心霊学研究所
『欧米心霊旅行記』浅野和三郎著
(9/13/99登録)

出発前記


 

 私のロンドン行きがいよいよ十日以内に迫って来ましたので、今朝は折から降りしきる小雨を衝いて横浜に出張し、旅行免状を貰って来ました。午後はいささかヒマができたので、平常のとおり机の前にすわって、ペンを執ってみたところですが、どうもこれと言ってまとまった考えも浮かびません。

 だいたい筆を執るのに、こういう時はあまり感心した時期ではないようです。足一本日本を離れたら、あるいは首をめぐらして、瞑想に耽ってみるといった気分になれるか知れませんが、目下はそれどころではありません。ヤレ告別だ、ヤレ役所手続きだ、荷造りだ、何だかんだ……。これではさっぱりお話になりません。

 もしも私が昔のように、多少文学的もしくは感傷的な気分でも持ち合わせていたなら、こうした際にも、あるいは相当感興の種を見出し得たか知れませんが、近頃のように悲観も楽観も、得意も失意も判らない、まるきりの唐変木となってしまっては、どうにもしようがありません。ロンドン行きは、単なるロンドン行きであるにとどまり、私にはそれ以上に何の詩情も感想も浮かびません。

 強いてボンヤリしている天窓(あたま)の底を叩いてみると、やはりそこに行き来しているのは、心霊研究(psychical research)と神霊主義(spiritualism)との関係、あるいは神霊主義と日本の伝統的思想との交渉といったような事柄ばかりです。イヤハヤ人間もこうも色気が失せては、いよいよお仕舞いです。

 実をいうと、私も英文学専攻の人間だけあって、若い時分には、一度ぜひその本国へ行ってみたいと熱望したものです。そして一・二度その機会がめぐりかけたのですが、どういうものか、ことごとくペケとなり、以て今日に及んでおります。

 英文学者として内地に居座り、神霊主義者として初めて外国に出かけるなどということは、全然予想外の話で、自分ながらおかしく感じます。

 が、そんな愚談は今更ここに並べてみてもはじまりません。出発前の現在の私としては、やはり有りのままに自分の腹の裡(うち)をさらけ出してみることにしましょう。後になったら、これでも幾らか思い出の種になるかも知れません。

 今回私が英国出張を発表するにつけて、第一に必要を感じたのは、『スピリチュアリズム』の日本的述語を研究することでした。従来の私はあれか、これかと迷い、これに対して『新霊魂説』だの、『新精神主義』だの、『心霊主義』だの、『神霊主義』だのと、さまざまな名称を与えました。さぞ皆さまは目まぐるしく感じられたことと存じます。

 これらの用語には、それぞれ一長一短がありまして、どれも『スピリチュアリズム』の主眼の一端に触れてはいますが、しかしどれもその全精神を言い表わし得て、遺憾なしという訳にいきません。そこが私の迷った点ですが、補永博士などとも熟議の結果の最後に、『神霊主義』という言葉を採用することに決定しました。今後は絶対にこれを用いることにいたします。

 このように私が『スピリチュアリズム』の訳語に、長い間迷った結果、気の毒にも各方面の人々に飛んだ誤解を引き起こさせました。なかでも一ばん滑稽なのは、一部の人々が、今回ロンドンで開かれるスピリチュアリストの大会を、あたかもそれが心霊研究者の大会ででもあるように誤解し、福来友吉博士が日本のスピリチュアリストを代表して、これに参加するようなことを報道する新聞雑誌もありました。

 ご承知の通り、心霊研究と神霊主義とは、密接不離の関係を持っておりますが、両者の性質はすっかり違います。心霊研究は純然たる一つの科学であり、正確な実験検証の結果を、有りのままに突きつけるだけです。神霊主義は右の結果を取り入れ、これを基本として組み立てられた哲学であり、また信仰でありますから、当然すべての心霊研究者が、神霊主義者になるという訳にはまいりません。

 とりわけ催眠術、または心理学の方面から心霊研究に志した人々は、従来の惰性、または一つの迎合的気分から、なるべく一切の心霊現象を、人間に具わる精神力に帰せんとします。それがいわゆる万有精神説(アニミズム)です。福来博士などもその一人と見受けられます。従って同博士が日本の神霊主義者(スピリチュアリスト)を代表するはずもなく、ひいきの引倒しに与った同博士は、さぞ苦笑しておられるでしょう。

 むろん精神説が、部分的真理を持っていることは、疑いのない点で、これによって今まで神仏の御加護などと称して、迷信の材料に供せられていた心霊現象の一部分が、合理的に説明される事は、われわれも承認するにやぶさかなるものではありません。

