待つ」という事ですね。

ペ:そうそう。それが実際に霊的真理に基づいた事実だということがわかるという事です。

長田:私は霊感は全く無いですから、自分が通ってきた道を見て、自分が選んで来たわけではなくやっぱり導かれてきたなと感じます。それと、自分が真理を伝えたい、解ってもらいたいという思いでいる時、自分の口から出ている言葉が後になって、何であんなに立派な事言えちゃったんだろう、と自分ではなく背後の霊が自分の口を通して言わせている、というのを感じた事もあります。

ペ:それはあります。スピリチュアリズムに関する文章を書いている時など、頭では考えてなくて、手が勝手に書いている感じがすることはよくあります。

有希:一種のチャネリング状態ですね。

ペ:まあ、そんな大したもんでも無いとは思いますが。でも、近いものはありますね。

有希:私もよくそういう感覚あります。昔聖書をたまたま見せてくれた人がいて、なかなか良い事が書いてあって、それをある人にどうしても伝えたいと思っていたんだけど、なかなかその人がつかまらなくてどうしたら良いだろうと思っていたら、たまたま団地の下を見たらその人がいてすぐに降りていって話をした事がありました。あまりにもタイムリーすぎたので偶然ではなく、そうさせてくれたんだというのをすごく実感として感じた事がありました。それが私が一番最初に霊界の力をその場で感じたことです。他人が聞くと笑えるような事でも私にとってはすごく新鮮でした。

長田:本の好きな人で何かを求めていると、丁度手にした本がそうで、与えられたとか導かれたと感じる事はよく聞きます。

有希:何か答えを求めている時に本を丁度開いたページにその答えが載っていることはよくありますよね。これこそ偶然ではなく、後ろからの何かの操作があることだと思うんです。真理を学び始めてからはそういう感覚がよくあります。ホームページを開いた時もそうでした。パソコンは持っていないし、インターネットなんて見た事もないのに、ある人から「有希さん絶対ホームページ開くべきですよ」と言われても、最初は「ホームページって何? パソコンを買うお金がないのにどうやって? たとえ買ってもやり方もわかんないし・・・」という状態でした。そうしたらふとパソコンを買うお金が臨時で入って来たんです。これはもう買わざるを得ませんでした。その後はもうとんとん拍子でした。ホームページを作ったのは私がしたのではなく、後ろから見えない力が働いていて私は操り人形のように動いていただけ、そんな感じがしています。本当に不思議な感じでした。

ペ:「シンクロニシティ」というヤツですね。でも、それをあまり気にし過ぎると、何でもかんでもシンクロしてるように思えて来ちゃうことがあって要注意ですけど。

 

5)「愛ってなんだろう?」と考えた事ありますか?

ペ:以前は、そもそも愛というものが分かってなかったので……。当時の僕にとっては空疎《くうそ》な概念でしかなかったし、勉強したり理屈をこね回してわかるようになるとも思えなかったので、無理に知りたいとも思わなかった。興味がなかったのかも知れませんね。

有希:私はある時から「愛とは何か」という解答が欲しくてしょうがありませんでした。でも誰に聞いていいのか解らないし、雑誌やテレビではほとんどが男女の恋愛ばかりで“ロミオとジュリエット”とか“ある愛の詩”が流行っていたけどいまいちピンとこなくてずっと「愛って何だろう」と思っていました。

長田:私も「愛って何だろう? なぜ生まれて来たんだろう?」と考えた時期があったけど答えがみつからないままにその事に蓋をして、自分が子供を持った時「愛する対象がいるってことは何て幸せなんだろう」ってその時初めて愛する事の喜びを知って、それから愛って何だろう?って考えるようになりました。子供が親になっちゃってどう育てたら良いのか? 良い親になるにはどうしたらいいのか? それから愛について真剣に考えるようになりました。

ペ:それは同感です。子供が生まれて、「愛ってこういうものだったのか、こういう気持ちがそうだったのか」って実感として感じた。それまである意味観念的に概念として知っているだけだったのが、「なるほどこういうものだったのか」って実感的に分かった。

有希:二人ともえらいですね。私は子供を産んで育てていてもそういうのを感じた事がありませんでした。子供を育てる事とペットを育てる事って私の中では延長線にあったんです。子供を育てる事も尽くす事も当り前でそれを愛だとは全然気が付いていませんでした。だからそういう話を聞くと何だか自分が情けない。

ペ:でも子供に愛情を感じられない人って結構多いみたい。案外普通の事なんじゃないでしょうか。多分、そういうふうだからこその“学び”があるのかも知れませんね。

有希:私が初めて愛を感じたのは自分の事を真剣に心配してくれているのを感じた時でした。学生の時も無意識のうちに愛を求めていて、誰かに声を掛けて欲しくて病気のふりをしてみたりしたけど誰も真剣に心配してくれませんでした。親もたいして心配してくれない。ある時思いも掛けずに私の事をすごく心配してくれた、理解してくれた、そういう実感を持った時に、あーこれってひょっとしたら愛なのかなーって、おぼろげながらにやっと思い始めた事がありました。自分が求めていた人間に出会えた事がすごく大きかったです。純粋に親以上に真剣に心配してくれたり、声を掛けてくれたりして、今まで親も友達もそういう事してくれなかったから一気に寂しさから解放され、救われたような感じでした。私の霊的人生はそこから始まったような気がします。
塾生を見てても、心配して欲しい、認めて欲しい、と訴えているのがよくわかります。しかも自分が欲しがっている時に欲しいんです。私も欲しい時にもらえてうれしかった経験があるから、そのタイミングがある程度わかるんです。人によっては愛だけ欲しい人、真理だけ欲しい人、それぞれにいると思うけど、私はその両方をタイムリーに手に入れることができました。愛をもらって真理をもらって、それを体験で実感して、そうやってつながって来たからとてもラッキーだったと思います。でも、本当の愛って何かというのは私にとっては永遠の課題です。ここまで体験してここまで理解すればいいかというとまたその次があるし、そこが理解できてもまたその次があるというように。

