心霊学研究所

(期間限定)悠々塾問題特設掲示板

悠々塾問題専用の期間限定特設掲示板。過去ログ(その2)です。

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1028 この掲示板について
名前: ペーパーバーチ(管理人)  投稿日: 2001年09月07日 (金) 01時13分43秒

下の1027までが「スピリチュアリスト掲示板」から移動してきた発言です。

この掲示板の巻頭言や「スピリチュアリスト掲示板」でも書きましたが、こちらは悠々塾関連専用の掲示板です。それ以外の投稿は禁止します。悠々塾関連から派生した話題の場合も、出来るだけ手短に願います。長くなりそうな場合は「スピリチュアリスト掲示板」への移動をお願い致します。

あちらでは禁止した「メッセージ」も投稿していただいてかまいませんが、公序良俗に反する内容、日本国の法律に反する内容は、管理人(ペーパーバーチ)の判断で予告無く削除します。

悠々塾からのTMHさんへの「メッセージ」も、本来は禁止したものを投稿したのですから、掲示板運営の意図的な妨害としてプロバイダに連絡するはずのものでしたし、その時はHPはもちろんIDの削除を要求(※注)するつもりでしたが、以上のような事情ですので今回は猶予しようと思っています。数日中に気が変わらなければ……ですが(^^;。

※注----ですから悠々塾が言う「削除された場合は、悠々塾のホームページ」など、認識不足も甚だしいのですが。もっともこの程度では削除要求が通る確率は30%ぐらいでしょうけど。一応大手のプロバイダなので、それほど拙速な対応はしないと思われます。

では、議論を再開してください。

http://www.paperbirch.com/

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Mac_PowerPC)g049129.ppp.asahi-net.or.jp


1027 TMHさんへの回答
名前: 悠々塾(飯沼&堀江)  投稿日: 2001年09月06日 (木) 22時36分22秒

 これはメッセージによる(TMHさんへの)回答です。
この掲示板へのメッセージの投稿は、管理人であるペーパーバーチさんがお断りされています。削除を前提としての受信は本来ならばしないはずのことです。が、今回に限って回答致します。削除された場合は、悠々塾のホームページ(http://www.d5.dion.ne.jp/~susa/
の掲示板をごらんください。
――――――――――――――――――――――――――――――――

■TMHさんへの回答

○ここではあなたの個人的見解に対しては何らコメント致しません。ただ、「花粉症について」のメッセージに関しては“熟読した”とは思えない部分があります。再度読まれること(そのおつもりがあれば)をお勧めします。

○まず、あなたの質問の動機は、私どもが通信を送るにあたっての目的に沿うものではないことを、こちら側から断言させて頂きます。御自分の「心」を振り返れば分かることでありましょう。
本来ならば、通信を読んで生じた疑問、さらに知ろうとする動機が「質問」というものとなるはずです。あなたの動機はそこにはありません。しかしここではこのことに時間をかけることが目的ではないので、これ以上言及は致しません。

あなたのおっしゃる「霊的要因」がどういうものかは構いません。魂の意識を地上の人間はほとんど認識できません。それが地上の人間に認識できるのは、理性と感情のところにおいてです。つまり、地上の人間は肉体とともに「心」で生きていると言えるのです。では「肉体」は何か。それは、魂から心へと変換されてきた意識を「表現する媒体」です。物質的な世界で「魂」や「心」を表現するために、その世界と同次元の肉体を携える、ということです。

その人の「魂―心」の情報・状態が「肉体」に表現されることを前提とするならば、「病」は、物質レベルから見るだけでは解消できないものになります。しかし、これはあくまでもエネルギ―的側面から見た場合であって、その場合、解消するのに必要なエネルギーを“物質”(具体的には薬品であったり、食品であったり)で代用することも可能となります。しかし、人間が肉体を器として「魂―心」で生きるのならば、その本質は、いかなる場合も「心」であります。病発生のメカニズムを物質的側面から見るだけでは根本的な治療は望めません。ただ心と体は一体のものですから、肉体的(物質的)治療がその人の心を喜びで満たしきった時、「心」そのものにあった「病の要因」も解消できる。それは実際にあることです。

○人は肉体を携えて「心」で生きている。心が本質である。ならば病と心の関連性についての情報を手にすることは、人々が自らの気づきによって病から解放されていく道筋を知ることでもあります。それは、「あなたの心がけが悪いから」「もっと良い心になりなさい」などという話では全くありませんし、私どもの通信を素直に読めば、その程度のことはごく普通に読み取れましょう。病は肉体に表れた“かげり”。ならばそれは、何らかの“心のかげり”が表現されたもの、とらえられます。健やかな肉体の回復を求めるために、それを「心の健やかさの回復」から見ていくことは、「事の本質」にかなうところです。

○あなたが医療従事者ならお分かりでしょう。ある病を抱えた者が「“自分の病気”について知りたい」「どうすれば良くなるのか」と思うこと。それに対して、「それを含む病気全般のことを教えます」と言われても少しも嬉しくはなく、むしろ「自分は“この病気”について知りたいのに」とがっかりします。「花粉症」はあなたが言われるように、国民のかなり高い割合が関心を持つ、悩んでいる症状です。(アレルギー全般はもちろんですが)その「花粉症」の発症期に合わせて、それに関するメッセージを送ることは、あなたのおっしゃる「ショボいこと」などと言えるのですか。それに悩む患者、苦しむ患者を知るならば、とうていそのような表現にはなりますまい。あなたがシルバーバーチに学び、その視点を備えた医療従事者として患者に関わるのであれば、いわゆる「医学的」「科学的」「物質的」なところからだけでなく、人間の本質である「心」から見ていく視点は「持ちたい」と思われるのではありませんか。(物質的側面から語るのはあなた方が担われているところでしょう)
スギ・ヒノキの発症にまつわる「仕組み」はメッセージを再読のこと。

○ハウスダスト及びダニについては、そこに共鳴するエネルギーはもちろんあります。ハウスダストはひとつの物質のみでできているのではありませんから、それ全体について「重苦しい思い」と伝えます。ダニについては「おもしろくない」ということです。いわゆる「害虫」と人の心のエネルギーの共鳴は、別の傾向・意味あいがあります。それは別の通信によってすでに伝えられています。(ホームページ上では未公開です)。

たとえ雑草であれ、農作物であれ、全ての生命、物質には特有のエネルギーがあります。それらは地球全体のエネルギーの調和のごくごく一部を担っているにすぎません。しかし、それらのバランスが現代は崩れ、偏っているからこそ不調和はさまざまな形として表れるのです。人の心のバランスが乱れている今(誰もが何かしら不調和を抱えています。あなたも)、不調和の要素の共鳴は当然生じ、それは肉体にも表れる。

○スギ・ヒノキの植生を御存知でしょうか。北海道・沖縄は? 御自分でお調べなさい。
北海道で多いシラカバが持つエネルギーは「堅牢と柔軟の兼備」です。人の心におきかえれば、「やわらかく深い心を持ちながらもたくましい」というところです。これを読んだあなたは「そうならば、北海道の人だけが、そのエネルギーと反応するのか。シラカバはそこだけではないのに」あるいは「他の地域の人はそのエネルギーと無関係なのか」などと聞くやもしれません。問題は植生の関連だけ、ではなく「その人の心にとって何が苦しいのか」であり「エネルギーの総量」が問題なのです。伝え始めればキリがありませんから、ここでやめますが…。そのエネルギーに共鳴しきれない部分が心にある、と言われたら、それはその人が否定されたことにはなりません。本来そうであるはずの「心」がそれぞれ(個々人の)理由で硬さを増してしまったり、しなやかさを失ってしまったり、という不調和を抱えた、ということなのです。その人のせい、ということでは全くなく、人との関わりのなか、あるいは社会のなかで生み出された心の不調和がそこにはある、ということなのです。
私どもの通信が伝えるのが「人の心」から見てのことではあっても、そこに、「苦しむ者のせい」「悩む者のせい」という見解は全くない、ということ、そしてむしろ、そういう心を抱いた者をどう支え、どう助けていくべきか、あるいは本人がどう意識・意志していけばいいのか、であることはいくつかの項を読んだだけでもお分かりでしょう。まして熟読されたのでしたらば、そこに貫かれている「目的意識」はよくお分かりのはずです。(もしもそれが読み取れないのであるとすれば、あなたに何らかの先入観・偏見がある、と申し上げます)

