心霊学研究所
掲示板の過去ログ

スピリチュアリスト掲示板

発言番号(親記事の)3101-3150の過去ログです。
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3150 Re:3146 思うことなど
名前: まるも  投稿日: 2003年10月25日 (土) 06時39分01秒

もうすぐ出掛けるので短い文章しか書けませんが、
らふぃえるさんと同感です。
思い切った事を書きますが、HNがいけないんだよなぁと思います。。
目に見えないものを信じる集団はおかしな方向に行きやすい
ですよね。その一歩手前の状態。それがネットでのHNだよなと。
こちらに来る前の「したらば」という匿名掲示板の経験から、そう
思います。
将来誰かがそういうスピリチュアリズム専用の掲示板を興し、
それが主流になるのではないかと僕は思ってます。
(あ。2ちゃんねるのようなスピチチュアリスト以外の人が
出入りするとダメだと思います^^;

 


3149 私はこう思います
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月25日 (土) 06時08分46秒

もりふみさんとあまりさんの投稿は全く質の異なる投稿だと思います。

もりふみさんはある掲示板参加者の投稿内容に対して、具体的にご自身の価値判断により分析し、「----だから----こうだ」という論旨を展開しているのに対し(従って、このような公共性のある掲示板にも発表する価値のあるものだと思います)、あまりさんは、感覚的に好きになれないからと言うことで、批判(このような場合は批判と言うより「けなす」という言葉がぴったりだと思いますが)を行っています。

このような態度は、単に髪型・服装が気に入らないから、外国なまりの日本語を話すからということでその人達を排除しようというような、学校・職場でのイジメ、意味のない外国人排斥にもつながる態度ではないかと思います。

相手が間違っていると思ったら、それに対してはキチンと具体的にご自身の考えを述べるべきだし、単に感覚的に気に入らないということであれば、それはご自身の中で抱えているべき問題で、公共の場で発言することではないと思います。

 


3148 ヨシさんへ
名前: yumi  投稿日: 2003年10月25日 (土) 02時35分17秒

ヨシさんお返事が遅くなってしまいました。というより掲示板の進み具合が早くてこの質問に辿り着くのが遅くなりました。(^_^;)

>●メッセージが届きやすくなる

というのは、説明が下手でごめんなさい。自分の抱える悩みや質問の答えが自分の内側を通じて霊的領域から届くということです。インスピレーションを受けるということとあまり区別はありません。

>●インスピレーションを受け取るということだと思いますが、心、あるいは魂に変化を感じますか。

魂に変化があったかどうかはよく解りませんが、私も悩みが多いのでヨシさんが体験されたような感覚(感覚なのでまったく同じかどうかは解りませんが)はよくあります。
私の体験からすると、特に自己否定をしていると、そこらから抜け出た時の喜びは大きいです。やはり自己否定は道から外れていると我ながら思います。魂はいつも否定するような自分はいないんだよと言っている様です。

>>私はお題目や祈りを使わなくても、自分の意識を変えることは可能であると思います。
>●yumiさんは、具体的にはどのようにしているのでしょうか?

他にもやり方はあると思うのですが、私の場合は、自分を見るということをします。
自分がひっかかったことを「なんでだろう」とやってゆくと核心にたどりつきます。大抵は自分が作ったものや、小さい頃から洗脳されてきた善悪感覚が多く、そういうものに振り回されている事が多いです。
そうやってきて、今では昔と全く意識が違うと感じます。昔はとても問題だったけれど、今では大した事のように思えなくなっていることはとても多いです。全く違う人生を送っていると感じます。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~y-h/

 


3147 『誰でも霊・ひと=霊としての生き方』
名前: ははぎく  投稿日: 2003年10月25日 (土) 01時09分13秒

こちらにいらっしゃる皆様は、カノンさんとkimiさんをご存知の方が多いと思います。私も、このお二人が大好きです!シルバーバーチ関係で、私が心から信頼納得しているのは、ペーパーバーチさんとカノンさんとkimiさんのHPなんですよ。

kimiさんによると、霊視、霊治療、○○療法、気功、ヨガ、光、パワー、不思議、怪奇現象等々、全部浮遊霊が関係しているらしいですが、これを聞いた時は爽快でした。摂理は完璧ですから、原因結果の法則からはずれることはありませんよね。霊のことで人を翻弄したり、霊を利用することは重大な過失だとも。

いつもいつも理性で検証をしてくださいと言われました。理性とは大霊の力そのものだから、その理性を使うかぎり、どんな間違いも気づきます、と。

外に求めることをやめなさい。本当に必要なものは、いつも全部内にある。大霊がおおくりくださった全てのものを生まれながらに持っているのですから。

肉体がある時には、その時にすべきことがあります。霊への依存は、普通の努力を遠ざけ、自立から離れます。

そして、何度も何度も、浄化しなさいと言われました。

次々言葉が浮かんできます・・・懐かしいです。依存を断ち切るために、カノンさんはHPを閉鎖されたんですよね。とっても淋しかったですけど。でも、いつかまた、お会いできると思っています。kimiさんのHPは、たまに更新されているみたいですね。

精神世界のサイトを見ていると疲れ果てる時があります。こんな時、kimiさんの霊界通信を読みます。格調高くて、いつも気づきがあって、霊界の霊の方は、こんなにも私たちのことを思ってくださっているのかと、嬉しくて涙が出そうになります。

皆様はご存知でしたか?

 


3146 思うことなど
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月25日 (土) 00時22分28秒

人をけなすよりも、自分自身がもっと実のある発言なり、ムズカシイ論なりをきちんとした方がいいんじゃないんですかね。
他人の目からおがくずをとろうとするより、自分の目から梁をとっては?
ペーパーバーチさんが発言するならともかく、他人が人の文体までとやかく言うべきではないでしょう。
気に食わなければほっとけばいいだけの話じゃないですか。
スピリチュアリズムの根本は、寛容と愛じゃないんですかね。

3194 名前: ペーパーバーチ  投稿日:2003年10月28日 (火) 23時28分58秒
もりふみさんのあの発言を「人をけなす」こととしてしか読み取れなったのですか?(僕には、らふぃえるさんのこの発言こそ「人をけなす」だけの下らない発言に見えるのですが) おかしいことをおかしいと指摘する事こそ「実のある発言」であることが分からないのですか? 「ほっとけばいい」という考えで妄想的発言を放置することが論理的な行動と言えるのですか? あなたにとっては、そういうのが「寛容と愛」なんですか? だとしたら、あなたはトンでもない考え違いをしているのではありませんか?

いや、それ以前に「ムズカシイ論」が云々……見過ごせない発言ですね。あなたはそんなことをやっている(出来ている)つもりなんでしょうか? 僕の、らふぃえるさんの一連の投稿の印象と言えば「理屈っぽいけれども論理的ではない」というものでしかないのですが……。「理屈っぽい」事と「論理的である」事とは違うのですよ。

こう言っては実も蓋もありませんが、あなたのこの発言に論理はありません。ここにあるのは、甘ったれたガキが屁理屈で大人をやり込めたつもりになっている姿です。この後にも、臓器だ骨髄だと、どちらがどうでも論旨に影響を与えない部分を突付いて絡んでいるようですね。これによってあなた自身が「何が問題になっているか」という論旨を理解できていないことを露呈しているんですが、自分では気付いていない様子、哀れでさえあります。

http://www.paperbirch.com/


3145 同感です
名前: あまり  投稿日: 2003年10月24日 (金) 23時58分46秒

もりふみさん、thank you!です。

サラさんの投稿にかんして、自分の感覚をサラサラと文章化できなかったので、もりふみさんのご意見にはまったく同感ですっきりしました。

ムズカシイ論を展開しておられる方々が、サラさんの文体といえども「すきです」「たのしいです」とおっしゃられた時にはアラララっとコケました。
その方の考え方までサラさん流にご自分の世界に酔っておられるのかしらと思ってしまいます。善意に解釈するとかの問題ではなく、根本のズレを感じませんか。私は感じます。「自由ですよ」とサラさんはおっしゃるでしょうが。

 


3144 ファニーズさん、ありがとうございます
名前: 空句  投稿日: 2003年10月24日 (金) 22時26分22秒

お返事ありがとうございます。とっても嬉しいです!
「霊訓」読んで、「誰でも霊・ひと=霊としての生き方」も読んで、私も心をこめて実生活、実社会でがんがん進みます。
霊の道具とまでは、まだ実感がわかなかったけれど、もしかして私も霊の道具かな、という気になってきました。

「ダメ」と「すごい」の両方を、誰もがみんな持っていて、みんな一人一人が違っていて、お互いに違いを認めあって、みんなが繋がりあっているのだと思います。

 


3143 もりふみさん、もっと議論に参加していただけるとうれしです
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月24日 (金) 21時49分46秒

もりふみさんは投稿は少ないですが、いつも奥の深い内容で敬服しています。

サラさんのことについては、私は好意的に見ている1人です。確かに、内容が分かりにくいこともあったり、3137もなぜ突然このようなことを書くのかと思いました。しかし、私は善意に解釈していましたが。

文章については、私の文章なんぞは、論文でも書くにはいいかもしれませんが、もりふみさんのような洒脱な文章も書けないし(この前のニューエイジ論は最高でしたよ)、あまり一般向けでないなー、と自分ながら好きではないので、サラさんの文章はこんな書き方もあるのかとカルチャーショックを受けています。

もりふみさんのような考えも確かにあると思いますが、サラさんのような方がいてもいいのでは(トンデモは困りますよ〜☆)、という感じです♪♭。

何を書いているのか分からなくなりました(笑)

というか。もりふみさん、よろしければもっと議論に参加していただければうれしいんですが。

 


3142 うーん・・・
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月24日 (金) 20時14分10秒

>3139

もりふみさん

>みなさんは如何でしょうか?

とのことですから、僕の感想を書いておきますが、
そこまで言わなくてもいいんじゃないですか?
ペーパーバーチさんが自分で書くならまだしも、第三者が言うべきことでもないような(^^;
それに、一人称を自分の名前で言うぐらいは、本人の自由でいいんじゃないかと思います。
サラさんがおっしゃってることは、3099あたりに関わることなのではないかと思います。
その時、注意するならまだしも、反省してるサラさんに傲慢云々はちときつくないですかね(^^;
まあ、これは僕の感想にすぎないのですが。

 


3141 PENさんへ
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月24日 (金) 19時51分30秒

PENさん

○ご返事大変ありがとうございます。私にも誤解があったようでした。謝ります。大変申し訳ありませんでした。掲示板によるコミュニケーションは直接顔を見ながら会話をするわけではないので、意思疎通も難しいですね。
その分、正直な気持ちを述べて誤解を解くことが大事だと痛感しました。
PENさんの冷静な対応に感謝申し上げます。

○PENさんとは、生い立ちが共通するようです。以前冗談で、睡眠中にお互い会っていましたっけ、というような話をした覚えがありますが、本当にそうかもしれませんね(^^)。

○お父様のことお話し頂き本当にありがとうございます。
実は私にも両親に対するトラウマがあります。前回の投稿3111で、少し述べましたが私の精神的な病は多分にこの両親の影響があると思います。権威主義的な父、子供への所有欲が強い母のもとで、私の生い立ちは随分といびつなものでした。

親を恨んだこともあります。今でもその気持ちは完全にぬぐえているとは言えません。しかし、スピリチュアリズムを学んでから、このような両親の元に生まれたのは、私の責任だと思えるようになりました。

シルバーバーチ最後の啓示に、「親も自分で選んだということですか?」という質問に、シルバーバーチが「むろんです」と答える場面があります(178ページ)。私はこの箇所を万感の気持ちを込めて読みました。今でも時々目を通します。

とは言っても、両親に対するわだかまりが今でもあるのは事実です。しかし、不思議なことに、他のことで苦しんだ分だけ、少しずつですが、そのわだかまりも少なくなっている感じはします。私の親もこの先長くないと思います(随分年ですので)。少しでも、生きている間に感情的に親に近づきたいと思っています。しかし、無理することなく、自分を偽ることなく近づいていければと思っています。

