心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('99.8.29作成)

八章 信仰の対象


 

 本夕は『信仰の対象』という標題で、スピリチュアリストの立場から、考えを述べる事にいたします。現在の日本にも、ようやく精神的覚醒の機運が動き出したことは事実ですが、どうも本当ではありません。既成宗教は、自分を守るのに一生懸命で、いたずらに千年二千年前の神話にすがりつき、また大小無数の新興の教団は、信者集めに夢中になって、やたらに豪華なごちそうを陳列し、公平に考えて、これが果たしてアジアをリードすべき、日本国の精神界かと疑われる点が、あまりにも目立つのです。余計な事はさておいて、これらの信仰団体の掲《かか》げている信仰の目標が、乱雑不統一を極めていることは、そもそも何たる奇妙な眺め、いやむしろ何たる醜態でしょう。稲荷様、金比羅様、観音様、弁天様、阿弥陀様、イエス・キリスト、天理王命、艮之金神《うしとらのこんじん》様、金光大神、生長の家の神……並べ立てたらとても際限がありません。そしてそれらの何れもが、とにかく自分のところのご本尊をもって、一切の中心と主張したがるのですから、救いがありません。日本国は外形的には、一つの厳然たる統一国家ですが、精神的にはすこぶるまとまりの悪い、百鬼夜行国だと言われても、あるいは仕方がないかも知れないのです。

 皆さん! われわれが今もし一つの正確な羅針盤なしに、大海に乗り出したとしたら、その危険はどんなに大きいでしょう。いわんや波乱万丈の旅をするに当って、国民が理想、信念の正しい羅針盤、正しい指導原理を持ち合わさないとしたなら、それこそ掛け値なしに大変です。私どもが不敬をかえりみず、多年心霊問題に没頭し、この重要事項に対して、最終的な純学術的解決を与えるべく、畢生の心血を注ぎつつあるゆえんです。

 単なる信仰に立脚するものは、その信仰がぐらついた時に、根底から崩れます。ところが、正しい事実、正しい理論に立脚するスピリチュアリズムの主張は、たとえ天地が崩れても、貧乏ゆすり一つしません。千万人といえども我行かんの鉄壁の覚悟、鉄壁の信念が、正直なスピリチュアリストの胸に燃えるゆえんです。で、二十世紀の新時代、新日本はどうしたところで、スピリチュアリズムによって開けるに決っています。

 さて、スピリチュアリストから観た信仰の対象について、私の考えを申し上げる前に、私は一応過去を振り返って、既成宗教団体の信仰の対象が、どんなものであるかを一瞥しておきたいと思います。これについて、勢い少々アラ探しをしなければならないでしょうが、私の申し上げる所は、決してアラ探しのためのアラ探しでも何でもなく、真理の樹立のために、やむを得ず行うアラ探しですから、何とぞご容赦いだだきたい。困ったことに、どうも破邪と顕正とは、ある程度まで、いつも付きもののようで、すっかり両者を切り離してしまうことは、なかなか困難なのです。

 まず既成宗教団体のなかで、最も愛用されていた崇拝形式は、いわゆる
 生き神崇拝、または生き仏崇拝
です。これはつまるところ、超人間的な存在と、地上の一人物とをごっちゃにして、どことも区別がつかないように祭り上げてしまう鵺《ぬえ》的方法で、世界の大宗教たる仏教、キリスト教、道教など、いずれもこの手を用いています。イエス・キリストのインチキ性については、近頃英国の心霊家フィンドレー氏が、大変な意気込みで書き立てている通り、もともとイエスとキリストとは、全然別個の存在なのです。イエスは今日で言うなら心霊治療家、または心霊行者ともいうべき性質の、地上の人間です。これに反してキリストというのは、これは古代人の信仰とされている一つの神、つまり超人間的存在です。それならどうして、この二つの別個の存在が一つにまとめられたかというと、結局人間イエスの非業の死に伴って発生した心霊現象が、導火線となっているのです。当時の人間ははなはだ無邪気なので、何かちょっとした奇跡が起こると、すぐそれを神様のしわざにしてしまいました。「イエスは死んでから姿を現した。あれは神様だ、キリストだ、われらの救世主だ……」そんなことになってしまった。つづいて才覚と想像力に富んだ人々、なかんずくパウロのような、宗教的意識に富んだ人が現れて、人間イエスの周囲に、三位一体とか、贖罪とか、処女懐胎《かいたい》とか言ったような、当時流行の思想をくっつけ、その名称までもイエス・キリストと呼ぶことになり、ここに立派な、一つの生き神様が出来上がってしまったのです。筋としてはまことに面白い話ですが、しかし二十世紀の霊的知識をもって観れば、随分馬鹿げた、随分たわいもない事柄ではありませんか。仏教の釈迦も、その点は同様です。人間釈迦と、超人間的仏蛇とが、ごっちゃくちゃになっており、どこまでが事実で、どこからが小説なのか、誰にも到底判るはずがありません。これと同じく道教では、老子と太上老君《たいじょうろうくん》とがごっちゃにされ、カトリックではローマ法王とキリストとが、ある程度混同して取り扱われ、その他モンゴルの生き仏、大本教の出口聖師……程度の差こそあれ、こう言ったやり方はほとんど一切の既成宗教団体の、慣用の手法なのです。

