心霊学研究所
『心霊学より日本神道を観る』
浅野和三郎
('01.04.13更新)

三章 日本的スピリチュアリズムと祭祀


 

 霊的事実の研究が哲学、倫理、道徳、政治、宗教などの各方面に、非常に大きな影響を及ぼすものであることは、最近数十年間の世界の動きを見ればよく判ります。ことに心霊研究が、信仰の上に及ぼす直接間接の影響は、きわめて大きいものです。「旧い信仰は廃れたが、新しい信仰が未だに興らない」などと言っていたのは、十九世紀末期の人々の、哀れな嘆きの声です。近代心霊研究が、その鋭いメスを超物質の世界に加え、ある程度まで完全に幽明交通の道を開き、人間の視野を極度に増大することを成功するに及んで、ここに一切の虚偽、憶測、迷信、ドグマなどから、きれいに洗い浄められた純真無垢の信仰が、あたかも岩間をしたたる清水のように、次第に心ある人々の胸中に染み込んできました。

 既成の宗教などによって築かれた信仰は、言わば造花のようなもので、根が生えていませんでした。いかに見かけは立派でも、懐疑論者は無造作にこれを踏みにじり、また無遠慮にこれを引き抜いて痛快の声を挙げましたが、心霊研究によって科学的、また哲学的に築かれつつある真の信仰は、言わば大地に根を張る自然に発育した立木ですから、彼らの限りある力で引っ張ったくらいではとても抜けません。今日でもなお近代スピリチュアリズムに向かって、かれこれ反抗の態度をとろうとするものが、かなり多いことは事実ですが、いずれも科学的事実と、水も漏らさぬ理論とを無視するところに大きな無理があり、公平に観て、まさに蟷螂《とうろう》の斧の感を免れないのです。

 すでにこのように純真な信仰……科学的、哲学的、また道徳的に、一点の隙間もないスピリチュアリズムの信念が、私達の胸の奥に宿った以上、我々として考慮を払わねばならない実際問題が、ぞろぞろ続出することは当然のなりゆきですが、さしあたりスピリチュアリストとして解決の必要に迫られているのは、祭祀の問題です。私の手元には、この問題に関する、質疑なり、注文なり、また苦情なりが、ずっと以前から、間断なく提出されつつあります。ある人は曰く、「心霊研究も良いが、いつまでも研究のみでは心細くて仕方がない。早く心の糧となるべき、信仰の目標を示してもらいたい」 ある人は曰く、「自分の所では、仏式で先祖の霊を祭ってあるが、そのままで差し支えないものでしょうか?」 ある人は曰く、「スピリチュアリズムが人々の心を集められないのは、神様を祭らないからだ。早くその工夫をしたらどうか?」 曰く何、曰く何、そう言った種類の手紙を、私はこの十年間に、ざっと二〜三百通は受け取っているでしょう。これを観ても、信仰の目標についての具体案を希望しているものが、いかに多数に上るかは、想像に難くないのです。

 それにもかかわらず、なぜ私が今日まで、祭祀の問題について、ほとんど沈黙を守りつづけて来たか? その理由は非常に簡単です。従来のいわゆる信仰の弊害は、信仰の基礎となるべき一切の内面的事実を無視、または軽視して、あわてて形式の枝葉末節に走った点にあります。これでは迷信……少なくとも迷信的要素が、必然的に多量に付け加えられる事になります。特に許容しがたいのは、デタラメきわまる祭神の選び方です。そこに何らかの統制も、秩序も、意義もないのが多く、はなはだしいのは、神のお告げなどと称して、ひとりよがりな神名をくっつけ、これを祭神として祀るものさえも見かけます。そんなものを拝む者も拝む者ですが、拝ませる者も拝ませる者で、もしいつまでもこんな事を続けていったら、やがてはこの神聖な国土に、思想信仰の無政府状態を造りだし、いたずらに排他、暗闇、信者争奪などの醜態を繰り返させることになります……。いや、その傾向はすでに顕著です。私がじっと我慢して発言をつつしみ、ひたすら霊的事実と、その理論の整理に、最近十年の歳月を重ね、軽々しく祭祀の問題に触れることを避けたゆえんです。