○PENさんとご両親様のために心よりお祈り致したいともいます。

今後ともよろしくお願いいたします。今回は本当にありがとうございました。

 


3140 ヨシさんへ
名前: PEN  投稿日: 2003年10月24日 (金) 19時02分04秒

3120の発言はヨシさんが成長されたのではないですか、ということを伺いたかった
だけなんですが、矛盾を指摘する形で伺ったことは悪かったと思います。
お気を悪くされたのでしたら謝罪させて頂きます。すいませんでした。m(_ _)m

それと“真の信仰”というと、それぞれが勝手に“真”の意味を自分流に解釈しやす
いですからお聞きしたんです。それを定義せずに対話した場合、その自分流の
解釈がえらく違うばかりに無駄に労力を費やす可能性があると思いお聞きした
だけなので悪意でも何でもありません。

それに対してヨシさんは“真の信仰とは強い信仰、窮地に陥っても信仰を捨てないと
いう意味で使いました。”と説明して下さいました。みなさんは真の信仰の意味を
ヨシさんと同じ意味で解釈しておられたかもしれませんが、私にはわからなかったの
で質問させて頂いたわけです。バカと思われても結構ですよ(^^

3133の最初の発言は、素直に私が誤解していたということを書かせて頂いたの
ですが書き方が悪かったのだと思います。捉え方が変わった、以前とは変化があっ
たということですね。

後半の利他愛についてですが、これも私がヨシさんの言われる利他愛の意味を正確
に把握していなかったことから生じたことだと思います。“真”の意味とは何かという
ことの説明を求めたことと同じで、ヨシさんの思われている利他愛と私の思っている
利他愛の内容が違うためにこういう事が生じたのだと思います。

ということで、気に障るから質問や指摘をさせて頂いたわけではないという事を御理
解頂ければ幸いです。m(_ _)m

…………………………………………………………………………………………

ヨシさんにばかりというのは多分、同じ宗教団体に疑問を感じたり、江原さんの本か
らこちらへこられたという道順が似ているからだと思います。思い当たることが多い
ということだと思います。政教分離がなされていない、一個人への崇拝、集団主義。
私も同じくこれらに大いなる疑問を抱いておりますから十中八九同じ団体だと思いま
す。

題目をあげるという経験もあります。ただし私の場合は子供の頃に自分の意志とは全
く関係なく、勝手に入信させられていたので不熱心で嫌々でしたが。
ですから題目をあげると気分が高揚して精神的なプラス効果を感じるのも理解でき
ます。しかし私の場合、題目をあげた効果というのは利己の範囲を出ないものでした。
私に限ったことですがそれ以上のものがなかったのです。という経験も似ていると言
えば似ているかもしれません。

…………………………………………………………………………………………

ヨシさんが苦の体験をおっしゃられたので私も言うことにします。
私の場合は父親との関係です。今年になってその父親が入院しました。正直私はホッ
としました。ああ解放されたと思ったのです。母に聞くと母も同じでした。入院したのに
悪いけど今が一番幸せだそうです。しかしその入院費用に収入の殆どが費やされます。
私服には穴が開きほころんでいます。パンツのゴムも伸びてゆっくりと下がってきます。
私も母も、もう10ヶ月ほど自分のためのお金はありません。それどころか生活費まで
危ぶまれております。

そんな父親でも愛することが霊性の向上だと思いますが、今の私にはまだ無理です。
病床で死に直面している父ですが、霊的知識やシルバーバーチなどとんでもありま
せん。

死後の知識を伝える絶好の機会と思われるかもしれませんが、苦から逃げまわり、
それを家族に押しつけ、うまく処理できなければ文句や嫌みを言う。何か問題がある
と小学生低学年の子供(昔の私)でさえ盾にして逃げようとする。自分に都合の悪い
事や批判は一笑に付す。それは今でも変わりません。自分が一番偉いと思っている
から人をけなすことしかしません。今から思えばこれらの事は父親のコンプレックス
の裏返しだと思うのですが、その対象にさせられる方はたまったものではありません。
幼少の頃からですから現在でも多大な影響があり、充分過ぎるほどシマウマとなっ
ています。(それはトラウマ!とつっこんで頂けましたでしょうか)

そういう人の死後の状態がどういうものかは大体想像がつきますが、為す術がないの
です。せめて他界後に祈るしかないと思っています。ウン十年間、精神的虐待を受け
続けて来ましたので少し休ませて頂いております。多分この影響は一生消えること
はないでしょう。

 


3139 サラさんへ
名前: もりふみ  投稿日: 2003年10月24日 (金) 17時04分21秒

 サラさん、こんにちは。はじめまして。

 正直に申し上げます。サラさんの一連の書き込みには多少げんなりしていましたが、好意的に受け取っていらっしゃる方もおありのようなので「ゲンナリしてます」という主旨の発言を敢えてしようとは思っていませんでした。「ゲンナリ」の理由はきわめて簡単、仰りたいことの意味、即ち御発言によって何を伝えたいのかという主旨が判然としないからということにつきます(一人称なら「サラは・・・」という固有名詞を使用するよりも「あたい」でも「ワタシ」でも何でもいいから代名詞を用いたほうが、読む側としては幼児を相手にしているような気分にならなくてすむのですけれど、まぁ、それは副次的な理由です)。要するに「一人よがり」なのですね、不特定多数の人たちに何かを伝えるという行為に当然求められる努力を惜しんでいるか怠っているようにしか見えないわけです。でも、まぁ、べつに敢えてそんなことだけを言うのもナンだしなぁ、というふうに思っていたのではあります。

 しかしながら敢えて本日このようなことを申し上げようと思ったのは、下の「お詫び致します」というタイトルのペーパーバーチさんへのメッセージがきっかけです。この書き込みの主旨はよくわかりますが、そのかわり逆に、あなたの著しい思い上がりと傲慢さが露呈されているような気がしてなりません。したがって、サラさん自らがこのことに気づいて貰いたいと思ったというワケです。

>最近、書き込みをされていないようなので気になっていました・・・ サラが原因でしたらごめんなさい。

 掲示板に書き込みをしている誰かが「原因で」ペーパーバーチさんが自ら運営するHPの掲示板に「最近、書き込みを」しないということは、間違ってもあり得ません。太陽が西から昇ることがあっても、それは絶対にありません(ペーパーバーチさんに限らず、誰にもありません、多分)。こんなことはべつに御本人に確かめるまでもないことですから私は敢えて断言しますが、参加者の誰かが「原因」で、運営者たるペーパーバーチさんが書き込みをしなくなるということはゼッタイにないのです。そういう発想そのものが思い上がりであると私は思います。

 サラさんの書き方は、一見するととても潔くて責任感を伴っているようにも思われるかも知れませんし、おそらくサラさん御自身も何となくそんなつもりなのでしょう。しかし、私の錆びついた感性には、どうしても思い上がりと傲慢の裏返しにしか見えません。もちろんそんな意識はサラさんにはないでしょう(だから他人に指摘されるまでは気がつかないのですね。私がこうして申し上げる所以です)。仮にサラさんが「原因で」ペーパーバーチさんが「最近、書き込みをされ」なくなったとしたら、サラさんのいったい「何が」ペーパーバーチさんをして書き込ませなくなったというのでしょうか?そこまで考えが至っていますか?御自身に明瞭に思い当るフシがあるのだとすれば、「最近、書き込みをされていない」ことを気にするのではなくて、そのフシについて思うところを伝えればよいのであって、「サラが原因で」「最近、書き込みをされていない」と飛躍する必要はないですよね。また、べつに思い当るフシがないのであれば、あなたが何かを「お詫び」する理由はどこにもないのではないですか? いずれにしても、サラさんの「何か」によって、ペーパーバーチさんであれ誰であれが、自らの主体的行動・言動を自粛するというカタチで容易に影響を受けることがある(または、あり得る)というあなたのアタマの中の無意識の前提こそが、私が感じたサラさんの思い上がりと傲慢の正体だと思います。

 サラさんならずとも、「〜だったらごめんなさい」「〜だったら削除して下さい」「〜だとしたら削除されても結構です」式の発言はときどき散見されますが、これらはすべて、モノゴトを自分でよく考えるという基本(シルバーバーチも何度も繰り返しているように)をおろそかにしている(本当に『〜』なのかどうかぐらい、御自分でまず判断すべきでは?)ばかりか、相手にボールを投げておいてあとは御随意に、という自分勝手なスタンスが見え隠れしますよね。そういう意味で、その種の物言いに対して私は傲慢さを感じてしまうのですが、みなさんは如何でしょうか?

 サラさん、お気にさわったとしたらごめんなさい(笑)! Thank you!!

3193 名前: ペーパーバーチ  投稿日:2003年10月28日 (火) 23時22分30秒
もりふみさん、こんにちは。

いつもながら、もりふみさんの書き込みは安心して読んでられますね。当掲示板でも僕が全面的に信頼して賛同できる数少ないお一人だと思っています。

今回書かれた、サラさんの一連の発言に対する「げんなり」した気持ちと「思い上がりと傲慢さ」を感じていたとの評価には我が意を得たり!という感じがしました。100%、一言一句、全面的に、賛成しますし(^^;、スピリチュアリズムの掲示板に相応しくない一連の振る舞いに対して、スピリチュアリストとしての毅然とした対応をとってくださった、もりふみさんのような方がいらっしゃることを嬉しく思いました。ここ2〜3ヶ月、まるでニューエイジの掲示板の様相を呈していましたが、久々にスピリチュアリストらしい発言を読んだという感じがします(^^;。

それにしても、このもりふみさんの発言を、僕の気持ちの代弁をしているのだなどと思い込んで批判している人が何人かいらっしゃるようですが、いったいどこをどう読めばそういう結論に到達することが出来るのか……。何度読んでも僕には理解できません。もりふみさんが書いている事って、常識的に、また論理的に判断すれば、僕がどう思うかなどとは関係なく思い至って当然の事ばかりだと思うんですよね。

僕なんかがどう思うのかなんていうこと以上に、一人のスピリチュアリストとして、スピリチュアリズムの名を冠する掲示板に妄想的な発言が垂れ流され、あまつさえそれを楽しみに読んでいるなどと言い出す輩が現れるという悪夢のような状況に対する当然のご指摘であったと思います。

おかしい事はキチッとおかしいと指摘してこそのスピリチュアリズム。対話を拒否した相手まで「みんな仲良く存在を許し合おう」なんて、単なる思考停止でしか無いはずなんですが、そういう思考停止に精神を侵食されてしまうのもニューエイジの影響なのか……。

そうそう。某掲示板での見知らぬ人の投稿ですが、深く共感させられた発言がありましたので、ここに貼り付けてコメントの〆に代えさせていただきます(笑)

|ちなみに「管理人さん、この記事がまずいようでしたら削除してください」とかなら
|真っ先に消すけどな。内容読まずに。
|中身はともかくその一文がまずいんだよって

もりふみさんも例に挙げてらっしゃいましたが、同じ事を思っていたのは僕だけじゃなかったのだな〜、と(^^;。

http://www.paperbirch.com/


3138 心のエネルギーを使うこと:らふぃえるさんへの回答に換えて
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月24日 (金) 14時52分35秒

●投稿3130のらふぃえるさん、yumiさんへの回答で、利他愛を考える際、一つのヒントのようなものがありましたので、これについて述べたいと思います。

ただ、このような(深いと言っては語弊があるかもしれませんが)深い利他愛の問題になると、私は経験が半分、後の半分は頭の中の推測のような世界に入ってしまいます。

したがって、もし議論を続けたい方がいらっしゃれば喜んで議論をしたいと思いますが、そのような方がいなければ今後の課題として、この議論についてはいったん休止したいと思っています。

yumiさんの投稿を引用して
>>私は、本当は何が真実で、何が違っているのか、よく解っていません
>>自己満足に終わりたくも無いのです
すばらしいと思いました。このような内省をもちつつ利他的行為をするのが本当の利他でないかと思います。このような内省を伴わない、上に書いたように、心の動きがストップして自己満足に終わったままでの利他行為は本当の利他ではないと思います。