○「男女によるちがい」はもちろんあります。心のエネルギー傾向は同じではありません。そして心の特徴的な要素は「対になっている」ととらえてよろしい。ホームページの別項をおよみなさい。

○江戸時代云々では、当時の人々の心の状況が現代とはかなり違う、ということをお忘れなく。その時々で人は心をかげらせて生きていますが、「江戸時代」と「現代」とでは人々を取り巻く社会的状況も、抱くかげりも同じものと見ることはできません。求めるものも違います。(もちろんいつの時代も人は「幸せ」を求めるところでは共通ですよ)

○乳幼児の場合は「その子自身の意識・心」というよりも、むしろ「その子の身近な者(父・母を始めとして)の意識・心」の影響を大きく受けます。乳幼児は「心・意識」のうち理性が未発達です。よって「感覚・感情」という、より肉体に近い意識の部分で不調和がおこります。そしてそれだけでなく、乳幼児は身近な者の「心・意識」のエネルギーをそのまま自らの「感覚・感情」のところで受けてしまいます。理性での判断・処理という「エネルギーの回路」がまだできないからです。平易に言えば「心と心がつながっているから」です。ですが、ここでもあなたにはお伝えしておかなければなりませんね。「だからといって親のせいということではありません」と。乳幼児は親たちに心を開いた状態でいるから、その影響を受けやすいのだ、と思ってください。

○「化学物質」は、環境中にしかないのですか?食品にも薬品にも。今や、あらゆるところに「化学物質」はありますね。それらの「化学物質」とは「人間が一定の目的のために作り出してきたもの」です。それは、本来自然界に在るものの「代用」であったり、本来自然界にはないものです。それらに対して反応する、ということは? もうお分かりでしょうが「自分の周囲(自分を取り巻くあらゆるもの)に対する強い違和感」しかもそれが「あるべきではないものに」と思えている場合。ここで、「違和感」ならば、人は誰でも少なからず持つはずだと思われるでしょう。もちろんそうです。ただその違和感がどの程度その人にとって苦しいものかは個人によって違います。発症させてしまうほどのものなのか、そうでないのかは、その人の「心全体」との兼ね合いのなかのことです。さらに言うならば、強い違和感を持っていても、別なところで大きな喜びを得ている場合、エネルギー的には肉体に反映するところにまでは至りませんし、また、その違和感をどの程度自分が意識できているかも個々人によって違います。
通信では「花粉症が日本に多く、化学物質が外国に多い」とは伝えておりません。「日本で特に花粉症等のアレルギーが顕著なのは〜ある時期以降の人々の心の急激な変化に理由がある。日本以外の国での化学物質に対するアレルギーが顕著なのは、その国ならではの人々の心の動きの様相との関連があるからである」です。ここでは言い換えれば、特徴的傾向がある、ととらえて頂ければ良かったのです。
それは、長い歴史のなかで主に西欧米を中心とする国が「物質」を重視して発展を遂げてきた積み重ね――それは、価値基準や受け継ぐ観念につながります。――を持ち、比較において日本は「心」を重視する歴史的流れがある、からだと言えましょう。どちらが良い悪いなどとは申しておりません。あくまでも“傾向”です。そのことが「(化学)物質」に反応しやすいか、あるいは「花粉等(の自然界の物質)」に反応しやすいかの傾向を特徴づける、ということです。しかし、日本においても、価値観は推移しますし、それに基づいて育つ世代においては反応する傾向も変化していきます。その結果、化学物質に反応しての発症が増加する、ということです。

○私どもが事細かにメッセージを伝えるのは、あなたへの回答だけが目的なのではありません。あなたのうしろでこのメッセージを読むであろう、数多くの方々のためです。そのなかのたったひとりであっても、これを目にすることで、自らの症状と心について気づきがもたらされそこに救いや治癒がもたらされれば、それで私どもは役に立てたと喜べます。実際にこのメッセージを受信する二人(飯沼・堀江)も長い期間、スギ・ヒノキ・雑草類をアレルゲンとする花粉症に悩み・苦しみました。しかし、何の治療も修業もなく、現在は「症状」はありません。何かがあるとすれば彼らの「心の状態の変化」です。このことからも「心から病を見ること」(あなたの言うように“心の問題のみ”で通信が語られているわけではないことを、ここで加えておきますが)の意味は十分、彼ら自身が実感するところでしょう。その彼らをアレルギーテストした時、それに「反応」するのかどうかはまた別の話です。あなたは「発症して苦しみ、悩んでいる人」と「反応する人」とを混同してはいませんか?しかし数字そのものが絶対でないことは御承知のうえだと思います。アレルギー症状のある者が全て病院の門をたたくわけではありませんし、特定の国の総人口の何パーセントと出してみても、それはあくまでも抽出したデータです。大切なのは、それを悩み、苦しみとする人々の役に立つことのみなのです。

○「スギ・ヒノキ」の両方がアレルゲンとなっている場合、理由は簡単です。その両方を心の要因として持っているから、です。「人として素直に生き、自分を守ることなくありのままの心で生きたいから」です。スギとヒノキが担うエネルギーの要素が似通っている、いない、の問題ではありません。花粉の形状は似ているかもしれませんが、それとは別です。一見、かけ離れた心の要素であるかのように思えても「心」という人ひとりの全体のなかで見てみれば、つながるもの――求めるもの――の方向性は同じなのですから。
「ブタクサ」などの雑草類について、ホームページを読んで頂きたい。ただ、特に「ブタクサ」には、“排除”のエネルギーが“顕著”だと加えておきます。「イネ科」の牧草類については“一定距離を保つ”というエネルギーです。それは“排除”や“拒絶”という強さを持つまでは至らなくとも、それに近い心のエネルギーの状態です。「踏み込まれないこと」や「深く関わらないこと」です。