 が、今日に至って、日本国民の精神的指導原理たるべき、日本的スピリチュアリズムの学術的根拠も、ようやく築かれました。われわれの研究は、今後も永久に続けられるべきであることは勿論ですが、これと同時に、われわれの仕事が、そろそろ実行に移されねばならないことも、また明らかです。なぜならば日本的スピリチュアリズムは、単なる人間の小さな主観の産物ではなく、常に生命と威力とに満ち満ちた大自然の法則そのものなのですから……。

 

 祭祀の法式について、私の意見を述べる前に、祭祀が果たして人生に必要か否かを、一通り考えてみたいと思います。祭祀無用論者は、これを大別すると二つになると思います。一つは無神、無霊魂論者、もう一つは有神論者であっても、祭祀の必要性は認めない人達です。それらのうち前者については、われわれは、しばらく傍観しているほかありません。なぜならば、彼らは祭祀の問題を論ずる前に、まず唯物論的宇宙・人生観の無価値、不合理を認めなければならない立場に置かれているのですから……。

 後者に対してもわれわれは、極めてあっさりとした態度をとってしかるべきだろうと思います。物の見方にはいろいろあります。一番理想的なのは純粋な理論のみに走らず、感情に流されず、穏健、円満、中立を守るのに限るのでしょうけど、それがなかなかできないで、とかく一方に偏りたがるのが人間の弱点です。祭祀の無用を主張する人達なども、ほとんどは結局、極端な片輪者の部類に属します。純粋に抽象的な立場から神を観れば、それは単なる大自然に内在する一つの働きとしか見えないでしょう。大自然の働きに対して、祭祀などの必要はどこにもない理屈で、その主張に、決して一面の真理がないとは言えません。無論この考えを極度におしすすめれば、弊害がたくさん出てきます。単に神様だけでなく、親だって、兄弟だって、妻子だって、絵画だって、音楽だって、その他の何物だって、抽象的にはそれぞれの一つの働きを受け持つところの、冷ややかな存在に過ぎないことになり、その結果道徳だの、人情美だの、芸術だのと言ったものは、一切廃れきってしまい、自分自身だって、まったく面白味も何もない、一つの生きた機械に過ぎないものになります。これでは社会も人生も滅びます。幸いに、祭祀無用論の多くはそこまで徹底したものではなく、単に形式偏重を嫌うための、一つの反動的傾向に過ぎないようですから、われわれはこれに対して、あまり神経を尖らす必要はないと思います。いや、現在のように、いたずらに形式的な些末な事にのみ走りたがる信仰団体が多い世の中にあっては、祭祀無用論を主張するひねくれ者が、少しは社会に存在した方が、かえって良いのかも知れません。

 だんだん考えてみますと、祭祀無用論者は、要するに過渡的時代における一つの特殊な存在で、人間の常道としては、やはりある形式による祭祀を必要とするものと考えられるのです。

 さて一口に祭祀論者と言っても、こまかくその内容を比べてみると、やはりこれも大きく二つに分けられると考えられます。つまり一つは無組織的、自主的な祀り方をする者、もう一つは組織的、系統的な祀り方をする者です。

 前者は不純な神憑りなどによって間断なく続出する、俗に言う流行神《はやりがみ》の信仰に属するものが多く、その内容を霊的に調査してみると、いずれも似たり寄ったりの低級な自然霊、いたずら好きな動物霊などの仕業であることを発見します。したがってその言うところ行うところが、概してまったく問題にならないほど不出来です。デタラメな戯れ言を述べたり、やたらに医薬品や医師をけなしてみたり、つじつまの合わない教理を説いてみたり、香具師《やし》と比べても、決してヒケを取らないような、誇大な御利益を喋りまくったり、まさに識者をして眉をひそめさせるのに充分です。現在の日本には、この種のモグリ教会、モグリ教団のたぐいが余りにも多すぎます。東京・大阪のような大都市内を探しただけでも、どんなに多数に上ることでしょう。ほんとうに聖代《せいだい》(訳注:聖なる天子の治める世)の汚れです。せんじつめれば、このような集団の発生する最大の原因は、日本国民が、心霊科学の事実と理論とに無関心であった結果、ある程度以上の知識階級の人達でさえも、これらの真偽を識別する能力に欠けているからでしょう。このさい日本国民が、少しでも早く長年の精神的鎖国主義から覚めて、物質的現象世界の奥に厳として控えている、私達の祖霊、祖神達との感応道交《かんのうどうこう》を開始することをしなければ、天の磐戸《いわと》隠れの、いわゆる常夜《とこよ》に通じる、暗黒時代が出現するでしょう。いや、ことによると現在は、まさにその暗黒時代なのかも知れません。神話に述べてある『萬《よろず》の神の声は、狭蠅《さばえ》なす、皆満《わ》き、萬の妖《わきわひ》、悉《ことごとく》に発《おこ》りき』という言葉は、どうやら現代の世相に、ぴったり当てはまるようではありませんか。