と3130で私は述べましたが、この「心の動き」について述べたいと思います。なお、
>本当の利他ではないと思います
というのは、筆が滑りました。PENさんが3133で仰った
>目の前で不自由している人に手を貸すなり、意気消沈している人を励まそ
うとすること
これも、立派な利他愛であり、これも「本当の」利他だと思います。

● (心のエネルギーを使うということ)
ある心理学の本で以下のようなことを読んだことがあります。なお、この心理カウンセラーという職業は日本ではあまり盛んではありませんが、患者の心理的な相談を受ける人で、医者と同じように、患者の個人情報に関する厳しい守秘義務を負っています。

『心理カウンセラーがある学校に配属された。生徒からいろいろと相談を受けたが、ジレンマに陥ることがよくある。生徒は先生を信頼して語るのだが、その内容によっては放っておけないことがある。一番すごい例ではピストルを隠していると相談されたことがある。このようなことを職員会議で言えば生徒が処罰の対象になる。さりとてカウンセラーが黙っていれば、それまた問題になる。下手な人(注:私の解釈では「心のエネルギーを使わない人」)ほど、頭で考える。カウンセリングは秘密保持だ言うべきでない。あるいは、職員会議に責任を負っている。言うべきである。非常に単純で理論で決めようとする。これが下手な人の考えだ。
そのような単純なものではない。職員会議で言わなかったら、職員会議で総スカンを食うかもしれない。言ったらこの生徒の一生はどうなるのか。そういう立場のフラフラのところへ自分を置いて、フラフラになるから患者が良くなっていくのだ。カウンセラーが苦しまずに患者が良くなるというのは、虫が良すぎないだろうか』

要するに、フラフラになって(つまり心のエネルギーを使って)始めて本当の解決策が見つかるんだということです。この場合には、例えば、黙っておこうと決心するかもしれません。このとき、一番ずるい方法は「カウンセリングは秘密保持だ」と言って、それ以上心のエネルギーを使わないことです。そうじゃなくて、ばれたら絶対責任をとろうと決心し、「私の一存でやったっことだ。処罰してくれ」と言うことを決意するかもしれません。あるいは、それができないと思ったら、その生徒に「カウンセリングが秘密保持だといっても、自分は家族を養っているし、首にされたくない。だから職員会議でこの話をする」と生徒に真っ正面から言うかもしれません。どちらがいいとは一概に言えません。しかし、どちらにも共通していることは「心のエネルギー」を使っているということです。

●利他愛も同じで、このような心のエネルギーを使わなければならないと思うのです。
3130で
>遠藤周作がライ病院でライ患者に無償の奉仕をしている修道女に無意識の傲慢さを感じたとどこかで書いていましたね
と書きました。私はこの修道女を決して非難しているのではありません。それどころか、私なんかにはとてもできない利他の実践をしているすばらしい人だと思います。だけど、その中に忍び寄る傲慢さがあるとしたら、自分は無償で利他の実践をしているのだということに安住してしまって、心のエネルギーを使って、内省することを怠ったからかもしれません。

●この意味で、yumiさんが3128で、
>例えば「妬み」というものが0.001%でも有れば有ると言う事で、法則はおまけしてくれません。
>「人の為になることをする」と言っても、自分のした行為が本当にその人の為になっているかどうか解りません。例え(例えです)相手が私の手を取り泣きながら「ありがとう」と言ってくれたとしても、高い世界から見たらその人の為になっていないかもしれないと思うのです。ましてやその行為が自分の霊的成長になっているかどうかなどは全く解りません。
自己満足に終わりたくも無いのです。

と仰ったことに、yumiさんは心のエネルギーを使って、内省しているなと思い、すばらしいと私は表現したのです。

 


3137 お詫び致します
名前: サラ  投稿日: 2003年10月24日 (金) 12時45分13秒

ペーパーバーチさんへ

最近、書き込みをされていないようなので気になっていました・・・ サラが原因でしたらごめんなさい。いつもドジで失敗ばかりのこんな私ですがペーパーバーチさんはじめ皆様方のご意見を私なりに掘り下げて反省・参考にさせて頂いています。しかし、ペーパーバーチさんの役割を阻止しているようであればサラの本意ではありませんので投稿は控えさせて頂きます。       (私メも真理を探究していますので掲示板は時々、参考にさせて下さいネ)

Thank you !!


ガーデナーさん・フアニーズさん・yumiさんのHP見ました。

サラなりにうなづいたり、そうなのよネ・・・自分にも当てはまるかも?と楽しく読ませて頂きました! ガーデナーさんが仰るようにサラもできたら楽しく実践したい(!?)できるはずと思いました。試行錯誤しながら「いい加減はダメだけど好い加減がよい」に行き当たり、つい最近ですがこれって「お釈迦様の中道」じゃな〜い?って思ったりしてまーす☆(やっと皆さんにたどり着けたと思った途端にパ〜ッと新たにまた広がって・・・クウウーッ またレッスンだよ〜 神様しばしの休憩を!! 奥が深〜いのダー!!の繰り返しをやっているみたい・・・グシュン! 角度を変えて、語弊があるけれども楽しく遊びながら(!?)無理をしないで出来る範囲内でやる(する)がサラの実践方法で〜す。
ガーデナーさんのhpを読んで嬉しくなりました Thank you !!

 


3136 ヨシさん
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月24日 (金) 12時29分23秒

ヨシさん

>3130

>無知(痴)とは何でしょうか? 単に物事を知らない、と言うことでもなさそうですが? 怒りについても、愛情を持った怒りは悪ではないと思うし(愛情のある先生ほど生徒に怒るというような意味で)

これもvery good questionですね(^^)
仏教では、無知(痴)とは、空と縁起に関する無知、ということのようです。
つまり、自分が他の人々ないし存在と相互依存関係にあることに無知で我欲を貼ること(=空への無知)、と、正しい因果関係への認識の不足(=縁起への無知)ということだと思います。
スピリチュアリズム風に言い換えると、霊的知識への無知と、正しい摂理・因果関係への無知、ということになると思います。
こういった無知によって、人は知らず知らずに悪を働く可能性がある、ということはとても大切な認識ではないかと思います。

怒りが、愛から発する怒りであれば、ヨシさんのおっしゃるとおり、ぜんぜん悪いことはないと思います。
そのため、仏教だと悪い怒りを「瞋恚」などと難しい言葉で呼んでるのだと思います。
維摩経でも、菩薩は「怒りを発して憎まず」ということらしく、あとで憎しみに転化するような怒りがよくなくて、愛からの怒りは良いということなのかもしれません。
とはいえ、世の中の怒りの大半はそういった崇高な動機と全く正反対なものばかりですし、愛情から怒るといっても、よほどな達人でない場合自分の怒りの感情を正当化するだけの場合も多いと思いますので、極めて例外を除けば、怒りは悪と言ってもかまわない気がします。
それに、愛情からの怒りは、怒りでなくて、心中は悲しみから相手のことを思って叱る、といった具合なのではないかと思います。

悪は、ヨシさんのおっしゃることは、
魂に良くないことと(良心に反すること)と、人に精神的・肉体的に害ないし苦痛を与えること、とまとめられるように思います。
たしかに、この二点が実際に起こった場合は結果するかもしれませんね。
ただし、「人は自ら悪いと思ってることをしない」というソクラテス以来のパラドクスがありますよね。
たぶん魂に良くないとか害になるとか最初から本当にわかっていたらその人は悪を行わないのではないかと思います。
いいかえると、何らかの意味で「善い」と自分にとって思うから(快楽なりたいしたことない善さであろうと)、ある人はその行動をなす、あるいは、なさない決断をするのではないかと思います。
知らずに摂理に反する、というところに、悪が起こるのではないかな、と僕は思います。

利他愛を実践してる人に、傲慢がしのびよる、というのは、むずかしいですねー(^^;
僕でも、ライ病の方たちに奉仕することをもししていたら(するほど奉仕の精神に満ちることができるかわかりませんが(^^;))、傲慢になってしまうかもしれません。
それを傲慢と言って指摘するのも、いささか酷な気もします。

でも、遠藤周作が言いたいこともわかるような気もして、
つまり、人間の行う善行なんかたかがしれていて、しかもたかのしれた善行を行うにも神の恩寵と導きがあってはじめてできる、人間が自力で善行などできると思ったら大間違いだ、というキリスト教のアウグスティヌス以来の考え方なのではないかと思います。
僕も、基本的にはこの考え方、正しいとは思うんですよね。

>こう考えると、悪も善も相対的で、悪の中にも善があり、善の中にも悪があるかもしれませんね。

うーん、必ずしも悪や善が相対的とは思わないんですよ。
世の中には、変らない善も、変らない悪もあると思うんですよ。
ただし、一見善で思われることをやっていくと、その中に悪が起こってくる、という弁証法は、本当歴史を見ていてもよくありますよね。
プロテスタントの宗教改革や共産主義が、出発点においては理想と道義心に燃えていたのに、自分たちが政権をとるとかえってひどい不寛容と抑圧の体制を築く、なんてことはいままでしょっちゅうありましたし。
むずかしいですねー。

ヨシさんのおっしゃるとおり、思考停止、反省の不足が、傲慢などなどの悪を生むということなのかもしれません。
とすれば、常に悪の可能性に傾く自分や社会のありように反省を絶えず向けるということが、重要なことのように思えます。

本当、人の目の中からおがくずを取ろうとする前に、自分の目から梁をとりのぞけ、と自分にも人にも言って聞かせるべきなのかもしれませんね(^^)

 


3135 PENさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月24日 (金) 11時48分01秒

>私は逆に目の前で不自由している人に手を貸すなり、意気消沈している人を励まそ
うとすることがどうしてそんなに難しいことなのかと違和感を持ってしまいます
● 目の前で不自由している人に手を貸すなり、意気消沈している人を励ますことは、楽にと言っては語弊がありますが、誰だって体の方から反応してしまうと思いますよ。
私は、そのようなことでなくて違う観点から利他のことを問題提起しているつもりなんですが、これについては別途ご説明します。

● PENさんの3120の投稿といい、3183の投稿といい、どうも私の文章に限って、異様に矛盾点を探しているようですが、何か気に触ることでもあるのでしょうか?
3183の矛盾だという指摘についても、私は同じことを別の角度から言っているまでで、矛盾していると思いませんよ。

このような揚げ足をとるような指摘よりも(言葉がきつくてすみません)、本質的なことで議論したいですね。

 


3134 わー、ファニーズさんだ!!
名前: きっちょむ  投稿日: 2003年10月24日 (金) 10時56分37秒

kimiさんのHPをご紹介くださったのは、ファニーズさんだったのですね!! ああ〜、なんという思い違いを・・・・(汗)。

ガーデナー様、ならびにファニーズ様、この度はほんとうに申しわけありませんでした。この失態を、どうか、どうか、許しください。

そして、もう一度あらためまして、ファニーズ様!! 「kimiさん」と「カノンさん」の、素晴らしいHPをご紹介くださり、心より感謝しております。ファニーズさんがkimiさんとお友達なんて、なんかとてもうらやましい限りです(笑)。

これからもこの掲示板でのファニーズさんのご活躍を、ガーデナー様同様、大変楽しみにしています。ありがとうございました!!!

 


3133 そんなに難しいですか
名前: PEN  投稿日: 2003年10月24日 (金) 10時27分26秒

●ヨシさん

>>必死になって題目をあげたら霊性の向上があるのですか?
>●はい。私の場合にはありました。

>それまで私にはどうしてもできなかったことができるようになったのです。

>本当にほんの少しですが、このカルマの解消によって神に少し近づいたと
>は言えないでしょうか?