 次に既成宗教団体によって、さかんに主張されたのは、
 聖書、聖典の崇拝
です。キリスト教に言わせると、バイブルは神の直接の言葉で、神聖不可侵だと言うのです。その癖その編集法は、すこぶる杜撰を極め、何のことはないエジプト、ペルシア、バビロン、その他の神話伝説類を種本として、いい加減に作り上げた寄せ木細工に過ぎません。しかも現在欧米各国で使われているバイブルは、相当誤謬に充ちた翻訳書と来ているのですから、考えてみれば、キリスト教会も、随分長い間、罪な真似をして、民衆をたぶらかしたものではありませんか。仏教とても、その点決してご多分に漏れません。無知な信者たちは、法華経の功徳で、病気が治ったなどと申しますが、あれは経文の効力で治ったものではなく、信者自身の信念の力で、病気に打ち勝ったのです。つまりこの際大切なのは信念で、有形の印刷物ではないのです。すべてこんな具合にお門違いを利用して、飯を食っているのが、既成宗教団体の奥の手で、現在でも、それがまだ一部の社会に相当行われているから、驚いてしまいます。あの生長の家などが、その好標本です。

 既成宗教団体によって愛用された、崇拝の対象物は、まだ他にもいろいろあります。偶像崇拝、宝物崇拝、霊地霊場の崇拝、……イヤなかなか行き届いたものです。時間もありませんので、そういう話は、いい加減に切り上げますが、ただここで見過ごしてならないことは、すべてこれらの崇拝の対象物に、一つの共通点があることです。ほかでもない、それは
 どれにも物質的要素が加わっていること
です。生き神・生き仏の崇拝、聖書・経典の崇拝、偶像崇拝、霊物崇拝、霊地崇拝……ただの一つの例外もなしに、地べたに片足を踏みかけているのです。ここに既成宗教の致命的欠陥があります。

 なぜそう言えるのかは、少し考えてみれば極めて明瞭でありましょう。一切の地上の物体に永遠性が無いこと----たったこの事一つで、物的崇拝は落第です。で、他にも数え上げれば、物的崇拝に伴う欠陥は、いろいろありますが、右の欠陥一つを挙げたのみで、この種の崇拝が、とうてい二十世紀の新人を満足せしむるに足りないことが、充分お判りでしょう。思えば地上の人類は、過去幾千年にわたって、この種の間違った崇拝のために、どんなにも幻滅の悲哀を満喫して来たことでしょう。ギリシア人は、かつてアレキサンダー大王に、絶大な希望をかけましたが、ひとたび大王の死に直面すると、万事休すの憂き目を見ました。その他シーザーといい、ナポレオンといい、豊臣秀吉といい、ただ彼らの生きている間が華であって、死んでしまえば、後には何物も残らないのです。もちろん宗教界で採用している崇拝の対象物が、これら人間の英雄崇拝よりは、いくらかマシで、永続性があることは事実ですが、しかし要するに、ただ五十歩百歩の差であることは、宗教界の現状が、何より雄弁にこれを物語っております。無知の善男善女ならともかく、少しでも理性の閃きのある人たちに、かの地上臭をおびた生き神様だの、誤訳だらけの翻訳書だのに、絶大な信仰をささげるものが、一人だってありますか?