 とにかくわれわれ心霊論者として、秩序や統制の無い流行り神の祭祀には、絶対に反対という意見を公表し、漸次《ぜんじ》その削減をして行くという決意をせねばなりません。心霊論者の決心するところは、遠い昔から永遠に変わることのない実在の神と、神の法則とに向かって、心眼を開くべく全力を挙げることで、断じて新しい神を発見したり、新発明の教理をでっち上げたりすることではないのです。

 組織的、系統的な祭祀法の優れた見本は、なんと言っても、千年、二千年、三千年の「時」の試練を首尾よくくぐり抜けてきた世界の大宗教、すなわちキリスト教、仏教、儒教、神道などに、これを見出すことができるようです。無論、民族性の相違、理想の相違、環境の相違などから、それらの何れにも長短得失があることは免れませんが、しかしどれにも、たしかに何らかの学ぶべき良い箇所があります。キリスト教の長所は、たった一つの神にすべてを統一させたところが、非常に良いと思います。無論その欠点を拾えばいくらでもあります。たとえば、その神の観念が非常にあやふやであること、またあまりにも一つの神を強調した結果、現象を超えた霊的世界を忘れさせることなど、残念な所も多々ありますが、少なくとも、一神論の強調によって人心が乱れることを防ぎ、また淫祠邪教の発生を有効にくい止めたことは、その大きな長所であると痛感します。儒教にいたっては、これを宗教と言うには、あまりにあっさりしていますが、しかし少なくとも『天』----宇宙最高の唯一の根本的実在の観念だけは確実に把握しており、それがすべての儒教的祭典の根本の意味を構成しているようです。これもたしかに大いに学ぶべき点だと考えられます。

 それに近い仏教の祭祀法の長所は、あくまで深遠なる哲学的思想を、あくまで芸術的に象徴化し、一切の衆生を、漏れなくその懐に抱え込もうとしたことでしょう。その点たしかに非凡の腕前で、仏前で額を地に付けて拝礼する善男善女が、ありがたさに涙にむせぶ光景は、ちょうど芝居の観客が、すぐれた俳優の素晴らしい演技に心を奪われるのを彷彿とさせます。たしかにこれは、思想を良い方向に導くための巧妙な方便の一つであることは間違いありませんが、その短所もまた同時にここにあって、うっかりすると、寺院の建物、または仏像は、いたずらに偶像崇拝、または美術鑑賞の対象となりかねません。俗に言う、過ぎたるは及ばざるが如しという譬《たとえ》は、こんな場合に当てはまるのでしょう。

 次に神道の祭祀----その長所を挙げたら、たしかに天下一品、他の追随を許さぬものがあるようです。試みにその主要な点を列記してみると----

 一 日本の祭祀は非常に組織的である。----ご承知の通り、日本の教えはいわゆる一神教ではなく、またいわゆる多神教でもありません。一神にして同時に多神、平等にして同時に差別、しかもその多神の中に、差別の中に、秩序を求め、組織系統を求めて、信仰が乱れることを防ぎ、同時にこれによって国家組織、社会組織の規範を樹立し、またこれによって、人倫道徳すべての根本の道理を定めようとしました。その必然の結果として、ここに完全に独立な、他国からの侵略を一度も受けない国家体制が生まれ、また敬神崇祖を基本とする日本の精神が生まれました。つまるところ日本国が今日に至ったのは、その組織的な祭祀が、すべての根源を為していると考えて良いのです。すなわち事実上、宇宙の代表神たる天照大御神を信仰の中心として、その下に国家の土地や五穀の守護神を配し、その外に一国、一地方、一郷、一境域の守護神、つまり産土神を祀り、もって日本全国土に完全な祭祀網を張りめぐらしています。世界中どこをさがしたところで、ここまで行き届いた神社組織を持っている国はありません。