長田:愛って真理だけでは何も身につかない、実践がなければ愛にならないから、そこがすごく先があるようで永遠の課題だと思う。

有希:理論的に「利他愛とはこういうものですよ」と話をする事はそんなに難しいものではないと思うけど、それを実際に自分のものにできているかどうかとなると、本当に難しいと思います。

ペ:愛というのは頭で考えて理解するものではなくて、感じるもの----ブルース・リーのセリフじゃないけど(笑)。
そこから問題なのは、その愛情の気持ちをどう表現し、活かし、実現していくかという事だと思う。いくら子供を愛していても、溺愛したり厳し過ぎたりしてしまって、自分の中にある“愛”を活かしてやるのは案外難しい。
ま、それはともかく「愛とは何か」----やはり勉強してわかるものでもないという感じがします。

有希:でも最終的には霊的真理がわかって方向がわかっていないと本当の愛が何かっていうのはわかりませんよね。

長田:大きな目的があって、その為に今は何をしてあげればいいか、というのを考えていけばいいのかも。

ペ:うん、ただ、愛とは何かなんていうことを論じていると、自分達の現状から遊離してしまって、思想的な言葉の遊びになってしまうことはありませんか?

有希:それはあるかもしれません。

ペ:愛と子供の話が出て思い出したんですけど、以前に掲示板で幼児虐待の話が出た時、結局「祈るしかない」という話にいきなりなってしまって、「おいおい、もう少し何かあるだろ〜」と思ったんですよ。すぐに「祈るしかない」という観念的な結論に逃げてしまうのは、精神世界の人たちの悪いところじゃないでしょうか。

有希:私はそうは思いません。祈りはすごいエネルギーの1つだから、祈りの効果を知っている人はやっぱり祈ると思います。それで具体的に世の中が変わるかどうかというのは別問題ですが、そういう思いを持つ事に価値があると思います。祈る事で自分で自分に言い聞かせる事もできるし、少なくても自分の子供や周りの子供に対しては愛情を掛けなければという気持ちは強くなります。それから“100匹目のサル”と同じエネルギーの回り方があると思うので、多くの人が祈ればひょっとしたら変わるかもしれません。

ペ:いや、祈りという行為が持つ力を否定してるわけじゃないんです。でも、本ッ当にそれしかないのかなー。「何も出来ないから祈りを……」って言ってますけど、「何もできないから祈るしかない」という結論に達するまでに、本当に真剣に考えに考えているのかというと、そこまでの真剣味は感じられない。世を憂いる自分に酔っているようにも----もちろん本当になんとかしたい気持ちもあるのでしょうけど----感じるわけです。

有希:今の自分の実状からは遠いから、真剣には考えにくいというのはあります。

ペ:その憂い、問題意識が本物ならば、例えばその問題を考えるウェブサイトを立ち上げてみるとか、自民党やら民主党やら、自由党、社民党、共産党……そういうところにメールを出してみるとか。100人の祈りより100人の行動の方が絶対に力になると思う。“100匹目のサル”の話も嘘だったわけですしね(※ライアル・ワトソンの創作だったことが判明している)。
みんなで考えれば何か出てきただろうに、「何も出来ない」って結論出すのが早すぎると思うんですよ。僕がその論議を知った時には、もう話が終ってるんだもんな〜。でも結局、自分も何もやってないんでエラソーな事は言えないんだけど。

有希:世の中には色々な問題が多すぎて、日本だけでも人間の弱い部分に付込んだ事件が一杯あって、あれもこれも手をつけたらやりきれません。だからそういう意味も含めて、自分が関われない問題に対しては祈るしかないという結論が出てしまうんです。もし自分に降りかかって来たら、例えば隣の子供や塾生だったら祈るだけなんて事はできません。そこの家に行くなり、教育委員会や警察とかに行って何かしなければならないけど、遠い所の話なのでわざわざ出掛けていって反対運動とかできないですから、どうしても祈るしかないという結論が出てしまいます。ですからそれで片付けて欲しくないと言われてもしょうがないです。

ペ:結局、一人が何でもかんでも出来るわけではないので、自分もスピリチュアリズムのホームページをつくることで間接的にそれらの問題にも良い影響を与えて行ければと思っています。
スピリチュアリストは空想的な宗教家であってはいけないと思うんです。霊的な視点を持ちつつ、同時に現実社会への問題意識を持つリアリストでもあるべきで、祈るだけじゃない具体的な方法を求めてこそのスピリチュアリストだと思う。

有希:それは大切ですね。問題があるからじゃあ祈ってあげましょう、というのではキリスト教的なおざなりなお祈りと変わらないですから。

ペ:キリスト教でも祈ってるとお盆が回ってきますけどね〜、寄付金集めの。ちゃんと現実世界の具体策も追求してる(笑)。……あ、いや、これは冗談ですからね。別に寄附金集めを批判するつもりなんて無いですよ。


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