○気道に限らず「アレルギー性炎症」全般についてのメッセージはホームページの項にて伝えてあります。それよりもあなたは「霊的要因」という言葉を、どう捉えているのでしょうか。そもそも「霊」とは何なのでしょうか。もちろんそれは「魂」と置き換えることができます。大いなる神の一部として存在するものです。神の愛を分け持つ存在です。そして、それは地上においては、次元を変えて「心・意識」として顕現されています。(さらに地上では、肉体を伴って肉体と共に“存在”します)。もしも「霊的要因」という言葉をどうしても使いたいのであれば、この点を前提にしていなければなりません。つまり「摂理・法則に基づく要因」ということです。なぜなら、霊(魂)は全て、神の摂理に従って存在するものだからです。それが地上の人間のうえには「意識・心・肉体・行動」という次元で表現されるのです。神の摂理が常に喜びを求めての進化の道筋であることは御存知ですね。とすれば、病の原因を「霊的要因」からみるならば「喜びを求める方向に逆行するもの、喜びを求めるための動きをとどめようとするもの」であるのです。
病のなかにある人たちにこの部分だけを伝えたところで、実際的に役に立つとお考えですか。今、病にある人はそれに対する具体的な答えが欲しいのです。なかには、「摂理」から、大いなる喜びにつながる人がいるかもしれません。しかし、地上の人々の多くは、そうではないのです。地上界の今を理解し、それを喜びで満たしていくためにならば「霊的要因」という言葉を持ち出したとしても、それはそれでふさわしい。しかし、今のあなたの意識は、そこまでのものではなく、決して「霊的視野」に立った物の考え方、見方、とらえ方をしているとは言えません。もっと、今、地上で生きる人々の「心」をしっかりと見るべきです。いたわりや思いやりを持って。それこそが“霊的に学んでいる者”の姿ではありませんか。
あなたの質問の動機に澱んだものが混じっていることを私どもは承知のうえでメッセージを送りました。不純な動機を基にして、あら探しをしようとするような者の質問に応えるほどこの二人(飯沼・堀江)は暇ではありません。ここまで事細かに応えるために費やす二人のエネルギーと時間など、あなたには分かりません。しかしそれでもあえてそうするのは、全て「働き」のためです。私どもがメッセージを伝えるのは常に「地上界の浄化」が目的です。それに沿った動機であるならば、いかにそれが細かいことであろうと、個人的すぎることであろうとメッセージはもたらされ、二人は受信に臨みます。
あなたの今回の質問が、本来ならば「一蹴すべきような動機」であったとしても、私どもが応えたのは次の理由からです。
あなたが抱いたような“かげり”によって、私どもの「目的」や「働き」はいささかの影響も受けません。私どもは「貢献」を喜びとする者たちの霊団です。ゆえに、不純な動機による質問であっても、応えることにより「誰かしら」への貢献につながることを確信致します。しかし、これが最後です。受け入れるつもりのない者はそれでよろしい。否定したければすればよろしい。それが今のその人の学びの程度なのだから。私どもの通信に貫かれている目的を汲み取ることはおろか、共鳴することなどとうていできない者には、高級、低級の区別・判断などできるはずもありません。ラベルはりをするのは自由です。真実や本質を見極めることのできない者は、自分のラベルで選んだなかで次へ進むこともできず、選んだものからすら学びとることはできない。
私どもの通信が完璧だなどとは申しません。私どもも伝え手であり、学ぶ途中にあり、法則・摂理の全てを理解できるはずもないからです。そして、地上で受信するこの二人が、私どもが送る思念のかたまりを、丸ごと完全に言語化できる由もありません。完全なものを目指し、自分たちのエネルギーを高め、通信の回路をより広くしていくために彼らもまた学び続けているのです。シルバーバーチに学ぶ、とあなた はおっしゃいました。かの霊が伝えていることの「本質」をあなたは全く分かってはいません。これを機に地上に生きる人間として、そして至らぬ存在として、学びの途中にある者として謙虚に読み返すことをお勧めします。

私どもはあなたの動機のくもりはいずれあなたが越えていくもの、と認識します。学びが進めば進むほど、自らの動機と至らなさに目がいくからです。その時がいつ来るのかはあなた次第です。シルバーバーチに学ぶ、その一歩目は、そこにあるとお伝えし、通信を終えます。

http://www.d5.dion.ne.jp/~susa

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1025 「メッセージ」の受信者です
名前: 堀江克子(悠々塾)  投稿日: 2001年09月06日 (木) 15時07分21秒

 初めて個人的に投稿致します。
 私は一連のやりとりで問題にされている「メッセージ」の受信者です。受信は飯沼と私のエネルギーの共鳴によって可能となりますが、言葉として受け、文字にするのは私の役割です。
 今までの皆様方の投稿を読ませて頂いて、これを書かざるを得なくなりました。読むほどに、こころさびしくなりました。
 
私たちの「受信」は、癒しの活動のなかで始まりました。病者さんにエネルギーを通す時、私たちは精一杯エネルギーを高め、共鳴させ、注ぎます。その人の癒しを求めて。そんな時、自然に口から出る言葉がありました。それを聞くと同時に病者さんが涙を流すのに驚きました。その言葉は次第に長くなり、私たちも病者さんも覚えきれなくなったので、筆記することになっていったのです。しかし、こういったことを最も‘疑った‘のは、ほかならぬ飯沼でした。彼の厳しい追究に、私は随分と緊張しましたし、やはり自分の思い込みや潜在意識によるのではないか、と疑いもしました。しかし今は、この先の人生を霊媒としてこの働きに生きるつもりでいます。霊団に求められる限り、求める人がいる限り受信し続けます。 
 ただ、私たちは完璧な受信者ではありません。‘テスト‘にあるような事項に関しての受信はまだまだ苦手です。そのような何かを「当てる」ための受信は、全く依頼されたことがありませんでしたし(断ったからではありません)、その機会もなく、また、そうしようとも思いませんでした。ですからそういう回路はあまり開かれていないと思います。しかしそれも必要な時期に来ていると思っています。なぜなら、先月末に「19年前に家を出て行方不明の男性」に関する依頼があったからです。依頼者の求めは「その理由」なのですが、私たちはそれにとどまらず、具体的に、と思っています。

 それとは別に、飯沼に対するあまりにも事実と反する侮辱的な言葉に、強く抗議致します。これこそ根拠なき中傷です。あそこまで書かれるのでしたらば、その責任において、どうぞ悠々塾にいらしてください(取り囲んで洗脳、などということはありませんから安心して)。飯沼がどんな人間か、よく分かります。書かれたことのひとつひとつに「違う」と私が言うよりも、そのほうがいいでしょう。飯沼が尊敬されているのは確かですが、悠々塾の誰であれ、彼を絶対視したり、まるで教祖様のように思ったりという者はいません。むしろ、親しまれ、慕われています(おとなだけでなく、子どもからも)。私は出会ってまだ8年ですが、このような人と働きを共にし、心を重ねて生きていくことを本当に幸せに思っています。

実際に筆記するのは私でありながら、否定や批判、非難、中傷の矢面に、飯沼がひとり立つことになってしまったからだけでなく、そうする人たちのやり口の汚さと卑しさに、黙って見てはいられませんでした。何を言われようと私はかまいません。皆様方に認めて頂きたいなどとも思いません。私たちは依頼者の方々の喜びの声に支えられていますし、何よりも、霊団に対して全幅の信頼を寄せているからです。私たちは今までずっと、導きのなかで学んできました。その導きは非常に厳しいものでしたが、深い愛情に裏打ちされたものであり、人間には考えの及ばないものでした。知識を得るだけではなく、働きに生きるなかでしか分からないことがあるのです。そしてそれは、ゆるぎない実感として、自信としてこれからも私たちを前に進ませてくれるのです。
思っていたよりも長くなってしまいました。これで失礼致します。

追伸・・・有希さんへのメッセージは、ご本人の承諾を得ていますので、近々「悠々塾」の掲示板に参考資料として掲載致します。

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1024 「さにわ」がば○ではどうしょうもありません
名前: 12 Y.O.  投稿日: 2001年09月06日 (木) 14時13分46秒

しろさん。

>私はスピリチュアリストとしての、あるいはシルバーバーチに学ぶ者として>の義務であると自覚して、霊界通信に対する検証の必要性にこだわっている>のです。

で、その「検証」内容が、

>?私の祖母について ?私の妻の職業について ?私の趣味について
>云々。

ですか。
これがあたれば「おう!すごい、悠々塾は高級霊だ。」となるわけですか。
「シルバーバーチに学ぶ者」と胸を張ってますが、何を学んでいるやら。
「コックリさん」でも、たまにそのくらいのことを言いあてる霊はきてくれ
ますよ。試してみたらどうですか。

そして、

>もしわたし自身が納得いく答えが得られたなら、その時私は悠々塾の霊界通
>信は本物だ、スピリチュアリズム的だと声を大にして言うことができます。

あなたが「納得」し、「声を大にして言」ったとしても、それが何になるの
でしょう。
それは、悠々塾に集う人たちが本物と判断していると同じレベルにしかすぎ
ないでしょ。そんなものを検証とは言いません。