 もっとも現在の日本の信仰生活が、ただこれだけでなく、もっともっと複雑化していることは事実で、その中でも仏教の影響は非常に大きいものです。どこの土地にも神社の他に仏寺があり、どこの家庭にも、神棚の他に仏壇があるといった具合で、一見すれば、日本人の信仰ははなはだ不規律、不統一のようですが、実際は必ずしもそうではないところが、日本精神の日本精神たるゆえんでしょう。両者の不調和はずいぶん長期間にわたり、時に主客転倒の弊害も生じましたが、蒙古来襲によって国民的自覚が発生した頃から、仏教的思想が日本思想のために完全に同化され、これと対立し抗争を試みる代わりに、その内助者を引き受けて任務とするようになりました。日本国民の思想に一種の深み、風情が加わり、また日本国民の生活に慈悲、忍従、寛容、などの要素が加わってきたのは、かなりの部分、仏教思想のおかげだと思います。キリスト教、儒教などもその長所を持って、それぞれ有効な役割を演じ、ややもすれば、あまりムキになり過ぎて、一本調子に流れようとする日本思想の短所を補いつつあるようです。恐らくこう言った協調的傾向は、今後一層増大し、やがては一切の既成の宗教、宗派、学説などを超越し、一切のドグマ、一切の偏見から、きれいに洗い浄められた純日本的スピリチュアリズムが、全日本国民の精神生活をつかさどり、その結果、日本国の祭祀は更にいっそう純化され、いっそう立派なものになるでしょう。

 二 日本の祭祀ははなはだ自然的である。----人為を加えない神の心のままの大道を信条としている民族の祭祀だけあって、できる限り無理な理屈や、人為的な工夫を避けているのがよく分かります。神殿の様式にしても、またその境域の設定にしても、すべてが単純、すべてが自然、さながら天地と溶け合っているように見えます。これは是非とも永久に失わせたくない特色です。近頃あちこちに、鉄筋コンクリート製の鳥居だの、観音像だのが出来るようですが、私はこれはかなり考えものだと思います。

 三 日本の祭祀はきわめて心霊的である。----この点において、日本の祭祀は、まさに理想の極致と言えます。御神体として玉、石、鏡、御幣《ごへい》、または剣などを用い、そしてこれを極度に神聖に取り扱い、直接これに気息《きそく》がかかることさえはばかっています。神人感応の媒体として、これ以上理想的な装置がどこにあるでしょう。これを始めた私達の祖先の鋭い直感には、まったくもって感嘆を禁じ得ません。これと比べると、キリスト教や仏教の信仰の対象物は、遥かに非科学的、非心霊的です。かの十字架は、どうかすると不合理きわまる贖罪説を連想させ、また、かの金色燦爛《こんじきさんらん》たる仏像は、前にも言ったとおり、ともすれば偶像崇拝、または美術鑑賞の観念をそそのかす傾向があり、純真無垢な心の状態を養うには、はなはだ望ましくありません。とても日本式の足許にも及びません。私は世界の人類が、一時も早く年来の偏見から離れて、少なくともこの点に関して、日本流の祭祀法を採用するようにしていただきたいと思います。

 

 以上申し上げたところは、はなはだ繁雑に通しましたが、祭祀に関してわれわれスピリチュアリストが、どんな考えを持っているか、大体の輪郭だけはほぼこれでお分かりになったと思います。これからもう少し立ち入って、具体的に私の考えを述べ、皆さまの指導と批判とを頂きたいと思います。もちろん神事を本位とする建物、すなわち神社、礼拝堂のたぐいと、人事を本位とする建物、すなわち学校、役所、公会堂、個人の住宅、などとによって、祭祀の様式にもある程度の相違を生じるはずなのは言うまでもなく、また場所や目的のいかんによっても、かなり融通を利かせなければならないでしょうけど、細かいことはまた他の機会に譲り、ここでは単に原則とするべき点を取り扱って見ることにします。----