を読んで私はヨシさんが成長されたのだと思ったのですが、

>>成長して、もはや必要なくなった
>●そんなに私は成長しているとも思えませんが、成長と言うよりとらえ方、
>関心が変化した、ということかもしれません。

御自分ではそう思っていらっしゃらないということで私の誤解のようでした。
失礼しました。

………………………………………………………………………………

> 私はこのような「悪」、「弱さ」を真っ正面から見つめないと、真の信仰、利他愛は
> 実践できないと思っているのですが。どうでしょうか?

利他愛の場合、私は自分の弱さや悪のことは考えないです。ものすごく単純です。
その人が少しでも楽になればと思うだけです。利他愛などという用語や理屈よりも
先に動いています。用語や理屈は後からの話です。

私は逆に目の前で不自由している人に手を貸すなり、意気消沈している人を励まそ
うとすることがどうしてそんなに難しいことなのかと違和感を持ってしまいます。

私は視覚障害者が盲導犬を希望されている数に対して、無償で貸与される盲導犬
の数があまりにも少ないことを知ってから、たかだかドッグフード代にしかならない
わずかな額ですが寄付させて頂いております。収入の殆どは親の高額な入院費用
に費やされますから寄付出来ないことも多々ありますけど。

盲導犬は道を教えるだけではありません。心のパートナーとしてかけがえのない
存在になります。その境涯が理由で自殺を考えることもある方が、盲導犬と生活
するようになってから励まされ、癒され、自分の苦に対して前向へと変化することが
あるそうです。私は直接盲導犬育成の仕事に関わっていませんので、その代わりに
寄付という形で力になれたらと思うだけです。ただただそれだけです。何の理屈も
ありません。

 


3132 空句さん サラさん
名前: ファニーズ  投稿日: 2003年10月24日 (金) 09時15分54秒

>人間界に生きている方は、みんな同じ霊的レベルなのです。

ファニーズさんの言われる「霊的レベル」は「霊的発達段階」とは違った意味なのでしょうか。私はこの二つの意味を今まで同じだと思っていました。

はい、個人個人の霊的発達段階は、みんな違います。でも、みんなダメで、みんなすごいのです。友人、kimiさんのページが参考になります。

http://homepage3.nifty.com/peroisgermanshepherd/prof52.htm

心を込めて霊の道具として実生活・実社会でがんがん進みます。
また逢いましょう。

 


3131 yumiさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月24日 (金) 00時29分18秒

yumiさん、質問があります。

>私の勝手な想像ですが、ヨシさんはずっとお題目を唱えていて無我になっていたのではないでしょうか。
そうすると自分の内側を通じてメッセージが届きやすくなるようです。
●メッセージが届きやすくなる、とのことですが、どこに届くのでしょうか。守護霊でしょうか。それとも自分の無意識でしょうか(西洋の精神分析学では無意識と考えているようです)。

>自分の内側から質問の答え(メッセージ)が浮かび上がってきたりします
●インスピレーションを受け取るということだと思いますが、心、あるいは魂に変化を感じますか。浅い、深いがあると思いますが、私の体験(投稿3111)のような涙があふれ、体中に喜悦を感じるというようなレベルから、単なるインスピレーションというレベルまであるように思うのですが。

>私はお題目や祈りを使わなくても、自分の意識を変えることは可能であると思います。
それを使った方がやりやすい事は有るかもしれません。
●yumiさんは、具体的にはどのようにしているのでしょうか?

 


3130 らふぃえるさん、yumiさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月23日 (木) 23時53分35秒

らふぃえるさん

>悪とはなんでしょうか? ヨシさんはどうお考えになりますか?
●very good questionですね。改めて聞かれると詰まってしまいます。
仏教でいうところの三毒、貪欲(貪)、怒り(瞋)、無知(痴)、----これも一つの視点ですね。貪欲(貪)、怒り(瞋)は分かるんですが、無知(痴)とは何でしょうか? 単に物事を知らない、と言うことでもなさそうですが? 怒りについても、愛情を持った怒りは悪ではないと思うし(愛情のある先生ほど生徒に怒るというような意味で)

●一言で言うと、自分の良心に反することかもしれません。しかし、これでも漠然としているし、全てを網羅していないと思います。

●具体的に言うと、良心に照らしてなさねばならないことから逃げること、人に精神的・肉体的に害になることを考えること(害になる行為を知りながら行うことは当然、悪でしょうね)などを普通は悪と言っていますが、この他にも

愛、利他愛を実践していると思いこんでそれ以上の心の動きがストップしてしまったら悪にもなるかもしれませんし(下のyumiさんへのコメントにも書きました。また、遠藤周作がライ病院でライ患者に無償の奉仕をしている修道女に無意識の傲慢さを感じたとどこかで書いていましたね)、自分の心の流れに素直に従わないのも悪かもしれませんね(本当は芸術家になりたいのに、世間体を気にして法学部に入るとか)。

●こう考えると、悪も善も相対的で、悪の中にも善があり、善の中にも悪があるかもしれませんね。

●もっと突っ込んで考えた方がいいですね。悪が分からないと善も分からないし。今後の課題としたいです。

中国の例はあまり良くなかったですね。これも今後の課題とします(^v^)

yumiさん

>私はお題目や祈りを使わなくても、自分の意識を変えることは可能であると思います
●祈りがカルマを変えた唯一の原因でないと思うことについては投稿3115で書きましたが、祈りについては私は分からないことが多いです。また、教えて下さい。

>私は、本当は何が真実で、何が違っているのか、よく解っていません
>自己満足に終わりたくも無いのです
●すばらしいと思いました。このような内省をもちつつ利他的行為をするのが本当の利他でないかと思います。このような内省を伴わない、上に書いたように、心の動きがストップして自己満足に終わったままでの利他行為は本当の利他ではないと思います。

 


3129 お詫び
名前: 空句  投稿日: 2003年10月23日 (木) 23時45分57秒

[3122]の私の投稿の中に、この掲示板には不適切な表現をした箇所がありました。

「慈悲のシャワー」という誤解を招きやすい言葉を使って申し訳ありませんでした。
どなたか忘れましたが、それに似た言葉を使い注意されたのを思い出しました。
ここで使った「慈悲のシャワー」は、シルバーバーチの霊訓(十)の11章にある『ベネディクション』に書かれてあるようなことを言いたかったのです。

 


3128 ヨシさんへ
名前: yumi  投稿日: 2003年10月23日 (木) 23時16分28秒

私の勝手な想像ですが、ヨシさんはずっとお題目を唱えていて無我になっていたのではないでしょうか。
そうすると自分の内側を通じてメッセージが届きやすくなるようです。
その体験でヨシさんの意識が変わったのです。意識が変わると起ってくる現象が違ってきます。でもそのことで霊性が向上したかどうかは解らないです。

私はお題目や祈りを使わなくても、自分の意識を変えることは可能であると思います。
それを使った方がやりやすい事は有るかもしれません。
又意識的に空(無我)の状況をつくり出すと、自分の内側から質問の答え(メッセージ)が浮かび上がってきたりします。
それが本物で有るか否かの見分け方は簡単です。ヨシさんが体験された様に、疑う余地のないものが本物(低級霊で無いという意味で)です。

善と悪について。
私は自分の内面を見ていったら、善と呼ばれるもの、悪と呼ばれるものの全てが自分の中に有るのが解りました。例えば「妬み」というものが0.001%でも有れば有ると言う事で、法則はおまけしてくれません。(笑)
それが解ってから自分の中から何が出てきても驚いたり苦しんだりすることはなくなりました。例えば悪と呼ばれるものが自分の中から出てきたら、以前は自分を責めたりしたのですが、今はそのエネルギーを「何でそう思うのだろう?」と言う方に振り替えるようになりました。

私は、本当は何が真実で、何が違っているのか、よく解っていません。
例えば「人の為になることをする」と言っても、自分のした行為が本当にその人の為になっているかどうか解りません。例え(例えです)相手が私の手を取り泣きながら「ありがとう」と言ってくれたとしても、高い世界から見たらその人の為になっていないかもしれないと思うのです。ましてやその行為が自分の霊的成長になっているかどうかなどは全く解りません。
自己満足に終わりたくも無いのです。
ですので、私の場合はそういう観点から行動していないのです。誰かが「これが真理だよ」と言ってくれた言葉を頼りに行動するより、例えば自分の居る環境が良くないと思ったら、まず自分が変わる事を目指します。自分を知る、自分を見てゆくことをしています。
あとは出来る事をやってゆくこと。そしてその責任を自分が負うこと。それがどのような事態になっても後悔しないこと。
でもそうやって行動していると、「やっぱりそうだったか」と思う事は多いです。

霊性の向上は後から付いてくるものなのだと思っています。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~y-h/

 


3127 悪について若干
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月23日 (木) 22時21分50秒

ヨシさん

3119

面白い問題提起ですね(^^)
べつに挑発的なんてことはないと思いますよ(^^)

ただし、その前に、悪とは何か、についても合わせて議論した方がわかりやすくなるのではないでしょうか。
悪とはなんでしょうか?
ヨシさんはどうお考えになりますか?

僕は、人間が無知やいろんな理由から、摂理から逸脱したり外れたりすることが、悪なのではないかと思っています。

自分の中の悪を反省するのは、とても大切だと思います。
人間はとても狂気に陥りやすく、機械に堕し易く、危険な生き物だということを、繰り返し反省し批判することは、特にいまのようなテロや戦争が吹き荒れる世界であれば、とても大切だと思います。
スピリチュアリズムも当然そうした反省の契機があると思いますが、歴史的に見た場合は、ヨーロッパの人文主義が最もこうした役割を果たしてきたように思います。
あと、キリスト教も仏教も、人間の悪には敏感にいろんな分析をしてきたと思います。

僕の場合、仏教でいうところの三毒、つまり三つの狂気・誤作動を、自分についても他人についても、批判することを最近心がけてます。
貪欲(貪)、怒り(瞋)、無知(痴)、ってやつですね。
特に怒りはよく自分におきますし、無知もなかなか人の身である以上完全には克服できないので、その克服を心がけてます。
むずかしいですけどね(^^;
これらの把握と克服がなくて、利他が本当にできるということはないのではないかと僕も思います。

しかし、人間の良いところと悪いところの両方の把握が必要だと言うことのたとえには、ちょっと中国の都市部農村部のたとえは不適切なのでは・・・(^^;
カテゴリーが違いますし、田舎には田舎のよさもあるでしょうし(^^)

人間の弱さ、というのは、本当、把握が大切なことですよね。
人間としてのあるべき姿(規範や徳)を把握することと、あるがままの人間の姿(人間本性)と、
両方把握することが、実に難しいですけど、大切なのではないかと思います。

 


3126 光りのシャワーさんへ
名前: まるも  投稿日: 2003年10月23日 (木) 20時37分43秒

レスをありがとうございます^^

>霊的進化の状況は人によって違うので一概に、肉食反対はできない
>ところでしょう。(実は大反対したい!!)