 それにしても、過去の人類はどうして、こうした浅はかな物的崇拝のとりこになっていたのでしょうか? なぜ、もっと正しい神の信仰に入ることができなかったのでしょうか?

 その答えはまさしく非常に簡単です。つまり前時代の人に、近代科学という、精鋭無比の武器が欠けていたこと----ただそれだけのことです。今日であればこそ、われわれは超物質的エーテル界についての、正しい概念を持ち、さらに進んで、超物質的エーテル界の居住者と、交通の途を開くこともできますが、ひと昔以前の人たちには、全然その方法がない。これでは下らない迷信のとりこにもなろうというものです。要するにすべては時代の罪で、必ずしも職業的宗教者の罪とは言えません。買い手があるから売り手もあるわけで、時期が来ない間は、あんな事でもして、お茶を濁しているよりほかに仕方がなかったのでしょう。

 が、これは過去の話です。今日物質科学がここまで発達しているのに、いつまで地臭紛々たる、前時代のマヤカシモノを理想信仰の対象として、満足していて良いはずがどこにありましょう。われわれはこの際猛省一番、一切の伝統、一切の迷信からきれいに離脱し、哲学的、科学的、道徳的などの各方面から考察して、そこに一点のゴマカシもない、純粋無垢の対象を、理想信仰の標的と仰ぎ、新時代の建設に邁進すべきです。

 あまり時間の余裕もないので、これから早速本題に入ります。

 

 今更申し上げるまでもなく、物質的現象界の内面に、超物質的エーテル界が存在することは、今日ではすでに学会の常識となりました。これは最近の理論物理学、無数の霊界通信、各種各様の心霊実験などが、明示するところですから、なんら疑問点はありません。今日われわれが、全力を挙げて究明せねばならないのは、超現象の世界が、どんな組織を持っているか? また超現象の世界に、どんな居住者がいるのか? などの問題です。何となれば、これらの諸問題に学術的解決を与えることなしに、信仰の対象を論議することは、全然無意味だからです。単なる概念で満足するには、二十世紀の人間は余りにも穿鑿《せんさく》的、余りにも理知的です。くどいようですが、正しい事実、正しい理論----それよりほかに、われわれを満足せしむるものは、どこにもないのです。

 この際われわれが、衷心から感謝せねばならぬことは、生を日本国にうけて、古事記、日本書紀の古典に親しんでいた私たちが、知らず知らずのうちに、早くから超現象界の組織構成、ならびに超現象界の居住者についての概念を、養われていることです。日本以外の諸国民には、この特権がないので、いかにも都合が悪い。もちろん今までは物質科学も進歩せず、また心霊科学も発達しなかったために、日本古典の真価は、充分に発揮されるに至らず、肝心の日本人さえ、これを一つの伝説、一つのおとぎ話ぐらいに考えて、無視する傾向がありましたが、今日になって見ると、日本古典が世界中で、たった一つしかない、大天啓的文章であることが判明したのです。これを要するに、二十世紀のスピリチュアリズムと、祖先伝来の日本精神とは、その表現形式こそ違え、その内容はピタリと一致しているのですから、実に驚いた話で、その点われわれ日本国民は、世界中で一ばん天恵《てんけい》に浴しているわけです。

 こんな次第で、私がこれから申し上げるところは、どなたにも容易にお判りになるはずのことばかりです。なぜならば、それは近代スピリチュアリズムの指示するところであると同時に、また日本古典の指示するところでもあるからです。くれぐれも皆さまに慶んでいただきたい。こんな特権の所有者は、世界中で唯一日本国民あるのみで、支那、インド、欧米諸国の民族は、とてもそう上手い具合にいかないのです。彼らの頭の中には、どこまで行ってもキリスト教、仏教、儒教、道教などのドグマが、ある程度までこびりついていて、その結果、すらすらと真理の指示を受け入れる力が乏しいのです。近代スピリチュアリズムが唱道されるに至ったのは、日本が世界で一ばん遅い。しかしながら、近代スピリチュアリズムが、国民の実生活の中に取り込まれるのは、恐らく日本が世界中で一ばん早いかと期待されます。(訳注:残念ながら日本は、戦争に敗れて以降、日本的な文化、精神の多くを棄ててしまいました。今日の日本でどの程度の人が、古事記や日本書紀に親しんでいるでしょうか?)