 一 天照大御神をすべての中心とすること。
 これは独り日本の伝統的精神の要点であるだけでなく、近代スピリチュアリズムの研究の結果から見ても、また厳正なる哲理の上から考えても、どうあっても動かすことのできない鉄則です。キリスト教徒も、仏教徒も、儒教徒も、世界の人類は、みな須らく今までの幼稚でいい加減な観念を棄てて、この神の崇拝に落ち着くべきです。もちろん名称などはどうでも良いのです。単に神でも、キリストでも、大日如来でも、また太陽神でも、それは少しも差し支えありません。必要なのはこの神についての正しい理解、正しい信仰です。日本国民も、断じてこの神様を自国のみに独占しようとするような、幼稚な考えに囚われてはなりません。それはちょうど、お空に照る太陽を、自国のみに独占しようとすることが不合理であるのと同じです。

 二 自国の歴史、過去の因縁などを尊重すること。
 天照大御神をお祀りすれば、その中にすべてが包含されている訳ですが、個人的、または国民的に深い因縁関係のある神、または仏などは、特に礼拝者の観念を呼び起こすために、これをその左右に配置することが、非常に適切な方法かと思います。形の上から見ても中央、左、右、三体の祀り方は、たいへんに申し分のないものです。たとえば大勢の人が集まる会堂などならば、中央が天照大御神、その左側が日本系統の諸神霊、その右側が外国系統の諸神霊(仏)と言った具合に配置したら、人情と義理が兼ね備わり、たいへんに穏やかな、美しい雰囲気が、全堂にみなぎるのではないかと思います。もちろんこれは単なる一例を挙げただけの事で、すべての場合に適用する訳にも行かないでしょうけど、とにかくこういう、恩に報い調和を大切にする考え方をもってお祀り申すことは大切だと思います。くれぐれも偏狭、排他、忘恩などの悪弊におちいってはならないと信じます。

 三 御神体は清浄なものを選ぶこと。
 御神体は御幣、鏡、珠などどれも良いと思いますが、ただ新しい清浄無垢なものが、ぜひ望ましいと思います。霊魂または観念は、とにかく器物に宿り易いもので、したがってうっかりした骨董物は、神聖なる霊的感応の妨害となる恐れがあります。深い因縁や来歴のある御神体は別として、いわくのある古い品物は、ぜひこれを避けねばなりません。精神測定《サイコメトリー》の実験が、露骨にその理由を証明しています。

 四 祭祀の形式は極力単純にすること。
 いたずらに形式をもって、宗教心を育てようとする事は、たしかに時代錯誤で、既成宗教のすべてがこんにち生命を失いつつある主な原因も、この点の考慮に欠けるところがあるからに違いありません。ことに自然を愛し、単純を愛する日本人の国民性から言っても、今後において執るべき態度は、非常に明らかだと思います。神事を主とする神社などにあっては、大体今まで通りの形式の行事が最上に申し分なく、ほとんど非難すべき欠点など無いと思いますが、人事を主とする建物では、神殿または神床《しんしょう》は、なるべく小型で、現在あちこちの学校で陛下の御真影を奉安するのと、大体同一様式であって良いと思います。神殿または神床は、断じて神の住居ではありません。そんな物質かぶれのした考えほど、不合理にして、同時に不敬なものはありません。神殿または神床は、言わば顕幽の間に設定された一つの神聖な交通路であることは、少しでも心霊上の理解がある者の、とうに熟知するところであり、同時にそれが、私達の優秀な祖先達の遺訓でもあります。あのいたずらに仰々しい社殿を築造し、壮麗な美を誇る宗教団体の如きは、ただそれだけで落第を宣言できます。なぜならば、それは結局ただ信者の金品搾取が目的であることを物語り、少しも信仰の本当の意義には触れていないからです……。

 したがって神への供物なども、なるべく簡単なものにするべきだと思います。物質界に住んでいる人間の側からすれば、誠意の表現として、ぜひとも何らかの品物をささげたいのは、自然な人情ですから、絶対にこれを禁止しなければならない理由は少しもありませんが、しかし神霊の側からいえば、喜んで受け取られるのは人間の誠意であって、品物ではありません。で、いたずらに供物の多いことを誇り、その寄進調達に力こぶを入れるがごときは、はなはだしい見当違いです。誠意の表現----これがお供物をささげる者の、第一の心得であると思います。