主張はしても押しつけられない、という事ですよね。
僕も押しつけられるのは嫌なので、気をつけたいところです。
シルバーバーチの言う、「軽くドアを叩いてみるのです」みたいな
ことはしますけど。うーん、でも微妙な難しい問題ですねぇ。。
なんていうか、改めてっていうか、実に感慨深い部分でした。
スピリチュアリズムの核心部分の一つですよね。

光りのシャワーさんはお読みになられたか分かりませんが、
肉の他に卵、牛乳の話なども含め、僕は幕内秀夫という人の本が
非常に参考になりました。

 


3125 ハナリンさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月23日 (木) 19時40分18秒

ハナリンさん、お久しぶりです。

>自分がいかに汚い部分をもっているかわかっているかによって、魂も磨かれるのではないかと思います。
>「自分にはこんな汚いところがある」と自覚できることが大事なのでは?と思います。

私もこのことが言いたかったのです。

 


3124 ガーデナーさん、PENさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月23日 (木) 19時25分04秒

ガーデナーさん

●タテ波、ヨコ波の説明とても分かりやすかったです。どうもありがとうございます。


PENさん

>ちょっと矛盾を感じましたので指摘させて頂きますね
●確かに、論理的に言えば、その目指すところ(現世利益的なところと思いますが、そこはよく分かりません)に私が関心を示さなくなった、ということでしょう。それに団体の性格が追い打ちをかけたということだと思います。

>成長して、もはや必要なくなった
●そんなに私は成長しているとも思えませんが、成長と言うよりとらえ方、関心が変化した、ということかもしれません。

>“真の信仰”“真の利他愛”とはどういうことですか?
●真の信仰とは強い信仰、窮地に陥っても信仰を捨てないという意味で使いました。「真の」という用語は「偽の」の対語と思われ、誤解を生むかもしれませんね。
「真の」は利他愛に修飾するつもりはありませんでした。単に「利他愛」と考えてください。

>自分の弱さを克服しようと努力しないのに利他行為なんて無理ということでしょうか?
●「弱さを見つめないでは無理ではないか」ということです。いい例が思い浮かびませんが、例えば先日中国に行ったのですが、中国の最先端の分野ばかり見ていては中国は理解できないし、中国の遅れた部分(貧しさなど)も併せて見ないと本当の中国を見たことにはならないとも思います。
同じく、人間の「悪」、「弱さ」にも目を向けないで(克服しないと、ということではありませんよ)、なぜ利他愛だけを語れるのか分からないと言うことです。←それを当然の前提にして話されている方が多いとは思いますけれども。

●ガーデナーさんの言葉を借りれば、
>人間は肉体をまとってるいじょう、低い波動を避けることは出来ません。
>食欲、物欲、肉欲、性欲、支配欲等がない人間はいません。この低い波動にどっぷり共振してしまうと、なかなか抜ける事ができません。

このことを、もっと見つめる必要があるし、見つめないで愛とか利他愛と言っても空虚な感じがするのです。

 


3123 自分の悪を知っている人が・・・
名前: ハナリン  投稿日: 2003年10月23日 (木) 19時19分43秒

ヨシさん、みなさん、お久しぶりです。
ヨシさんの投稿に思わず反応してしまいました。

この地球上に人間として生まれてきたのは、お花畑の天国に来たわけではなく自分のカルマ(ここでいう、悪、罪なのでしょう)を清算するために好都合だから・・・とも言われています。

つまり、人間はだれでも悪をもっている、とも言えます。

ただし、それをどれだけ認識しているか、自分がいかに汚い部分をもっているかわかっているかによって、魂も磨かれるのではないかと思います。

きれいな水に墨をおとせば汚れが目立つけれども、汚い水に墨を落としてもわかりません。「自分にはこんな汚いところがある」と自覚できることが大事なのでは?と思います。

http://www2.odn.ne.jp/~ohana

 


3122 ファニーズさん  サラさん ガーデナーさん
名前: 空句  投稿日: 2003年10月23日 (木) 19時07分18秒

ファニーズさん、電脳世界に戻って来ていただき嬉しいです。

私にとっては、ファニーズさんの書き込みは理解しやすいので読むのが楽しみです。ありがとうございます。
[3108]はよくわかります。そのとおりだと感じます。
もう少しわかりたいので、お忙しい中すいませんがどうか教えてください。お願いします。

>人間界に生きている方は、みんな同じ霊的レベルなのです。

ファニーズさんの言われる「霊的レベル」は「霊的発達段階」とは違った意味なのでしょうか。
私はこの二つの意味を今まで同じだと思っていました。

人間界は、人それぞれ霊的発達段階の違いはあるが、例えば「善と悪」「光と陰」「苦と楽」という両極性を持っている表裏一体の世界だからこそ霊的な学びを得る場、という意味で人間界は霊的に同レベルと受け取っていいのでしょうか。

★私もサラさんのさらっとした投稿が好きです。

サラさんの[3217]を読んで
>亡くなられた方に〜〜(あとは本人の自由です)間違ってもお願い事はしないでくださいネ!

お願いをしなくても亡くなった方から私たちのことをあの手この手で応援してくれていて、気がつけば慈悲のシャワー(霊力のことだと思います)を、いつでもどこでも無限に降り注いでくれているのを感じます。
私は嬉しくて嬉しくて亡くなった子どもにお礼ばかり言っていました。

ところが最近になって、亡くなった子どもは「一即一切」、 もう大霊さまの法則の中の一部でもあるような気がして「わが子に対し執着するのはおかしいゾ!」と思うようになりました。

娘の名前を呼んでお礼を言っていた私は、大霊さま、守護霊さまにお礼を言っています。

★ ガーデナーさんのHPにあったお庭、素敵です。

ガーデナーさんの[3121]を読んで
>そのHPは私が紹介したのではありません。

「誰でも霊・ひと=霊としての生き方」のHPはファニーズさんが紹介してくださったのでは?
あのHPのおかげで転換期に向けての勇気が湧いたので記憶に残っています。

 


3121 タテ波ヨコ波
名前: ガーデナー  投稿日: 2003年10月23日 (木) 18時06分18秒

きっちょむさんへ

ごめんなさい。そのHPは私が紹介したのではありません。どなたが
紹介したのか忘れてしまいました。きっちょむさんのお心を癒すHP
をご紹介された方に御礼申し上げます。

ヨシさんへ

ご自分の悪・弱さを見れるということは、確実に霊性が上がってる
証拠だと思いますよ。図で以ってご説明できると分かりやすいので
すが、一本の縦線を引いてください。上を高い次元、下を低い次元
方向とします(タテ波)。
次に、横線を入れていきます。横線は一本ではなく、5つくらいの
グループに分けて、線の束(太さ)を変えます。下から3番目の所が
私たちの人格・霊格の位置です。そこから上方が神に近づき、下方が
動物的波動に近づきます(ヨコ波)。

人間は肉体をまとってるいじょう、低い波動を避けることは出来ません。
食欲、物欲、肉欲、性欲、支配欲等がない人間はいません。この低い波動に
どっぷり共振してしまうと、なかなか抜ける事ができません。自分の低さ
に気が付かないでいる方は、このゾーンにいます。

自分の居るゾーンより上方が各自内在する神性(無意識層)を発揮し、神
に近づくゾーンです。上方は無限大です。

霊視とか透視はすぐ上のゾーンからのメッセージや映像をキャッチしてる
ようですが、かなり曖昧です。波長が合った情報しか手に入れる事はでき
ません。超能力者と言われる方々でもその程度です。ヨコ波(密波)が強
い=霊格が高いにはならない理由です。宗教家にも同じようなことが言え
ると思います。勿論、彼らも低い動物的波動を持ち合わせているからです。

より高い次元の魂と共振共鳴するために、私たちは生まれて来たと言っても
過言ではないと思います。日常から自分(魂)を鍛え、低き欲をコントロール
し(取り去ることはできません)、霊性を向上させる努力を怠ることなく、
自分を捨てて祈り続ければ、神は決してお見捨てにはならないと思っています。

そのためには、知識は絶対に必要です!法則に対する無知のおかげで、肉体
を脱いだ(死んだ)にも拘らず、さ迷ってる霊の多さに神も呆れていると
思いますが、神は愛のエネルギーで以って調整してみえると思います。
余談でした。

http://www1.ocn.ne.jp/~healing/

 


3120 たびたびすいません
名前: PEN  投稿日: 2003年10月23日 (木) 17時30分28秒

●ヨシさん

ちょっと矛盾を感じましたので指摘させて頂きますね

> 確かに知識だけの頭でっかちよりも、無知蒙昧の人が必死になって題目を
> あげた方が菩薩になれる(霊性の向上がある)ということは永遠の真理だと
> 思います



> ある時点で必死に題目があげれなくなりました。理由はよく分かりませんが、
> その現世利益的なところ(他の理由があるかもしれませんが、よく分かりませ
> ん)に私の魂(あいまいな表現ですが、この魂という言葉がしっくりきます)が
> 関心を示さなくなったということがあるのかもしれません。

もし題目で霊性の向上があり、それが永遠の真理だと思われるのならば

> その団体があまりに集団主義的、一個人への極度な崇拝、実質的な政教分離
> がなされていないことなどに、ほとほと嫌気がさしたことがあります。

こういう理由で団体からは脱会したとしても、個人として題目をあげたいと思われ
るのではないでしょうか。永遠の真理ですから。ということで私から見ますと

> その現世利益的なところに私の魂が関心を示さなくなったということがあるのか
> もしれません。

ヨシさんがこう感じられたことが事の本質ではないかと思いました。つまり過去の
ある時点では“題目を上げると霊性の向上があり、それを永遠の真理”と思われた
、あるいはそうだったのですが、その時点を通過して成長されたために“現世利益的
なところに私の魂が関心を示さなくなった”のだと思いました。

これを学校にたとえますと、三年生から四年生になったら三年生のやる事には
興味がなくなったということではないかと。中途半端なたとえですいませんね。
成長して、もはや必要なくなったものが永遠の真理だろうかという疑問です。

……………………………………………………………………………………

「悪」と「善」の御質問ですが、おっしゃりたい事がよく理解できないんですが(^^ゞ

自分の弱さを克服しようと努力しないのに利他行為なんて無理ということでしょ
うか?

もう一点

“真の信仰”“真の利他愛”とはどういうことですか?
“真”がつくのとつかないのとではどう違いますか?

 


3119 「悪」と「善」:挑発的に見えますが、まじめな質問です
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月23日 (木) 14時36分18秒

ちょっと挑発的なことを書かせて頂きます。しかし、まじめな質問です。

この掲示板の投稿をよんでいると、利他愛とか人を愛するということを、いとも簡単に書かれる方が多いんですが(←挑発的だ)、私はこのような投稿を読むといつも違和感を感じりす、悩んでしまうんです。

悪があって善がある、と思うんですが、その「悪」の部分への言及がないんですよね。

前にも書いたように、私の内面を見つめると「悪」、「弱さ」を痛感するんですが、愛とか利他愛と簡単に仰る方は((←また、挑発的だ)、人間の持つそのような「悪」、「弱さ」をどう考えているんでしょうか?

前にも書きましたが、聖書を読むとイエスの人間的な弱さや、イエスの弟子たちの卑劣さ、弱さがうまく記述されていて、それでもその弱さ、卑劣さから出発して神に近づこうという熱意の悲壮さに感動するんですが、そういう点について、愛とか利他愛だけを仰る方はどう考えているんでしょうか?

私はこのような「悪」、「弱さ」を真っ正面から見つめないと、真の信仰、利他愛は実践できないと思っているのですが。どうでしょうか?

この掲示板では、正直な気持ちを書いてもいいし、むしろ書いて議論すべき場所だと思いましたので、書かせて頂きました。

 


3118 まるもさん 食物に関して
名前: 光りのシャワー  投稿日: 2003年10月23日 (木) 12時30分01秒


肉食は、食物アレルギーの原因です。 
スピリチュアルな見地からはよくないのでしょうが、霊的進化の状況は人によって違うので一概に、肉食反対はできないところでしょう。(実は大反対したい!!)