「義務」なんて言ってるけど、興味津々っていうところでしょう。
コロッとだまされるタイプですね。

あっ、それから機種依存の文字なんか使わないのがエチケットだと思います
よ。

Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; Windows 98; DigExt)ponkan.drm.edu.net-kochi.gr.jp


1023 Mr.しろ様へ
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月06日 (木) 10時53分40秒

以前僕が投稿させて頂きましたコメントの意味をご理解いただけなかったようですね。
I wrote:
|霊界通信を検証するというあなたの姿勢は正しいものです。
|しかし、あなたの投稿を拝見していて次のようなイメージが
|浮かんできてしまいました。
|茶わんを急須よりも上に持ち上げておいて、お茶をつごうと
|する不自然さです。・・・・・・・
僕は、あなたにご自分の心の姿を見て欲しかったのです。あなたは飯沼さんに対して、さかんに実験に応じるように求めていらっしゃいます。僕も実はあなた以上に懐疑的な性格なのです。そう簡単にものごとを信じたりは致しません。あなたが仰るように、検証は絶対に必要と考えます。ただ、そこで忘れてならないのは、霊界通信の真偽を見極めるにあたっては、物理的な実験と同時に霊的感性が必要であると言うことです。具体的に申しますと、絶対的な謙虚さ、受身的な心の姿勢です。あなたにはその点が大いに欠けているように僕の目には映ります。
「茶わん」は自分の心、「急須」は大霊、そして「お茶」は霊的真理です。真の謙虚さがなかったら霊的真理は自分の魂に届かない、ということを僕はお伝えしたかったのです。

 次に、審神(さにわ)についてのヒントをお伝え致します。あえて出典は申しません。先入観なしに、伝えられている内容の真偽をご自分の魂で感じ取っていただきたいと願います。

○古くから、霊界から地上へ向けての働きかけがあったことをあなた方はすでに御存知です。そしてそれ以前は、ごく普通に、人々は自分が地上以外の世界(霊界であり、神であり…)とつながっていることを知っていましたし、実感もできていました。神のこころにつながって、人々が地上に生きている時代ならば敢えて、霊媒を通じてさまざまな事柄を伝えるには及ばなかったのです。

○人々が心に喜び以外のものを抱き始めると、当然ながら霊界との通路はせばまっていきます。それまで実感できていた世界、分かっていたことが自分たちから遠ざかっていきます。次第に神のこころとは調和できない人間ごころで生きる時代を迎えていきます。
 人間が地上にあって、そこでの人生を全うするのは、神からの喜びのエネルギーを地上において顕現させるためです。よって「何が」人間の目指すべきものなのか、「何を」目的として生きるべきなのか、「今」をどう生きるのか、を地上の人間に伝えるための媒体として「霊媒」が求められました。
 しかし、「霊媒」はあくまでも地上に生きる地上の人間です。肉体のなかに魂を宿して生きるところでの限界は自ずとあります。地上的な制約・影響が皆無な霊媒はいません。たとえ、霊媒の意識を霊界側が完全にコントロールしたとしても、必ず霊媒の「脳」を経由しての伝達になる以上、そのフィルターの影響はあるのです。

○しかし、伝える内容が、本当にその時々の人々に必要ならば、それは伝えられるべきものとして扱わなければなりません。その見極めをするのが「審神」役です。
 その役割に求められるのは、物事を論理的・客観的に見る目です。しかもそれは、そこに自分の感情を入り込ませないだけの徹底したものでなければなりません。地上の人間は、事の大小によらず、自分の感情(都合、好み、思い込み、気持ち)を判断や決断のなかに混ぜてしまいますし、それで言動を左右させています。その点において、理性のみで判断できるだけの力を持ち合わせていなければならないのです。
 それらの判断力に加えてもうひとつ、その通信全体に貫かれているものを感じとる霊的直感力が求められます。論理性・客観性とは別のところで捉える“能力”と言ってよいでしょう。霊媒同様、この“能力”は与えられているもの。体質とは言いませんが、審神としての能力だと言えます。これは、理性による判断には限界があり、それを越える部分で感じ取り、判断するために必要なものだとも言えます。
 どんな霊界通信であっても、それが間違いのないものだと示す「証拠」を、全ての人が納得する形で示すことはできません。霊界という見えない世界から送られてくる言葉ならば、そこには必ず、発信された次元の雰囲気、発信する霊(霊団)に漂っているもの、備わっている愛情の深さ大きさというものがあるはずです。それは論理性や客観性で判断できるものではありません。

○審神をしようというのであれば、その通信の伝える内容については厳しい目で臨むこと、そして公平な目で見ること、は欠くことができない、と重ねて伝えます。
 自分が論理的・客観的であると勘違いしている人はとても多いのです。自分を科学的な人間だ、などと言ってしまっている人が、本当にそうなのか、自分では分かっていないのです。判断する前に、自分の気持ちが先に入っていることに気づいていなければ、そこですでに“公平さ”は欠如します。“客観性”も失われます。論理的・客観的に見ようとするならば、まず、「自分」に対する厳しく真摯な検証が必要なのです。
 霊媒を通して送られてくる通信には、何らかの地上的な影響が混じってしまう、と伝えました。それを判断する審神に、地上的な「自分」の影響が全く入らないのは難しい。だからこそ、「自分」にも厳しい目を向ける必要があり、それを繰り返しながら臨む者でなければならないのです。

○通信の出所がどこなのか、という特定よりも、もっと大事なことはその通信の意図です。それが、神の意志に添ったものなのかどうか、です。
 神が地上の人間に求めているのは、「愛情」の顕現であり「喜び」の顕現です。地上において、人間が地上ならではの喜びを実感し、謳歌すること、それが全ての者にくまなくゆきわたっていること、それがもたらされていない者には手を差し伸べ、共に分かち合うこと。
 具体的な日々の暮らしのなかで、ただ思うだけでなく実践すること。地上的な顕現とは、形を成すこと、形に表れることです。人を思う心は言葉や行為行動に移してこそのものです。

 それらを導こうとするものが霊界通信です。(注:本来の) 「霊界のことを伝えるもの」というよりも、「それを知ることが人々に役立つから」という意図のもと送られてくるものなのです。例えば、「霊界のことを知る」のは、「人々が持っている死への恐怖を払拭し、翻って、地上人生をよりよく生きてもらうため」に役立つからにほかなりません。知ってもらうことそのものに意味があるのではなく、それが人々の何の役に立つのか、それに尽きるのです。

○もっとも、まことしやかに真理や愛を謳(うた)っているかのような通信があるのも確かです。人間の持つ、恐れや不安につけ込んで、通信を送ってくる、いわゆる低級霊がいれば、また、人間の自己肯定、虚栄心、優越感というところに入り込んでくる霊からの通信もあります。
 一見すると自由に、“楽に”、喜びのなかで人が生きられる希望を伝えているかのようですが、よくよく読めば、そこに「自分中心(ほかの者に手を差し伸べようとする意識がみられない)」、「貢献の放棄(何もしなくていい、全てお任せで大丈夫…)」、「主観的(何事も自分の都合のよいように思いたいように思う、事実をおろそかにする)」といったかげりが見えてきます。きれいな言葉、丁寧な物言いで繕ってはいても、「本来人が地上でなすべき生き方」とは相入れないものがこぼれてくるのです。

 人は「現実」をありのまま受けとめ、そこで人としてどう生きるのかどう行動するのかを絶えず問われています。その「現実」を歪めるような勝手な思い方、あるいは、そこで力を尽くすことなく何もしないこと、その姿は、自らの魂の意志と切り離された惨めな姿なのです。
 魂の意志とは、この地上で、今の現実のなかで、より正しくより優しくあろうとすること。そのためには自分に課せられた苦しい状況やもたらされる困難を越えて、自分に与えられた場で与えられた力を発揮すること。そこに「喜び」があるのです。