 ご承知の通り、日本の古典は、超物質的エーテル界を、はっきりと三段に分けています。すなわち第一が造化神界で、これがすべての出発点です。第二が太陽神界で、地上の人間からいえば、これがすなわち事実上の宇宙です。第三が地球神界で、地上の人間が、直接司配されるのは、ほかでもないこの神界です。日本古典の表現法は、はなはだ神話的色彩にとみ、また含蓄がはなはだ深いので、うっかりすると、その真意を掴み損ねますが、幸いわれわれには、心霊研究の理論、ならびに幽明交通という、重宝な武器があるので、どうやらこれに正解を下し得るのです。拙著『日本民俗の使命と信仰』(訳注:本書六章として収録)の中には、大体その点の事情を明らかにしてありますから、何とぞご一覧を願います。造化神界、太陽神界、地球神界の三大界の系統脈絡が、お判りになると信じます。皆さん、ここまで科学文明の発達した二十世紀の時代に住みながら、今なお『神代』と『古代』とを同意義に取り扱うなど、まさに日本の面汚《つらよご》しであり、また祖先に対してはなはだ申し訳ない次第でもあります。

 とにかく右のように、超物質的エーテル界を、三大界に区分しているのは、世界のいわゆる聖書、経典中で、ただ一つ日本古典あるのみですが、今日われわれが、物質科学ならびに心霊科学の精鋭を引っさげ、百万の厳密な検討を加えてみても、実際分類法として、この右に出るものがないことは、世界のスピリチュアリストの、異口同音に認めるところです。この一事のみでも、日本古典は、まさに世界の古典中に君臨すると称してよいでしょう。

 さて、すでに超物質界が、右のごとく三大界に区分される以上、
 それぞれ各界に共通の法則があり、またそれぞれに各界に君臨する中心
があることは、言を待たずして明らかです。この点に関して、厳として指し示すところに間違いがないのも、世界中で日本古典ただ一つで、仏教といい、キリスト教といい、軒並みに落第です。仏教の『空即是色』思想は、とにかく超物質界を無差別平等視することに傾き、またキリスト教の一神論も、煎じ詰めればほぼ同様の弊害に陥り、到底理論物理学のエーテル波動説、または近代心霊科学の提供する事実と、相容れないのです。あるいはかの汎神論、多神論などに至っては、なおさらつまらないのです。何となれば、一切の組織を無視し、中心を無視した時に、後にはただ渾沌と、潰滅とよりほかに、何物も残らないからです。

 

 だんだんこのように説明して行くと、私たち地上の人類の信仰の対象が、何であらねばならぬかは、大体明白になったかと思考されます。すでにわれわれが、宇宙の一細胞である以上、われわれはまず宇宙全体を司配する一切の法則を遵守《じゅんしゅ》し、これと同時に、宇宙中心の実在、日本古典の天之御中主神を、信仰の最高目標とせねばなりません。つまるところ、これが第一義の神で、有限の人類からいえば、到底思索想像に余るほど奥深い神です。