肉食、卵、牛乳 は、私の場合は、霊云々もありますが、肉類は湿疹ができその傷跡がずっと後まで皮膚に残り、牛乳は筋肉が軽い麻痺をおこして、茶碗を取り落としたりします。ので、食べたり飲んだりは、いたしません。 今 大丈夫な人も、許容量を超えたときに、心身に発症します。 一生そうならない人もいます。食物アレルギーは、大豆油、その他も原因となるものはたくさんあります。 

唯物論者でも、体に悪いとか、動物愛護の見地からとかで、肉食をやめ、菜食の人がいるくらいです。 

送別会が焼き肉やさんと解ったので欠席、オードブルの時は、おいしそうとたべたり、ラーメンはやめられないし。スーパーで肉こそ買いませんが、こんな進化状況です。 このたびのことでスピリチュアリズムをもっと日常に生かしていくように気持ちを新たにします。

 


3117 ヨシさん・皆様方へ  Thank you !!
名前: サラ  投稿日: 2003年10月23日 (木) 11時46分25秒

貴重なご意見、ご感想ありがとうございました。謙虚に受け止めたいと思います。(おーットト・・・レッスンがきたヨ〜)

複数のご相談を抱えていまして掲示板を見る時間がとれなくて遅くなりました。ごめんなさ〜い。 
そうですネ・・・わかりずらい書き込みがたくさんあったかと思います。重ねて皆様へお詫びいたします!!  以前、「亡くなったことを自覚されていない方々が多くて・・・ご住職さんが本来の役割で生きていたときの執着(思い・恨み・つらみ・悲しみなど)を置いて、そばに指導霊様がいらっしゃるので一緒に行ってください」の役割があるのですが・・・みたいなことを書いたと思いますが。余談ですが私が本格的に最初に関わったのは密教です。ごたぶんにもれず(!?)現世利益を求めて○○ペンダントを購入しちゃいました・・・エーッ!! ゲーエッ!!というようなことが立て続けに起こりその会社へ連絡したら密教のご住職さんが友達なのでということで紹介されて(ご夫妻)今年の2月ごろまである意味ではサラの師でもありました(省略)実家が以前、お寺だったこともあり10数年前までは住職の資格をと真剣に考えていたこともありそれなりに勉強もしたが・・・ある日、私の中で肩書きなんて必要ない!! そのころ同時進行で○○先生からプロの鑑定士にならないかとの話があり(今も未熟ですが。未熟であるため)お断りしたら今度はセミプロでとまた話があり丁重にお断りした(時効なので?話しますがその昔、先生の意向で実名である本に少しばかり掲載されたことが恥ずかしながらあるのです。その関係の方々のネタ本に複数の本がなっていると聞き・・・まア〜いいか。少しでもお役にたてれればいいか〜?と忘れているうちに最近ひょんなことから改訂版が出てその個所は削除されていてあ〜ッ!!良かった〜とホッとしているところデ〜ス!!今はあのときの直感は正しかった♪現在フリーで制約や競争もなく自然の流れに任せる喜び・苦難もあるが・・・♪)長くなってすみませーん! そういう訳で元にもどりま〜す。かくいうサラの実家のご先祖様方のある一人のお坊さん(ご住職さん)がサラにこんなことを言われたことがあったのです「自分はお坊さんを長年やっていたけれども死後の世界(霊の世界)があるなんて思ってもいなかった!本当にあったんだ。知らなかった・・・」そして、その本人自身も自分の死を自覚していませんでした。いろいろな本に書かれているように私達と一緒に勉強をしているのですネ・・・(そのときに実感しました!)その後サポートなどもして頂き数年後には納得されて行かれました。生命(いのち)は永遠なので次元が違っても意志はあるので死を自覚しないままいろいろなことをこころみたりしています・・・
よろしかったらですが、皆様方へお願いがあります☆  亡くなられた方に「亡くなられたことをお話する。執着を置いてそばに指導霊様が一人一人についておられますので一緒に行ってくださいネ・・・」とお伝えして頂ければ幸いです!!(あとは本人の自由です)間違ってもお願い事はしないでくださいネ!(可哀想です) どうしてもお願いしたいときにはご自分の守護霊様にお願いしてくださいネ。
終わりになりましたがスピリチュアリズムとニューエイジについてですが
・・・ 答えになっていないかも知れませんが、サラの場合は全て包括(内包されている)して真理はあると考えています。 フアニーズさんのご意見と近いかもしれませんネ。いつもパイプ役になれたらと思っています! 愛を込めて・祈りを込めてを参考にさせて頂きたいと思いま〜す。 Thank you !!

 


3116 ガーデイナーさんへ、感謝を込めて
名前: きっちょむ  投稿日: 2003年10月23日 (木) 10時44分07秒

以前ご紹介いただいた「誰でも霊・ひと=霊としての生き方」というHP、何気なく覗いてみましたところ、一風変わってはいましたが、展開の仕方がとてもおもしろく、一気に読ませていただきました。kimiさん(筆者)の、飾らない、独特の?(笑)表現方法もさることながら、書かれている内容は非常に勉強になることばかりでした。さらに、そのkimiさんのリンクから「カノンさん」のHPを知ることとなりました(すべては必然で起こっているのですね)。現在は残念ながらもう更新はされていないのですが、その中の『日記』のコーナーは、大変読み応えがあり、素晴らしかったです!! かなりの量でしたので、途中からはプリントアウトして、毎日少しずつ楽しみに読ませていただいてます(黄色のマーカー線をいっぱい引きながら・・・笑)。カノンさんと霊界との交信記録。未熟だからこそ価値があること、人間として修行して行く上での、悩み、苦しみ、失敗、挫折など、人間の弱いところをすべてさらけだしながら、同じ間違いを何度も何度もくりかえしながら、大いなる「神の愛」に見守られ、霊的に成長(向上)されて行く様は(途中までですが)圧巻です!! 同じ人間として、魂の琴線にふれることもしばしばで、なんど素晴らしい、気づきの涙を流させていただいたことでしょう!! 

ガーデイナーさん、素晴らしいサイトをご紹介いただき、心より感謝しています。また、掲示板でのコメントも、いつも大変参考にさせていただいてます。これからも楽しみにしています。ありがとうございました!!

 


3115 らふぃえるさん、PENさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月23日 (木) 02時10分27秒

●らふぃえるさん、PENさん、ご返事どうもありがとうございます。信仰、祈り、カルマ、利他愛の問題についてはもっと議論してみたいですね。今日はもう遅いので(^^;、なぜそのカルマ(投稿3111)が解消されたのか、なぜその宗教を今は信奉していないのか、についてだけ私の考えを述べたいと思います。

●カルマの解消
(1)まず一番の原因はそのカルマが解消される時期に来ていたことがあると思います。

(2)次に、私は祈りだけではなく、そのどうしようもない窮状を打破しようと現実の生活においても努力していました。努力しては挫折し、また努力しては挫折し、と何百回挫折したか分かりません。しかし、その挫折の一つ一つがカルマを削るドリルの役目を果たしていたのだと思います。そしてその一つ一つのドリルの結果が1年半後の不思議な体験つながったのではないかと思います。

(3)それから、やはり祈りの効果もあったと思います。小桜姫物語を読むと、小桜姫が人間の祈りを聞き届け、その対応につきさらに上の高級霊にお伺いを立てるという場面が物語風に描写されているところがあります(私の好きな場面です)。
私の場合も、私の祈りを守護霊が聞き、更に上の高級霊にお伺いを立てて、「どうしましょう」、「いや、ヤツの業は深い。もっと苦しまなければならない」-----「ヤツもかなり苦労したようだ。ヤツの犯した前世の罪もこのぐらい苦労したから償われただろう。そろそろ救いの手を貸してやるか」なんていう会話があったのかもしれません。物語風にするとこうなりますが、カルマの解消のプロセスはこのようなものなのかもしれません。

以上のように考えていますが、いかがでしょうか?

●それから、このようないい結果をもたらした宗教にどうして今は信仰していないのかと疑問に思われる方もいらっしゃるともいますので、この宗教を私が今は信奉していない理由を申し上げます。

(1)まず、その団体があまりに集団主義的、一個人への極度な崇拝、実質的な政教分離がなされていないことなどに、ほとほと嫌気がさしたことがあります。

(2)もう一つは、投稿3111で述べたような題目をあげることによる宗教的体験は浅い、深いの差はあれ、この他にもいくつかあったのですが、ある時点で必死に題目があげれなくなりました。理由はよく分かりませんが、その現世利益的なところ(他の理由があるかもしれませんが、よく分かりません)に私の魂(あいまいな表現ですが、この魂という言葉がしっくりきます)が関心を示さなくなったということがあるのかもしれません。

このような理由で私はその宗教団体を脱退したのですが、この宗教が私を救ってくれたことについては今でも感謝していますし、畏敬の念を持ち続けることが私の義務だしご恩返しだと思っています。

また、人によってはこの宗教にぴったりする人もいると思うし、そのような人はその宗教を信奉することで人格、霊性の向上を図ればいいのではないかと思っています(←このような言い方は、スピリチュアリズムを信奉することと矛盾するかもしれませんし、まだ私の頭の中でも整理し切れていませんので、ご意見あれば伺いたいです)

●らふぃえるさんの信仰の2つの要素
?神(ないしそういった存在)に身をゆだねること
?この世の論理よりもあの世の摂理を信じること
的を得たいいポイントだと思います。実践は本当に厳しいですけれど。

 


3114 ヨシさん
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月22日 (水) 23時49分07秒

ヨシさん

>3103

いえいえ、こちらこそありがとうございます。
この掲示板は、あまり論理や知識を大切にされない方が多いみたいなので(^^;、そう言っていただだけると励みになります(^^)
自由検討の精神を活発にするには、論理と知識と批判精神の駆使が一番大切ですよね(^^)

信仰について、あれからいろいろ考えてみたのですが、
信仰における大切な要素として二つあるのではないかと思うようになりました。

?神(ないしそういった存在)に身をゆだねること
?この世の論理よりもあの世の摂理を信じること

ヨシさんが題目を唱えていて、「御本尊さまにお任せすればよい」と思われたという境地は、?の方にカテゴライズできるし、
キリシタンが殉教を辞さなかったというのは、?を確立していればこそだったのではないかと思います。(この世の論理だけに基づけば、拷問に耐えて殉教するほど割りに合わないものはないですからね)。

僕は、というと、?も?も、なかなか常に完全に確立するのは難しい状態です(^^;;
神に身を委ねて安心立命ってのもなかなか完全にはできないですし、とかくこの世の論理で右往左往したりしています。
でも、心のどこかに、多少なりとも信仰があるから、なんとか曲りなりに生きてもいけているんだとも思うんです。

信仰に知識が必要か、って問題もあれから考えたんですけど、
ヨシさんがおっしゃるとおりやはり必要なのではないかと自分でも思うようになりました。
御意見ありがとうございました。
ただし、信仰に関しての正しい知識といいますか、
正しい霊的知識なら信仰の確立に役立つってことかなぁと思います。
当たり前のことかもしれないですけど。

それと、日蓮宗で人間の境涯を何段階に区切って、って話は、「十界互具」ではないかと思います。
天台宗でも同じことを言ってて、仏や菩薩、人間、修羅や地獄などに分けてるやつですよね。
しかし、知識人がいけないということは本来その理論では言ってなかったはずで、
声聞と縁覚という、いわば自分の悟りだけ求めるあり方よりは、利他的にいろんな衆生救済を行う菩薩や仏の方が境涯が上という話だったと思います。
ヨシさんの所属されてたその教団が、少し「十界互具」の論旨を変更してたのかもしれませんね。
僕としては、そりゃあ自分の悟りだけ求める人よりは利他的な方が境地は高いとは言えるだろうけど、知識人にも利他的な人はいるので、一概に無知な人より知識人が劣るとは言えないと考えています。

ちなみに、僕は、祈りと実践の関係は、
祈りで神様から(仏様からでもいいんですけど)心に栄養や力をもらって、その力でより高次の実践をやる、ってことかなぁと思います。
実践だけしろと言われても、通常あまりうまくいかないと思います。
マザーテレサも一日のうち、必ずかなりの時間を祈りに割いていたと聞いたことがありますし。

あと、祈りで霊性が向上することは、それは十分ありうることではないかと思います。
ただし、カルマとどういう関係にあるのか、祈りでカルマが消えることがあるかはよくわかりません。
でも、良いカルマを生み出すきっかけにはなるんじゃないかと思います。

なかなか信仰について、この掲示板でも議論が活発になってきましたが、これは自由検討の精神の観点から眺めれば、真に良いことなのではないかと思います(^^)

 


3113 肉食について
名前: まるも  投稿日: 2003年10月22日 (水) 22時07分33秒

みなさんは肉を食べていますか?
僕は厳密には肉を断った訳ではないのですが、自らは食べないように
したんですね。例えば定食に肉が入っていれば食べる、人に出されれば
食べる(悪いから)、でも自分からは食べない。

まあこれだけでも肉食の量はだいぶ減って、シルバーバーチの、
『いろいろな点から見て、肉食は好ましくありません。
身体的・精神的・霊的視点から見て、そう断言します』
という言葉にもあるように、凄く・・精神に良いと実感しています。
霊的自覚というより、まあそれが目的だったようなものなのですが。。

たまに肉をたくさん食べるとなんだかムカムカするのが分かるんですね。
特に精神的に不安定な部分を持った人にはオススメしたいです。

病というと、即カルマって連想しがちだと思うんですが、現代人の食生活
の影響も馬鹿に出来ないな、と。そう思います。

 


3112 因果律・苦の体験
名前: PEN  投稿日: 2003年10月22日 (水) 21時10分32秒

●あゆさん

> 霊性が高いか低いかよりもまず、身近にいる困ってる人に優しい言葉ひとつか
> けてやること・・それが簡単のようで難しいことですから日々心に留めていきたい
> と思います。ニューエイジ的・・とか言われてしまうと困ってしまうのですが・・

そういうことにニューエイジも何もないと思いますよ。
条件反射的に体が動いてくれればいいんですけどね。(^^

●ヨシさん

自分に置き換えた場合、できれば言いたくない体験だと思いました。ありがとう
ございます。

> このカルマの解消によって神に少し近づいたとは言えないでしょうか?