 “自分(たち)だけが”嬉しい、楽しい、心地良い、そうなれるような通信ならば、それは、きっと「自分のみの喜び」を求める霊からの通信なのでしょう。
 “地上に生きる全てのいのち”に喜びをもたらすような世界にしたい、と思えるような通信ならば、それはきっと、そう願う霊からの通信なのでしょう。
 しかしもっと大事なのは、せっかくの通信を手にしても、感動し、喜ぶだけで終わってしまわないことです。
 地上に「通信」が送られる目的は、「実践」にあるのです。読む楽しみ、知る喜びのためでなく、論じてもらうためでなく。その通信に心を動かされたのであれば、その内容に沿って生きていく、それが大切なのです。

○その意味でも審神は、明確な目的意識を以ってなされるもののはずです。その通信を手にする人々に、何を提供できるかを見極めなければならないからです。
 霊界側の意図は、地上の人々を本来の生き方へと導くことにあります。人として正しく人として優しくあること、それが言動に反映されることをです。その意図を汲み取り、自らもそうあろうとしつつ、神のこころに添っていく、それが審神する、ということです。神のこころとは愛であり、「真理」だからです。

○そうして見てみれば、審神そのものが「霊界通信」についてのみなされることでないのが分かるでしょう。
 たとえ「霊的真理」という言葉など知らなくても、神のこころに添い、自らの魂の意志に従って生きている人は大勢います。その人自身の心と行動に愛情が溢れ、思いやり深い言葉を発しているとしたら、その人は人として十分に優しく生きていることになります。それは「霊界通信」を知っているからではなく、その人の心が、意識が、それにふさわしい次元の霊界としっかりつながっているからです。思うだけでなくそれが行動・言葉に反映されているのは、その次元の霊界からのエネルギーを受け、それを顕現していることにほかなりません。
「霊界」とあなた方はいつもつながっています。ただその時々の心のありよう、あるいは抱いた動機によってつながる霊界の次元が変化もします。邪(よこしま)な動機の先には幽界や暗黒界がありますし、親切や優しさの先には善意に満ちた霊界があります。
とすれば、自らの心の動き、抱いた動機、本音の部分に関しても審神はできるもの、いいえ、すべきものと言ってよろしいでしょう。決して、「霊界通信」という特殊なものにのみ適用されるものではないのです。あなた方の思念・感情・意識全てが霊界とつながっているものなのだから、それがいかなるものかを自分自身に問うこと、自分の心や行動を審神(点検・検証)すること、それでよろしいのです。
 「霊界通信」は、霊的なことが決して特別なことではないことをあなた方に伝えたはずです。当然のものとしてそこにあり、全ての人が霊界からの導きのもとにあることを知らしめるものだったはずです。それを読む側の者が、読んだ「自分」を特別なもの、としてしまわない限りは。

○地上界はあまりにも神のこころからかけ離れてしまいました。今は、人が人として本来生きるべき姿とも違っています。そのことに気づき、自分たちが、自分たちの意志によって、人本来の生き方に立ち返るため、そのために「霊界通信」は送られるのです。地上界の浄化とは、人が人としての本来の「心」と「行動」を取り戻すことなのです。地上の人々自身の手によって。
 あまりにも愛や摂理や喜びから遠い地上界ではあっても、霊界側の私たちはそれを全て受け入れたうえで、こうして働きかけをしています。なぜなら今の地上の酷い状況も、全ては神の摂理・計画・法則のなかのもの、と知っているからです。この状況あってこその喜びが、いずれ地上に満ちることを知っているからであり、それを希うからです。そのために貢献できることを喜びとするからです。

 しかし、だからと言ってあなた方が「全て任せておけばいい」などと言うのは違っています。委ねる、ということの意味は、自分たちにできる精一杯のことをしたうえで、もたらされる結果を受け入れることです。何もしないでただの通路でいればいい、道具でいればいい、というのとは違います。
 「通路」も「道具」も喜びをもたらすために働くものです。じっと動かないでいること、自らの意志を持たないのであればそれは、部品にしかすぎません。神にとって、霊界側にとってより使いやすい道具、よりよき道具とは、自らがいかに役立てるか、という「意欲」とともに自らの意志により、実際に動く者なのです。それを求める霊界側と心をひとつに合わせながら。神のこころに添いながら。

以上
ペーパーバーチさん、長くなって申し訳ございませんでした。お許し下さい。
☆★☆ Miyazaki Mamoru ★☆★

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1021 とり急ぎ
名前: 飯沼正晴  投稿日: 2001年09月06日 (木) 00時26分58秒

通行人さんへ

確かに私はあなたが「ある人」かも知れないと思いました。
しかし、あなたが引用したメッセージは「ある人」へのもので、通行人さんへのものはこの掲示板に掲載してあります。(何を勘違いして大騒ぎしているのですか) あなたの文章が、「ある人」へメッセージを送る、水先案内をしてくれたのかもしれません。以前には、ペーパーバーチさんが、その役割をしてくれました。
それにしても、前回の通行人さんと、今度の通行人さんは、雰囲気がまるで違いますね。別人のように、品性まで違っているように思えます。
神の鏡、真実の鏡に、自分のありのままの姿を映し見ることができないのなら、せめて、人間としての自分の鏡に映してみなさい。今のあなたは、どんな姿をしているのか。

シロさんへ、

あなたへの回答は数日前にすでに準備しています。林さんのパソコンに入れてありますが、彼が急用で留守にしているので、帰り次第投稿します。予定がはっきりしないので、テストのことについて、先にお伝えしておきます。

まず、私たちは「当たる、当たらない」というレベルの通信を受けているのではありません。「癒しのため、地上界の浄化のため」がその目的です。

そのために、「本来地上界はどうあるべきか」をはじめとして、膨大なメッセージを受信しています。キーワードは、「かげりを光に」です。内容の正確さ適確さについては、今まで大きな信頼が寄せられていたからこそ、続けてきているのです。(つい昨日も、アメリカ在住の一面識もない方から、内容は100%納得、とのメールを頂きました)
そして、心とは、決して曖昧なものではなく、心にも、いや心にこそ実体があり、法則があるのです。
テストについて、まず肝心なところは「地上界の浄化」の目的にかなっているかどうかが、第一に重要なことでしょう。
それと、あなたが盛んに気にしておられる、霊界通信であるかどうかに着いては、受信が、生身の人間の思考や筆記の範囲内にあるかどうかです。
あれだけの質と量の原稿を、あの速さで書くだけの能力を、私も堀江も持ち合わせてはいません。残念ながら。
この数年間で受信したメッセージは、原稿用紙にして一万枚近くにはなっているでしょう。(正確にはわかりませんが)。受信に立ち会った人は皆認めています。数百人はいるでしょう。

あなたの出した問題に答える霊能者はいるのでしょうが、それが「地上界の浄化」の目的にかなっているかどうかが本当の問題でしょう。だからこそ、私の質問にはしっかりと答えてほしかったのですが、どうやらあなたにはその視点が決定的に欠落しているようです。無理はありませんが。
私たちは、占い師ではありません。この地上界の浄化のために働く者達です。それが分かったうえでなら、どうぞ受信に立ち会ってください。私もあなたの顔を見てみたいと思いますし。