 が、精神説で、一切の心霊現象を説明しようとする時に、大変な無理ができ、個人の精神力を摩訶不思議なものに祭り上げてしまい、結局一つの迷信鼓吹(こすい)に陥ってしまいます。心霊現象の一部は、ぜひとも交霊説をもってせねば、とても説明がつきません。

 われわれの唱道(しょうどう)する神霊主義は、精神主義だの、交霊説だのと言って、単にその一方のみを主張するような、偏狭なまねはしません。その大きな懐(ふところ)に、右の二説を楽々と抱え込んでいるばかりでなく、キリスト教でも、仏教でも、あるいは神道でも、あたかも心霊科学の研究の結果に合一するところは、ことごとくこれを容(い)れ、そうでないところは、容赦なくこれを棄てます。思うに二十世紀の新人の思想信仰は、ぜひこれでなければ、いけないと信じます。

 こんなことは、拙著『心霊講座』中にも、くりかえしくりかえし説明したことですから、読者諸君の中に、この点の理解のない方は、絶無と信じますが、広く日本国の社会を見渡すと、イヤハヤ一切五里霧中の人ばかり、外国の識者に知られたら、お恥ずかしくてたまらぬようなことを、得々として説いている腐れ学者、腐れ宗教家、腐れ文筆者、腐れ霊術屋の輩が多いのだから、心細くなってしまいます。

 ツイ先頃も、私の手元に某という名士から、一通の手紙が舞い込みました。その要点をのべると曰く、「西洋の神霊主義なんぞ、幼稚極まるもので、死後霊魂の存続だの、顕幽の交通だのということは、大聖釈迦がすでに言っているところだ。あなたがロンドンの大会へ臨んだら、そのことを西洋人にきかせて、大いに東洋人のために気焔を吐いてください……」

 これを読んだ時に、私はその人の好意を感謝すると共に、余りにその無理解なのと、実際的でないのに唖然とせざるを得ませんでした。昔の人を引っぱり出して、それで現代人の信仰をつなぎ得るなら、世話はありませんが、それができなくなったのが現代人で、彼等はどこまでも、科学的に調べあげた事実を基礎とし、それから帰納的に結論したことでないと、絶対に受け付けないのです。その結果、既成宗教のすべてが、生命を失ったのです。

 現代人が、無宗教信仰に陥ったのは嘆かわしいことですが、しかし彼等が宗教を求め、信仰を求めないのではなりません。いかに求めても求めても、どこにも自己の理性を満足せしめ、自己の研究心を満足せしむるものがないので、泣きの涙で、やむなく無信仰なのです。その責任の大部分は、誰にあります? それが古人のぬけがらをしゃぶるより他に、何も興味のない既成宗教者の罪でなくて何でしょう!

 すべては、ただ生きた事実、生きた力、生きた研究のみが、他を動かし得ます。自分には何の芸当もなく、三千年も前に死んでしまった、親玉の威光を笠に着て、威張ろうとする……。そんなさもしい根性のもちぬしが、何で信仰問題、思想問題にくちばしをはさむ資格がありましょう!

 ここに一人の貧乏な男がいて、「自分の先祖は、昔百万長者であったから、先祖の信用で、無抵当で百万円貸してくれ」と、どこぞの銀行に申込んだとしたら、その銀行でよしよしと言って、その百万円を貸してくれるでしょうか? 心霊問題に対する何の理解も体験もなく、いたずらに釈迦、キリスト、弘法、日蓮などをかつぎまわるだけの連中は、まさに右の虫の良い借金申込者にそっくりです。

 無論信仰は各人の自由で、イワシの頭を信仰しようが、お釈迦さんをかつぎまわろうが、それはその人のご随意ですが、しかしいやしくも他人に向かって信仰を説こうとする者は、それではいけません。何はともあれ、心霊問題に関しての、充分な準備だけは必要でありましょう。神仏を説き、安心立命を説くものが、物質的現象世界の知識だけでお茶を濁そうとするのは、あまりにも不精過ぎ、虫が良すぎましょう。

 近頃よく世界各地に、宗教連合大会みたいなものが開かれますが、彼等はそもそも何を基本として連合するつもりでしょう。宗教の根本生命であるところの、心霊問題には全然触れようとせず、現世的手続きの問題などに、いくら相談を重ねてみたところで、果たしてどれだけの効果がありましょう。こんなことで、純真なる宗教心が勃興したり、危険思想が撲滅したり、国民精神が盛んになったりするものなら修行三昧に渾身の精力を傾注した釈迦、キリスト、弘法の輩は、よほど役立たずなキマグレ者であったと言わねばなりますまい……。

 ここまで書いた時に、のっぴきならぬ用事が出来ましたので、いかにも尻切トンボですが、しばらくここで筆を置きます。(三、六、三)


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