 次に地球が、太陽系所属の一惑星である以上、われわれは、当然宇宙法則と共に、さらに太陽系を司配する一切の法則を遵守し、これと同時に太陽系中心の大神霊----日本古典の天照大御神に向かって、あがめ敬う真心を捧げねばなりません。地上の人類からいえば、これがつまり事実上の宇宙神です。宇宙の根本の中心的実在では、人間界との距離が、あまりにも遠すぎ、何やら手がかりが薄いように感じられますが、太陽神界となれば、初めてそこに親しみができます。むろん太陽神の、広大無辺なご威光は、人間の分際では、充分に判りませんが、しかし太陽神が人類に恵み給う、無量の温熱と、光明とが、しみじみと有り難いぐらいの事は、誰にも判ります。思った通り、宗教発達の起源を調べてみると、すべての宗教の出発点は、太陽神崇拝にあると言われます。他の諸民族は、その後哲学的抽象説や、教会本意の迷信的ドグマに引きづられて、すっかり心の目が曇り、この麗しい太陽神崇拝を忘れてしまいましたが、むろんこれは、一時も早く復活すべきです。同時にまた日本国民も、よくわれわれの高邁なる祖先の遺訓を理解すべくつとめ、畏《かしこ》くも高天原を治められる、天照大御神様を、一手に独占しようとするが如き幼稚な、島国的な考えから、一時も早く離脱すべきです。試《こころ》みに考えてご覧なさい、太陽の光は、日本を照らすと同時に、世界を照らし、さらに太陽系全体を照らしているではありませんか! 『お山の大将俺一人』ということわざがありますが、私はこの際、親愛なる同胞の精神的大飛躍を切望せずにはおられません。

 次にわれわれが、夢にも、決して忘れてならないことは、われわれが地上の人類として、どこまでも地球を司配する一切の法則を厳守し、これと同時に、地球主宰の大神霊----日本古典の皇孫《こうそん》邇々藝命《ににぎのみこと》を、信仰の対象と仰がねばならぬ事です。この点について、日本古典の指示は的確明瞭を極め、一点も疑義を差しはさむ余地はなく、現に地上の日本の国体は、この信念の上に築かれているのです。悲しいかな、その後日本国民は、唯物説のとりことなり、一時正しい神の観念を失いかけ、畏れ多くも、永遠に地球全体の神霊界に君臨したまう皇孫命を、物質的肉体をお持ちになった、人間のご先祖であるかに考えるようになりかけたのです。これは丁度、仏教徒が理想の仏陀を、人間釈迦に結びつけ、キリスト教徒が理想のキリストを、人間イエスに結び付けたのと同一筆法で、今日では、もうそんな前時代の、旧い夢にふけるべきではありません。もしも日本国民が、いつまでもそうした誤解を続けているとしたら、日本国民は、やがて外国の心霊家から、皇孫邇々藝命の存在、ならびにその役割を教えられるような事になるかも知れません。顕幽交通の途がここまで発達し、優れた第六感所有者が、こんなにも輩出しつつある今日、決して油断はできないのです。

 

 以上簡単に述べた所で、私たちの信仰の目標が何であるかは、いよいよ明白になったかと考えます。第一が宇宙神、第二が太陽神、第三が地球神、これを日本的に表現すれば、取りも直さず天之御中主神、天照大御神、ならびに皇孫邇々藝命です。要するに真の信仰の対象は一にして二、二にして三、筋道明瞭、首尾一貫、どこにも無理も衝突もないのです。もしも三神の中の一つでも欠いたら、その瞬間に一切はばらばらに瓦解し、思想信仰は惑い乱れることになります。

 ただこれら三神のうち、何れに信仰の焦点《しょうてん》を置くべきかについては、議論があると思います。人間の性質は千差万別、ある者は理想を追い、ある者は実際を尊び、ある人は愛を高唱し、ある人は正義を強調し、誰も彼も歩調を揃えることは困難と思います。で、その結果、甲は宇宙神に重きを置き、乙は太陽神、丙は地球神に力点を置くということになるでしょう。私はこればかりは致し方がなかろうと思います。いわんやこれが単に日本民族のみの問題でなく、世界の全人類の問題なのですから、いよいよもって画一主義を強いるわけには行かないと思います。

 が、上に万世一系の皇室を戴き、神祖邇々藝命の神業達成の中核となって、永遠に地上に活躍すべき宿命を有する日本国民としては、何と言っても、
 邇々藝命を信仰の大標的

と仰ぎ、この神を通じて、上は天照大御神に達し、さらに天之御中主神に達するというのが、至って当然であるように思考されます。何となれば、邇々藝命の御神格の中には、宇宙を司配する法則も、太陽系を司配する法則も、また地球を司配する法則も、全部集められており、それがやがて日本精神の神髄をなすものと信ぜられますから……。(昭和十一年二月二十三日於大阪心霊科学協会)


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