それともうひとつ。、私は今まで自分をスピリチュアりストと称したことはないと思います。悠々塾にスピリチュアリズムのラベルを貼り付けるつもりもありません。ですから、一昔前のマルクス主義者の正統争いを演じるつもりもないのです。
もちろんスピリチュアリズムの本来の目的である、地上界の浄化のために働き、働き続けたい(微力ではあれ)と意志し、それにふさわしい人間になっていきたいと願っています。スピリチュアリズムの現状、スピリチュアリスト(自称も含め)のありようにも大きな関心を持っています。
しかし、自分を言葉のラベルで規定することによって、正当化し、自分の秤では量れない人たちのことを、口汚く罵ったりはしません。
大いなる意志に基づいた地上界の浄化とは、排除ではなく、理解と融合、即ち、より大きな調和を目指すなかで成されるのです。そして、手段はたとえ萌芽的にであれ、目的を含みます。そうであるからこそ、変節しないのです。愛と正義を欠いた地上界の浄化など、誰かのスピリチュアリズムと同じです。
スピリチュアリズムという言葉が、その本質を含んだままに使われてほしいと願っています。

TMHさん、
あなたへの回答は昨夜受信いたしました。
明日にでも投稿いたします。

http://www.d5.dion.ne.jp/~susa

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1020 宮崎護さんへ
名前: Mr.しろ  投稿日: 2001年09月05日 (水) 23時25分52秒

まず始めに申し上げておきますが、悠々塾の飯沼さんと宮崎さんを、同一の立場として見ているのではないということです。同様の反論をしている訳ではないことをご承知ください。飯沼さんはすでにスピリチュアリズムを受け入れ、そこに最高の価値を見いだしている人間であり、シルバーバーチの教えを自分の指針としている人間であるということです。そして人々を導く立場にあるということです。それゆえ厳しく臨んでいるのです。それに対し、あなたはスピリチュアリズムに出会って日も浅く、スピリチュアリズムについて学ぶ過程にある方であり、まだ十分なスピリチュアリズムの理解に至っていない方です。飯沼さんとはその点で全く違う立場にあります。すでにスピリチュアリズムを受け入れている人間と、スピリチュアリズムを学んでいる人間という違いがある以上、それをわきまえて、あなたにご返事いたします。

「霊界通信を検証するというあなたの姿勢は正しいものです。しかしあなたの投稿を拝見して次のようなイメージが浮かんできてしまいました」とあります。もちろん私の投稿をみてどのようなイメージをもたれても、それについては関与するところではありません。ただあなたのこの内容から、あなたは霊界通信に対する検証の重要性について十分理解されていないことが分かります。問題はそこにあると思います。私は霊界通信の検証は、スピリチュアリズムにおける大原則である以上、それにこだわることは当たり前のことだと思いますし、それであってこそスピリチュアリズムの権威が保たれ、霊界の意向に添うものと信じています。自分自身は未熟で、人格・知識どれをとっても十分ではありません。しかし未熟であっても、スピリチュアリズムの基本だけは理解しているつもりですし、スピリチュアリズムを愛する情熱をもっています。はっきりと言って、私とあなたの違いはこの点にあると思っています。一方はスピリチュアリズムにほれている、一方はまだスピリチュアリズムがどんなものかを調べているということです。
 霊界通信に関するあなたと私の見解のズレは、すべてこうした違いに由来するだけのことだと思います。今のあなたの立場からは、霊界通信の検証にこだわる姿勢が不自然に映ったとしても、しかたがないことだと思っています。私はスピリチュアリストとしての、あるいはシルバーバーチに学ぶ者としての義務であると自覚して、霊界通信に対する検証の必要性にこだわっているのです。そしてあなたが今後スピリチュアリズムについての理解が進み、深くスピリチュアリズムについて知ることができるようになれば、いつかは必ず私と同じ結論に至るものと思っています。今スピリチュアリズムを学ぶ過程にあるあなたに対して、私が申しあげることができるのはここまでです。理解の深まりと同時に、考え方が自然と変わっていくことを願っています。
また宮崎さんは、「疑問を持つこと、理性に照らし合わせることは絶対に必要です。しかしそれと同時に必要なことがあります。それは真実を知りたいという切実な願い(それは謙虚さにも通じます)を持つことです」と言っています。宮崎さん! 私もあなたに負けないぐらい真実を知りたいと思っているのですよ。ただしそのためには、シルバーバーチが言うように絶えず理性に照らして検証していくことが必要だと思っています。霊的直感を理性的判断によって確認していくことによって、多くの真実を学ぶことができると思っています。私は理性に照らしていくことの重要性をシルバーバーチから学びました。真実を求めることと理性を用いた判断は常に一体化していなければならないことを、私はシルバーバーチから教えられました。真実を求めることは、シルバーバーチが言うように理性を使うプロセスでなければならないことを納得するようになりました。
 さてあなたのメールの文面を拝見すると、理性的判断を心掛けることと、真実への希求がまるで別物のように(次元が一致しない)、あるいは並列的なものであるかのように書かれています。正直言って私には、あなたが何を念頭においてこうしたことを言っているのか理解できません。漠然とし過ぎていてメールの内容が掴めません。もしそれが霊界通信のことを意識において述べられていることであるとしたら、あなたにいろいろと質問をしながら話を進めていきたいと思います。想像で論を進めても意味がありませんので、何を念頭において言ったことなのかを教えてください。その際、先程の「疑問を持つこと、…を持つことです」のメールの内容も、分かりやすく説明していただけないでしょうか。

有希さんへのメール内容について。あなたは有希さんに対して「心からの柔軟性をなくしてしまっているのです」と断言しています。これまでのメールをずっと拝見してみると、私は、有希さんこそ、スピリチュアリストとして必要な心の柔軟性をもった方だと思っています。理性的に納得できたものはどんどん取り入れ、また間違いに気がついたら率直に認め、反省することができる方だと思います。まさしく柔軟性豊かな方ではないでしょうか。ですからあなたの指摘には全く納得がいきません。スピリチュアリズムを絶対の基準としない立場からでは、スピリチュアリズムを信仰として生きる人間は、宮崎さんの指摘のように映るかも知れませんが、それはどこまでもあなたの主観に過ぎないと思います。十分にスピリチュアリズムが理解できていない人が、柔軟性うんぬんなどと言うことを聞くと、「柔軟性」と「いいかげんさ・ズボラさ・気ままさ・非論理性」を取り違えているように思えます。自由と放縦を取り違えているように思えます。あなたは有希さんのどういう点を指して柔軟性がないと言っているのでしょうか。それについてもぜひ教えていただきたいと思います。
また「はじめに結論ありき」とも言っています。しかしこれほどおかしな言い方はありません。政治討論でもあるまいし、人は誰でも自分なりの意見をもっています。他人との話し合いや本を読むことによって自分なりの考えを作り出していきます。その結果、知識の拡大とともに意見も成長し、結論も高まっていくことになるのです。それを自分と違う意見をもった人に示せば、相手は「はじめに結論ありき」と感じてしまうのは当たり前のことなのです。あなたもはじめに結論があればこそ、私の見解に異議を唱えているのではないのですか。私から見ればあなたも「はじめから結果ありき」です。はじめから結論をもっていることが悪いというのであれば、話し合いや議論それ自体が成り立たなくなってしまいます。ですから「はじめに結論ありき」などと批判することは全くおかしなことなのです。自分と違う意見を述べるなと言うことと同じことになってしまうのです。あるいは自分の意見は正しいが、お前の意見は違っていると頭から決めつけると同じことになるのです。

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1019 霊界通信
名前: アラム  投稿日: 2001年09月05日 (水) 23時01分33秒

通行人さんは
>霊界では幽界の霊ですら、うかつに地上に帰ってきておしゃべりをしたりするようなことは罪深いことなのです。
>それを破っておしゃべりをしたり、からかったりするのは低級霊や邪霊、或いは死んでからも自分が死んでいることが自覚できないような、ウロウロした自縛霊くらいなものです。
と述べられていますが、この根拠は何でしょうか?

地上の人間を騙そうとする目的の邪霊の通信があることは事実ですが、地上の親しい人、愛する人へ霊界通信を送ることが罪深いことなのでしょうか?