果たしてそれがカルマだったのかは私にはわかりませんが、苦の体験を通して
霊的な目が開かれたのではと思いました。苦の体験を通して成長・進歩された
のだと思います。

しかし、ヨシさんの体験をお聞きすると因果律は祈り(題目)で解消できたことになり
ますし霊性も向上することになります。が、シルバーバーチは因果律は祈りで解消
できるものではないと言い、霊性の向上は無償の利他行為だと言います。

私には難しいです。どう考えればいいんでしょう ・・・ (・_・;)

 


3111 PENさん:私の体験から
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月22日 (水) 14時36分54秒

PENさん、おひさしぶりです。確かに以前にもこのような話題のやりとりがありましたね(^_^。 確か嫌いな人に対しても利他愛を実践できるか? というようなテーマだったと思います。その時の私の(とりあえずの)結論は、「自分を偽りたくない。自分に科された人生の課題を克服しているうちに、自然と嫌いな人にも利他愛を感じられるような人間になれるかもしれない。それまでは、せめて嫌いな人に対しては憎しみや恨みを抱かないように努力しよう」というものだったかと思います。

ちょっと長くなりますが、私のプライバシーに関わることも敢えて書きますので最後までお読み頂ければ幸いです。

●まず、利他愛のことは今でも私はいろいろ悩んでいるのですが、前提として次のことを申し上げたいともいます。

?利他愛の実践では自分をごまかしたくないと思っています。人のために行動するには自然とそのような気持ちがわき上がってくるような境涯になりたいと思っています。(シルバーバーチが言うように、そのような気持ちがなくても行動しないよりはましということはあると思いますが、それは次善の行為にすぎなくて、本来の利他愛は自然な気持ちで人を愛し、行動することだと思っています)

?この利他愛については、日常生活での、ちょっとした親切(お年寄りに席を譲る、未知に困った人に道を教えるなど)、恵まれない人に寄付をする(寄付については私はちょっと意見を持っていますが、これは別の機会に譲ります)などの利他的行為の他に、自分が嫌いな人にも(さらには憎しみを抱く人にも)利他愛を持つ、自分が境地に陥っているときでも利他愛を実践するというような、(いわばもう一歩踏み込んだ、難しいと思われるような)利他愛まで含めて考えたい。

?利他愛と個人の霊性の成長はコインの裏と表の関係にある。

>必死になって題目をあげたら霊性の向上があるのですか?
●はい。私の場合にはありました。この体験については以前にも申し上げましたが、もう一度別の観点からご説明したいと思います。学生の頃ですが、私は精神的にかなり悩んだ時期がありました。今になって思えば、ある種の強度のノイローゼだったと思います。精神的に追いつめられ、どうしようもない状態でした。普通の人だったら、どうっていうことのないことに、どうしても適応できず、にっちもさっちも行かない状態でした。具体的な症状は詳しく言えませんが、食料を買えるお金、財産があるのに食事をしないで餓死した方が以前いましたが、このような状態を想像して頂ければいいと思います。

その時私を救ってくれたのが、日蓮系のある宗教です。このような症状は、西洋的な心理学の観点からは私の幼少時代の生い立ちに原因があるということでしょうが、仏教的あるいはスピリチュアリズム的には私のカルマが原因だと思います。その宗教に入信するときは親兄弟のさんざんの反対があって、それも大変でしたが、私はとしてはそれこそ自殺でもしかねない状態でしたので、藁にもすがる思いで、その宗教団体に入りました。題目を毎日欠かさず、少なくとも2時間、3時間、日によっては5時間、6時間、あるいはそれ以上の時間をかけて題目を必死に唱えました。そして1年半ぐらいたった頃だったと思いますが、どうしようもない恐怖感に襲われ題目を必死になって唱えていると、急に何とも言えない感覚が訪れました。「いいんだ。これでいいんだ。このままの私をご本尊にお預けしよう」という感覚でした。こう書いてしまえばどうと言うことのないことですが、その時の感覚は心底からの確信と同時にどうしようもない喜悦が訪れました。涙があふれ、体中が喜びにふるえ、細胞一つ一つが喜んでいるという、言葉にはとても言い表せない状態でした。このような内面での変化の後、外的にも不思議なことが起こりました。本と人との不思議な出会いがあり、その後、その本と人とのおかげで、それまで私にはどうしてもできなかったことができるようになったのです。

一つのカルマがなくなったということが本当に実感できました。体にこびりついた垢がとれたという感覚でした。と同時に、今まで自分のことで精一杯だったのが、少し、ほんの少しですが人のこと、人の幸せを考えられるようになったのです。

長くなりましたが、このような、私の体験から「必死になって題目をあげたら霊性の向上がある」と言えると思うし、上の?で述べたように、自分の霊性の向上により、それに見合った自他愛(自然な形での利他愛)が出てくると思っています。

>いかに熱意、魂の熱望があるかが、神に一歩でも近づける唯一の方法というのがどうも私には理解できません
●熱意、魂の熱望とは、私の場合、このどうしようもないカルマの解消が魂の熱望だったのです。本当にほんの少しですが、このカルマの解消によって神に少し近づいたとは言えないでしょうか?

 


3110 PENさん
名前: あゆ  投稿日: 2003年10月22日 (水) 12時02分54秒

私は皆さんのような高度なお話は表現力もないし頭脳もないのでできませんが、

>自分の進歩成長を後まわしにしてでも、自分よりも困って
いる人のために自分を役立てる。というのはシルバーバーチ霊団をはじめ、地上に
関わっている高級霊たちそのものだと思います。

この言葉に、そうよねそうそう〜と思ってしまいました。
霊性が高いか低いかよりもまず、身近にいる困ってる人に優しい言葉ひとつかけてやること・・それが簡単のようで難しいことですから日々心に留めていきたいと思います。
ニューエイジ的・・とか言われてしまうと困ってしまうのですが・・ (=^^ゞ

http://www.tensmile.jp

 


3109 自己の成長と無償の利他行為
名前: PEN  投稿日: 2003年10月22日 (水) 09時40分17秒

●ヨシさん

ちょっとわからないことがありましたので質問させてください。

> もう用語は忘れましたが、日蓮宗では、人間の境涯を何段階かに区切って、
> 知識人の境涯は菩薩になれないと軽蔑しています。確かに知識だけの頭
> でっかちよりも、無知蒙昧の人が必死になって題目をあげた方が菩薩になれる
> (霊性の向上がある)ということは永遠の真理だと思います。

必死になって題目をあげたら霊性の向上があるのですか?私は無償で他者の苦の
軽減のために行動したり、祈ることだと思っているのですが。必死になって題目を
あげると霊性の向上があるというのがいまいち理解できないです。

ただし、自分への見返りを求めず他者の苦の軽減のために必死になって題目を
あげるというのであれば理解できます。(その人にとって題目をあげた方がやり
やすいのであればという意味であって、題目そのものが必要かどうかは疑問です
し、行動できる事柄であれば題目よりも行動が優先だと思いますけど)

> ●経験という言葉で、思い出しましたが、3080の
> >霊的世界は魂レベル(段階)ですので早くからやっているからとか始めたばか
> りとかは一切関係ないようで〜す・・・   Thank you !!

> この文章に私は大変感動しました。経験した人でないと書けない文章ですよね。
> スピリチュアリズムをどれだけ勉強したか、実践したかではなく、いかに熱意、
> 魂の熱望があるかが、神に一歩でも近づける唯一の方法だと思います。

サラさんのおっしゃる「早くからやっているからとか始めたばかりとかは一切関係な
いようで〜す」というのはわかりますし、ヨシさんのおっしゃる「スピリチュアリズムを
どれだけ勉強したか」ではないことも理解できます。しかし「スピリチュアリズムをど
れだけ実践したかではなく、いかに熱意、魂の熱望があるかが、神に一歩でも近づ
ける唯一の方法」というのがどうも私には理解できません。

この“実践する”の意味を私は“自分よりも困っている人のために、一切の見返りを
求めずに奉仕すること”としました。この純粋な無私から出た行為こそが神性の
発現であり、価値あるものだと思うのです。

スピリチュアリズムを全く知らない人や無神論者でも霊格の高い人が居、かたやス
ピリチュアリズムの知識が豊富で神の存在を信じている人でも霊格の低い人が居
る。とシルバーバーチの霊訓に記述されているのは、つまり熱意よりも行動で霊格
が決まるということを言っているのだと思います。でなければ無神論者で霊格が高
いという現象の説明がつきません。無神論者に熱意、魂の熱望があるとは思えな
いからです。神を信じない人が何に熱意を?という疑問です。困っている人を何とか
したいという熱意ならわかりますが。

以前にも同じようなやり取りがありましたっけ(^^
優先順位が違うのかな。自分の進歩成長を後まわしにしてでも、自分よりも困って
いる人のために自分を役立てる。というのはシルバーバーチ霊団をはじめ、地上に
関わっている高級霊たちそのものだと思います。
だからこそ彼らは成長の道を途中でお預けにしてまでも、このむさ苦しい地上世界
に関わっているのだと思うのですが・・・。

私の誤解があれば御指摘下さい。

 


3108 電脳世界
名前: ファニーズ  投稿日: 2003年10月22日 (水) 07時21分47秒

お久しぶりです。少し電脳世界から遠ざかっていました。

UFOうんぬんの話は置いときまして、私もサラさんのおっしゃる通り、ラベル・教養・知識で人を判断していません。人間界に生きている方は、みんな同じ霊的レベルなのです。自分で選んだ身体・境遇で最善を尽くして生き抜く事が大切だと思っています。

愛を込めて、祈りを込めて、この身体を霊の道具として使って頂く事、それだけで充分満足なのです。

また寄らせてくださいね。

 


3107 知足さん、サラさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月21日 (火) 22時59分26秒

知足さん

>それは、そのような事態(不幸)が起こった時に、対応すればよいことであって、事態の起こる前から、心配するのは「取り越し苦労」だという気がします。
●私には以前にそのような事態があったのです。これでも結構年食っていますので(^_^;ゞ)。ただ、これも私個人の主観的な受け止め方で、そんなことはたいした事態じゃないよと言われればそれまでですが。

>さて、ヨシさんのおっしゃる『本当の信仰』は、何処にあるのでしょうか?
たぶん、ヨシさんの頭の中のイメージとしてしか存在しないと、私は
思うのですが、どうでしょうか?
●ですので、頭のイメージでなく、経験を踏まえて言っているつもりなんですが。

●信仰については、人それぞれの立場、主観の問題でもあるので、信仰というような大げさな言葉を使わなくても---、という考えの方もいらっしゃるとも思います。それはそれでいいと思います。要は、シルバーバーチが繰り返し繰り返し強調している「苦」への対処をしっかり行えばいいわけですから。

>「スピリチュアリズム」を定義付け出来れば、問題が解決するというような「近道」はないと思うのです
●私は定義付けにはこだわっていないとで申し上げました(投稿3083)。さらに、定義付けでなく、スピリチュアリズムの意義・位置づけを他の高等宗教と比較することによりスピリチュアリズムの理解を深めたいというのが私の今の関心事であるというだけで、比較が実践の必要条件ではないとも申し上げました(投稿3083)
●定義付け出来れば、意義・位置付けができれば、問題が解決するとは一度も申し上げたことはありません。むしろ、正攻法で実践し、自分の境涯、人格を高めるしかないと思いますと申し上げました(投稿3089)。この正攻法とは、「苦」を自分自身の問題として真っ正面からがっぷりと受け止めることです。

サラさん

●経験という言葉で、思い出しましたが、3080の
>霊的世界は魂レベル(段階)ですので早くからやっているからとか始めたばかりとかは一切関係ないようで〜す・・・   Thank you !!