 五 儀式などの場合を除けば、黙祷を原則とすること。
 時と場合で一概には言えませんが、平生の原則としては、なるべく短時間に切りつめた、十二分に誠心誠意のこもった黙祷《もくとう》が、もっとも適当かと思います。紋切り型の読経、または祝詞の奏上などは、とかく上の空、鼻歌まがいのものとなり易く、また他人に迷惑を及ぼすので、あまり感心できません。

 ただし多人数で行う儀式や祭祀などの場合は別問題で、これには讃歌、祝詞などが効果的であり、また状況に合わせて音楽も入れて良いと思います。それにつけても、日本で現在使っている祝詞は、あまりに貧弱であり過ぎ、また型にはまり過ぎているように思います。これはぜひとも近代人の胸中に、ピッタリと来るような、立派なものを新たに作るべきで、あらゆる場合、あらゆる目的に合う祝詞が、少なくとも五十編や百編はあってもよいと思います。どんなに古い祝詞でも、その時代には新作なのですから、われわれはことさら古典にこだわる必要は少しもありません。現代の日本国民が、自分の信念、理想、欲求、感激、願望などを深く表現する物を何も持ちあわさないとは、あまりに心細い限りです。大衆文学も結構、童謡や軍歌も悪くはありませんが、その上にさらに工夫を加えて一歩を進め、理想の世界、超現象の世界にくぐり入って、百代にわたって人の心の闇を照らすべき最高級の文章が、ただの一つもないとあっては、日本国民の沽券にかかわる話です。ただしこれについては、他の機会に改めて、もっと具体的に私の考えを述べることにして、ここでは単に希望を述べるにとどめます。

 六 祖先の祭祀は、なるべく祖先の意思を尊重すること。
 日本人の住宅には昔から、一般的には神床のほかに、別に祖先を祀る祭壇が設けてありますが、これはスピリチュアリズムの立場から言っても、まさに世界に誇るべき美風だと信じます。ただここでぜひとも注意せねばならないことは、祖先の信仰、習慣、希望などを充分に尊重することです。この点において、とんだ勘違いをして、誤った処置を取った結果、意外な災厄を招いて悩んでいる者が比較的多数に上るのは、嘆息に堪えないことです。

 信仰の自由----これは人間の特権であると同時に、また祖先達の特権でもあります。ところが世の中には、自分が神道を信じているからと言って、勝手に仏壇を壊して神棚に改造したり、またはその反対に、神式の祭壇を破壊して、仏壇を新調したりする者がずいぶん多い。これは子孫が先祖に向かって号令をかけるようなもので、決して道理にあてはまったやり方とは言えません。

 もっとも祖先の霊の中には、帰幽後において、充分な向上浄化をとげ、立派に宗教宗派の上に超越してしまった者もいるに違いありません。そういう霊達にとって、祭祀の様式などは無論問題ではありません。問題になるのは、帰幽後において、まだそこまで解脱しきれない連中で、それらがうっかりすると子孫の改宗を怒り、どうかすると病気などにかからせるのです。「先祖のくせに、まったくもってけしからん……」などと憤慨してみても、先方がそれだけの器量しかないのですから、まったくお話になりません。やはり「触らぬ神に祟りなし」のことわざの通り、なるべく祖先伝来の習慣を尊重するのが無難でしょう。ただしどうあっても、そんな煮え切らないやり方がイヤだとあらば、適切な方法で片っ端から祖霊達を呼び出し、彼らの腑に落ちるまでスピリチュアリズムの説明を試みて、その了解を得るのが一番合理的な方法でしょう。

 以上思いつくままに乱雑に申し上げましたが、日本的スピリチュアリズムと祭祀との関係は、ほぼこれで明白にされたと思います。これに対して疑問を抱かれる方、または反対意見を抱かれる方は、ぜひ忌憚のないご意見を発表して下さい。いくらでも誌面を割愛します。今後において、日本国民の信仰生活に直接影響する、大切な実際問題ですから、この際十分の上にも十分に念を入れて考えを練り、万に一つの誤算もないようにしたいと思います。(八、六、十三)

 


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