この種の通信を送ろうとする霊は多くいて、それが果たされないのは地上の人間にそれを受け取る態勢が整っていないからだという意見もあるようですが。

また、この種の通信を送ろうとするのは、高級霊でも、邪霊でも、死んでからも自分が死んでることが自覚できないような自縛霊でもなく、幽界の第三層に分類される「サマーランド」と呼ばれる界層にいる霊が多いようですが。

こうした幽界からの通信は罪ぶかいものなのでしょうか?

また、うかつに地上界に帰ってきてということですが、この種の通信には霊が地上界に帰ることなく思念だけを伝えてくるものもあると思います。

「地上界を浄化しよう」とか「人間を向上させよう」という動機を伝えてくる霊界通信に対しては厳しいスピリチュアリズムの視点での審査が必要であることには私も同意します。

ただ、高級霊以外の霊界通信は認められないようにも受け取れます。

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1018 re:お調子者・・・
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月05日 (水) 10時12分23秒

 東方朔さん、はじめまして。僕のコメントを引用していただきまして、ありがとうございます。お互い霊性の向上を目指して精進して行きましょうね。
以上

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1017 お調子者・・・
名前: 東方朔  投稿日: 2001年09月05日 (水) 02時37分03秒

ペーパーバーチさんの「仁義のなんたるかを弁えぬ人間」てのは、ほれ

********************引用********************
0145  宮崎 護 [東北]  [01/08/22(水)-18:28]
応援しています
 T子さんのこと、僕にはどうして上げることも出来ませんが、飯沼さん達の働きを陰で応援しております。
飯沼さんwrote:
>ほかの掲示板にも書かなければならないのですが。
そんなことお気になさるな。吠えたい人には吠えさせておけば良いのです。小賢しき人は勝って負け、偉大なる人は負けて勝つ。僕はそう思っております。あなたを本当に必要としてくれている人のために、最大限の霊力を注入してあげて下さい。神は見てありです。
********************引用おわり********************

こんな人かい?
以前ペーパーバーチさんにあれこれ質問してた人だよな。
見事に恩を仇でかえしてますなぁ。
嗚呼、人情紙風船(ペーパーバーチ風感歎)

PS.高橋さんはものすごーく恥ずかしい勘違いをしているようだね。
「根拠のない中傷」は「K氏に関して」のことだけを言っているわけではないのに。

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1016 通行人さんへ
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月05日 (水) 00時51分42秒

|・・・・と述べて、「通行人」(わたし)に対してのメッセージ
|として、あなたは慌てて「霊界通信」をされることとなります。
と、お書きになっていますが。飯沼さんは、あなたへのメッセージを受信されたわけではありませんよ。もう少し冷静にお読みになってみませんか?
おやすみなさ〜い(眠くなってきました)。

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1015 通行人さんへ
名前: 高橋  投稿日: 2001年09月04日 (火) 22時51分13秒

>末端の人はいつもいい人ばかりなのです。悪いのは情報を操作して信者を操る、一部の悪巧みを持つ上層部なのです。繰り返しますが、問題は真理が含まれているかどうかといった単純なことではありません。あえて言うならば、その話の最後がどうか、顛末はどこへ向かっているかということです。真理はこれこれこうですから・・・金もってこい、とか信者増やせとか、俺様は偉大だ、俺様にひざまづけ、ということになるからおかしいのです。<

あなたは悠々塾がそういう団体だとおっしゃるのですか?
そう言い切れる根拠は何ですか?
私が口を出すべきことではないかもしれませんが、あなたの文章を読んでいると悠々塾への強烈な憎悪を感じずにはおれません。
そういう出来事が何かあったのですか?

http://homepage1.nifty.com/pdo/

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1014 悠々塾さんへ
名前: Mr.しろ  投稿日: 2001年09月04日 (火) 22時07分47秒


飯沼さん、先回の私のメールをもう一度要約します。あなたがスピチュアリズムを標榜し、自らシルバーバーチに学ぶ者であると言う以上、これまで悠々塾でおこなってきた霊界通信は、公式の検証を受ける必要があるということです。なぜなら巷に数多く見られる霊界通信に厳しい検証を行い、その中から信用に足る本物の霊界通信を見つけ出してきたのが外ならぬスピリチュアリズムであるからです。あなたが尊敬するシルバーバーチも、霊界通信に対する真偽の見極めと、通信霊のレベルを確認することの重要性を強調しています。さらにシルバーバーチを愛読する人々から、ペーパーバーチさんと有希さんのボードに、悠々塾の霊界通信に対する通信霊のレベルへの質問が、現実に寄せられているからです。こうした質問をすることは、スピチュアリズムにあっては当たり前のものです。スピチュアリズムは霊界通信に対する厳密な検証を行うことにおいて、他の宗教や信仰と一線を画しています。したがって飯沼さん、あなたがスピチュアリストであることを認めている以上、当然の責任を果たさなければなりません。シルバーバーチを語り、人々の為に貢献しようというなら、自らかってでも厳格な検証を受けて、その正当性を回りの人達に証明しなければならないのです。
私はこれまでそうした霊界通信の検証の経験があったので、どうぞ私を実験台にしてあなたがたの霊界通信がスピチュアリズム的に合格するものであるかどうかを検証させて下さいと申し出たのです。霊界通信の真偽確定の基準となる質問事項を提示し、あなたがたには、これまで他の人々にしてきたように、その答えを示して下さいと申し出たのです。それによって、あなたがたの霊界通信の真偽のほどが判断できるからです。しかしそれに対してあなたは、すぐにそれに応じられないと理由を述べてきました。そのあなたのレスポンスでの理由への反論は、このメールの後半で述べることにしましょう。

ここで重要なことは、飯沼さんあなたが、「スピチュアリズムを語る以上、霊界通信に対するチェックを受けることが必要である。シルバーバーチが言うように、霊界通信に対する厳格な検証が必要である。」という私の意見を受け入れてくださるかどうかという一点に集約されます。私の検査がいやと言うなら、「別の形であっても、何らかの方法で厳格なテストを受けなければならない」ということに同意してくださるかどうかです。これは悠々塾の本質に係わる重要なことなので、飯沼さんだけでなく、堀江さん、林さん、裕造さん、さきさん、あなたがた一人一人にも確認しなければなりません。霊界通信を通じて悠々塾の働きかけを進めてきた以上、皆さんがた全員にもこの質問に答える義務があるのです。「イエス、ノー」でも「認める、認めない」でもかまいませんから、端的に一人一人の答えを聞かせてください。

  飯沼さん!率直に申し上げましょう。あなたがたが今後もスピチュアリズムを標榜したいというのであれば、あるいはシルバーバーチの教えに忠実であるグループであることを主張したいのであれば、選択肢は2つしかないということです。一つはこれまで私が言ってきたように、自ら喜んで霊界通信に対する厳格な検証をうけいれ、スピチュアリズム的に認められる本物の霊界通信であることを証明することです。もう一つは、悠々塾で行ってきた従来の霊界通信路線の間違いを認め、今後は霊界通信を一切止め、スピチュアリズムとシルバーバーチの教えに忠実な路線を始めることです。要するにゼロからやり直すことです。このいずれかの方法しか、悠々塾が選択すべき道はありません。あなたがたは霊的真理をいまだ知らないこの世の人々と違うのです。すでに霊的真理を知っているのです。そうしたあなた方が、シルバーバーチを初めとする高級霊に認められるには、いま私が示した2つのうちのいずれかの道を選ぶしかないのです。私個人としては、飯沼さんが後者の道を選択し、従来の霊界通信路線を全廃し、これからの人生を霊界の認めるスピチュアリストとして、人々のために貢献してくださることを願っています。悠々塾がこれまでの霊界通信路線の間違いを認め、ゼロから純粋なシルバーバーチ路線でやり直そうと決心なさるなら、これ以上あなたがたに対する追及の必要性もなくなるでしょう。一人一人に対する先程の答えも聞く必要はなくなります。
 もし飯沼さんが、このどちらもいやということになるなら、困ったことになります。自らスピチュアリストであることを放棄し、自分の意見は正しいと固執する方と、議論することは全くの時間の無駄となってしまいます。幸福の科学の大川隆法と何時間議論しても、平行線をたどるだけで建設的な議論ができないと同じで、不毛な議論になることは目に見えています。私は不毛な議論を続けて時間をむだに過ごすほど暇ではありません。飯沼さん、あなたがどのような出方をするのかを、皆さんは注目しています。あなたがどのような選択するかを見ています。あなたの態度によって、私の今後のあなたへの対応を考えることにしましょう。