この文章に私は大変感動しました。経験した人でないと書けない文章ですよね。スピリチュアリズムをどれだけ勉強したか、実践したかではなく、いかに熱意、魂の熱望があるかが、神に一歩でも近づける唯一の方法だと思います。

●それからお詫びしなければなりませんが、私はサラさんの文章全部に違和感を感じるわけでなく、このようなサラさんの文章は大好きです。
だけど、UFOに乗ったとか、○○星雲というような話は違和感を感じますけど---。

 


3106 『本当の信仰』は、何処にあるか?
名前: 知足  投稿日: 2003年10月21日 (火) 22時19分56秒

ヨシさん、こんばんは。
すこし、変な理屈を書きますね。気を悪くなさらないでくださいね。
ある種の「考え」を述べるのであって、ヨシさんに反論しているのではありませんので、念のため。

>別の言い方をすれば、我々の人生というのは、自分の人生に何が起ころうとも、
>総て与えられた事実として生きるという態度(受容性)が、大霊によって試されている生存(魂)だ
>と思うのです。
>●その通りです。ただ、どのような時でもそのような境涯にいられるかだと思います。
>概念では私も分かるし、普通の生活ではそのように実践しています。
>それを本当に困難な場面に直面したときに、それを実践できるかがその人が
>本当の信仰を持っているかの真価の分かれ目だと思います。

★ヨシさんが、言われるように『どのような時でもそのような境涯にいられるか?』が
問題だと、確かに私も思いますが、それは、そのような事態(不幸)が起こった時に、
対応すればよいことであって、事態の起こる前から、心配するのは「取り越し苦労」だという気がします。
シルバーバーチも、「不安先取り型の思考」(悩み)は、止めるべきだと語っていたように思います。

★「不安先取り型思考」(悩み)ではなくて、どのように生きるのかと言えば、
『出会うところ、我が人生』(内山興正氏)
『災難に遭う時には、災難に遭うのが宜しく候。死ぬる時には、死にぬるが、宜しく候。』(良寛)
という境涯なのだと思います。常にこの心境であるのは、もちろん難しいですが、
この「心境」以外には、「不幸」や「災難」から、逃れる方法はないと思うのです。
これが、法則(=神=ダルマ)なのだと思うのです。(=無分別智)

「法則」ですから、これ以外に「困難から逃れる方法」はないと思うのです。
「スピリチュアリズム」を定義付け出来れば、問題が解決するというような
「近道」はないと思うのです。

ですから、論理的に、言語で「スピリチュアリズム」を捕らえても、
心境がともなわなければ、「スピリチュアリズム」足りえないというのが、私の意見です。
(違うかも、知れませんが)

★さて、ヨシさんのおっしゃる『本当の信仰』は、何処にあるのでしょうか?
たぶん、ヨシさんの頭の中のイメージとしてしか存在しないと、私は
思うのですが、どうでしょうか?

http://homepage2.nifty.com/hiroshi_n/etegami.htm

 


3105 日常に生かしていく 
名前: 光りのシャワー  投稿日: 2003年10月21日 (火) 18時10分06秒

こんにちは

私にとって、シルバーバーチと、ホワイトイーグルは 本の中にお住まいの、相談する前に、答えてくれる師匠のような方々です。 

高名なお二方以外の霊の書もよんでいます。 スピリチュアリズムを、私の場合は、日常にゆっくりと生かしていくようにしたいのです。 

日常にゆっくり生かすとは 少しでいいから霊訓を毎日読む、焦らないで霊訓に沿ったいきかたをしていくということです。 しょっちゅう脱線しても、失敗しても、見守ってくださる方々が居ると思うのです。 必要以上の財産を追求しない、人の悪口やくどきに同調しない、悪い言語を発しないその他あります。瞑想や祈りも少しずつでもする。
集団に属さず、指導家もいらない。

そんなわけで、命をかけた熱烈信仰と言うわけではありませんが、
スピリチュアリズムを真理と呼ぶ方が私は好きです。

 


3104 それから----、サラさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月21日 (火) 17時14分31秒

サラさん、いろいろ書いたけれども、これからも投稿してくださいね。

 


3103 らふぃえるさん
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月21日 (火) 16時11分43秒

●おひさしぶりです。また、ご返事ありがとうございます。
らふぃえるさんの文章の明快さ、論理力にはいつも敬服します。らふぃえるさんとの議論で私の頭の中も随分整理されました。どうもありがとうございます。

●さて信仰とはなんぞや? ですね。難しいご質問ですが、私は(現時点では)以下のように考えています。

信仰とは、宗教を信奉し、その宗教によって個々人の霊性を向上させるためには必要不可欠のものだと思います。

宗教を単に信奉していれば、自然に霊性が向上するものではなくて、シルバーバーチが口を酸っぱくして繰り返し述べているように、霊性の向上には「苦」を通り抜けることがどうしても必要です。だけど、この「苦」に直面すると、どうしてもそれを避けようとしたり、疑念がでてくるんですよね。らふぃえるさんもきっと経験していると思いますが、私はいつもそうです。ですから、この苦に対し、真っ正面からぶつかっていくためには、強い信仰がどうしても必要だと思っています。

キリスト教や他の宗教の歴史には自分の信奉する宗教に帰依するため、殉教で死んでいった聖人が沢山います。今の日本ではこのような事はないかもしれませんが、気持ちとしては、たとえ殺されてもこの信仰を貫くという強い決意がないと、本当の霊性の向上はないと思っています。
私なんかは、踏み絵をせよと、刀をもって脅かされたらきっと踏み絵を踏んでしまうでしょうが、本当の信仰とはここまで行くものだと思います。

●信仰に知識が必要か? これも難しい質問ですね。

もう用語は忘れましたが、日蓮宗では、人間の境涯を何段階かに区切って、知識人の境涯は菩薩になれないと軽蔑しています。確かに知識だけの頭でっかちよりも、無知蒙昧の人が必死になって題目をあげた方が菩薩になれる(霊性の向上がある)ということは永遠の真理だと思います。

ただし、上にも述べたように本当に苦しい人生の課題に直面したときに、それなりの知識があると、その苦を乗り越えやすいのではないかと思います。例えば、スピリチュアリズムは他の高等宗教よりも信仰の維持が難しいと分かっているだけでも、その時の乗り越え方の気構えが違ってくるのではないかと思いますし、また、守護霊、神は人間が苦しくても、敢えて手を貸さずに涙をこらえながらもその苦しんでいる人間がその苦しみを自分の力で乗り越えるのをじっと見守っている、といういことを知っているだけでも励みになると思うのです。

 


3102 スピリチュアリズムと他の宗教との比較 +若干の疑問
名前: らふぃえる  投稿日: 2003年10月21日 (火) 14時58分22秒

ヨシさん

宗教の定義、合意できたようですね^^
議論は土台が必要ですから、これで議論の土台ができたわけです。
宗教の定義にこだわった成果として、高等宗教についての考察も深まったきたから、直接あまりヨシさんの興味のあることではなかったかもしれませんが、議論がお役に立てていたのなら幸いです。

既成の高等宗教とスピリチュアリズムの比較では、要するに、「自由検討の精神」があるかいなか、という点が大きいのではないかと思います。
ヨシさんも、違う言葉で同様のことを言っておられると思います。
もちろん、既成の高等宗教でも、本来の仏教は自由検討の精神に満ち溢れたものだったと思います。
また、西欧の哲学・ユマニスムや啓蒙思想は、宗教ではありませんが、自由検討の精神に満ち溢れたものでした。
ただし、西欧の啓蒙思想等は、自由検討の精神に満ち溢れてる反面、霊的知識等はのちに不問に付すようになっていったので、自由検討の精神と同時にいきすぎた世俗化も招いてしまってるように思います。

a霊性探求、b法則認識、c自由検討の精神、d寛容、とすると、(おおまかなものでもちろん例外もありますが)

キリスト教 a○ b× c× d×
仏教    a○ b○ c○ d○(ただし、日本の鎌倉新仏教以後はそうでないものもたくさんあります)
スピリチュアリズム a○ b○ c○ d○
西欧哲学・啓蒙思想 a× b○ c○ d○

となるのではないかと思います。
もちろん、例外はありますし、これは大まかな傾向を述べてるだけで、多々異論もありうると思います。
また、○の中にも浅深がありうると思います。

仏教とスピリチュアリズムとの比較は、いずれペーパーバーチさんが僕の昔の意見にコメントをくださると思うので、その時にまとめて行おうと思いますが、仏教はあまりに雑多な寄せ集めでほとんど全く別個の思想も内部に含むものですから、僕としては大乗仏教中の密教がかなりスピリチュアリズムと共通点が多いのではないかと思っています。

と、議論になればいいと思って、僕の意見を書いておきましたが、
その前にヨシさんが議論にお求めになっているものがどうしても僕は腑に落ちないんですよね。
僕は、良い実践のためには正しい知識が必要と思いますので、その限りで議論も知識もなるべく求めますし、求めない人は間違う可能性も大きいと思うんです。

しかし、信仰は知識によって深まることはあるのでしょうか?
信仰と迷信を区別するためには、理性や知識は必要と思いますし、役立つと思います。
しかし、信仰を深めることには知識は役立たないのではないかと思います。
他の宗教をけなして、自分の信仰を称揚するきらいが、排他的な宗教(ある種のキリスト教や日蓮宗系のもの)にはありますが、あれは狂信が深まってるだけで別に信仰は深まってないと思います。
信仰は恩寵によってのみ与えられるものであり、自分の実体験によって得られるものなのではないでしょうか?

というか、皆さん、信仰とは何だと考えておられるのか、聞かせていただければ幸いです。

 


3101 私はこう思います
名前: ヨシ  投稿日: 2003年10月21日 (火) 14時22分56秒

僕はサラさんは、サラさんなりの解釈やスタンスを仰っていると思います。ただその内容については、違和感を感じるし、相容れないものがあるのは事実です。

私も争いは好みませんが、スピリチュアリズムにはスピリチュアリズムの最低限守らなければならない点はあるので、そのことについては議論しなければならないと思っています。また、できればスピリチュアリズムをよりよく理解するための議論も必要だと思っています。議論は争いではありませんよ。私も争いは嫌いだし、議論が相手を傷つけるような言い回しになることも好きではありません。

私はサラさんの文章は好きだし(具体的説明がないので分かりにくい時も多々ありますが)、純真なところも好きですが、「時期が来たら皆さん分かります」とか突然宇宙人を見たというのでなくて、そのようなことに対し疑問に思う人(私もそうです)がこの掲示板では多くいるわけですから、そのような人たちが納得できるように説明して頂けたらと思います。

 


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