先回の私のメールの内容は、悠々塾がスピチュアリズムやシルバーバーチの名を出す以上、霊界通信に対しての厳格な検証が必要だという一言に尽きます。それに対しての飯沼さん、あなたのリスポンスの第一声が、「シルバーバーチが地上に働きかけをはじめたその動機を、あなたはどうとらえているのでしょう。まずそれに答えていただきたい。それと悠々塾の働きの動機と実際についてのあなたのご意見を是非聞かせていただきたい」でした。これには正直、驚き、呆れてしまいました。悠々塾の霊界通信が、スピチュアリズム的であるかどうかを問題にし、シルバーバーチが言うところにしたがって検査を受けるべきであるといっている最中に、こういう問題のはぐらかし方には本当に開いた口が塞がりませんでした。こうした応対のし方が、誠意のないことであることが分からないのでしょうか。実に姑息で、堂々としていません。
とは言っても動機の問題こそ、私が最終的にもって行きたかったところですから、ちょうどよいかもしれません。シルバーバーチの動機、そんなことは常識であり、今更言うまでもないでしょう。悠々塾の動機もHPに示されており、表面上はシルバーバーチと同じでしょう(ただし一応とだけ言っておきます)。おそらくあなたはシルバーバーチと悠々塾の動機が同じであることを、何としても強調したかったのでしょう。悠々塾の動機はシルバーバーチの動機と一致している、一番の本質が同じである以上、悠々塾はシルバーバーチと全く同じであると言いたかったのでしょう。飯沼さん! 悠々塾は確かに立派な動機を掲げています。しかしそれは何もあなたに限ってのことではありません。あなたに反論しているペーパーバーチさんも、いつも中立で客観性と冷静さを失わない有希さんにしても、あるいはボードに意見を寄せられた多くの方々にしても、いずれの皆さんも、立派な動機をもっているのです。シルバーバーチと同じように人々の救い、地上人類の救いのために貢献したいと思っているのです。あなただけではないのです。
 さてここからが大切なところです。スピチュアリストは動機だけを問題にして、それですべて善しとはされないということです。動機が正しく高尚であると同時に、その手段・プロセスも正しくなければならないのです。動機と手段がともに正しく高尚でなければならないというのがスピチュアリズムの在り方であり、シルバーバーチの言っていることなのです。飯沼さん、霊界通信に対する吟味とは、その手段の正しさを求めていることなのです。シルバーバーチが言及している手段・方法論については他にも色々ありますが、霊界通信に対する検証はその一つなのです。飯沼さん! 動機が正しい・崇高であることは、スピリチュアリストにとっては当たり前のことです。今ここであえて問題にする必要性はありません。飯沼さん、あなたの動機は正しいかもしれないが、これまでの手段は間違っているのです。検証を受けない信頼性の疑われる霊界通信を、主な手段として用いてきたということは、明らかに間違っているのです。シルバーバーチに教えを請うということは、動機も手段もシルバーバーチの言うことに従うということです。霊的真理を知らない人にとっては、動機が正しければ手段が少々間違っていても問題にはならないでしょう。しかし飯沼さん、あなたはその人たちと違って霊的真理を知っている立場なのです。霊的真理を知ったことにおいて、まさしくあなたには責任が伴っているのですよ。動機がシルバーバーチと一致しているのだから、それでいいということにはなりません。手段もシルバーバーチの言うようでなければならないのです。ですからあなたがスピリチュアリズム的でない霊界通信を手段としている以上、動機うんぬんなどと言う資格はないのです。スピチュアリストとして動機をあれこれ上げつらう立場にはありません。
 私があなたがたの霊界通信のスピチュアリズム性を問題にしたのは、あなたの動機の問題を取り上げるための第一歩と考えているからなのです。動機、あるいは出発時点での志しがどれだけ立派であっても、それが純粋なままで維持されるとは限りません。人間である以上、いつの間にか邪まな思いが忍び込み、姑息な事を考え、当初の純粋な動機からずれて行くようなことは絶えず起こっていることなのです。言うまでもないことですが、もしその間違いに気がついたときには、潔く改め、再出発すればいいのです。動機を論じるときにはこうした点についても考えなければなりません。動機がよくても、人間である以上横道にずれてしまうこともあるということです。
 動機の正当性は、結果的にはそれを実行に移す手段の正当性によっても示されることになります。立派な動機・目標を掲げながら、デタラメな手段に走る人間に、正当性が認められるでしょうか。そうした人間を誰が信用するでしょうか。ましてやシルバーバーチなどの高級霊が、そうした人間を信用するとでも思っているのでしょうか。
飯沼さん、あなたに厳しい姿勢で臨んでいるのは、私にシルバーバーチの霊訓という指針があるからです。シルバーバーチの言葉によってあなたに臨んでいるのです。そのことは考えようによっては、シルバーバーチ自身があなたに警告を発していることなのです。あるいは高級霊があなたにもっと働いてもらうために、再出発のチャンスを与えていることかもしれません。

私へのリスポンスで、
 「あなたとはもっと話をしたうえで、あなたのテストについては考えます。テストをする人の資質や動機を見極めるのも私の仕事ですし、それは当然のことでもありましょう。信頼のおけない人のテストを受けるほど、私は媚びるつもりはありません。今までのこちらのコメントなりメッセージなりを読んで、また悠々塾のH・Pを読んで頂ければ、最低限それくらいのことはお分かり頂けれると思います」とありました。
 いいですか飯沼さん、あなたがたの霊界通信がスピリチュアリズム的であるかどうかを問題にし、それを当事者であるあなたに証明するようにということが、ここでの優先事項なのです。私の人格的資質の問題は付属的なもので重要ではありません。でも、私がテストをするのにふさわしい人間ではないというのであれば、先程言ったように、別に私でなくても一向に構わないのです。他の信用おける方にして頂ければいいことです。心霊科学協会には、一人ぐらいはそうしたことを正確に判断できる人間もいることでしょう。また超心理学で有名な愛媛大学の中村教授に頼んでもいいでしょう。あるいはもっと簡単なテストの方法もあります。あなたがた悠々塾の霊界通信に批判的なペーパーバーチさんと、悠々塾関係のどなたか一人(林さん、裕造さん、さきさんのどなたか)が、テストの立ち会い人・判定者となってもらい、そのまえで実験してもらうということです。お互いが知らない人間(一般通行者でもいい)に実験台となってもらい、霊界通信での指摘と、実験の後で被験者本人が語ったことを比較するのです。このやり方なら、何十という検証例は簡単に集めることはできるでしょう。ペーパーバーチさんなら喜んでこの役目をかって出てくれるのではないでしょうか。(勝手に決めつけてごめんなさい)。あなたにとって今、最も重要なことは、悠々塾での霊界通信が本当にシルバーバーチの認めるものであるかどうかを皆さんの前にはっきりさせることなのです。私の人格の乏しさなど、それと比較したらどちらでもいいことです。

 「個人メッセージについては、その人のあるべき心の姿についてになりますから、あなたのご意向にそえるかどうかは分かりません。しかし、あなたの心は間違いなくあなたが知っているのですから、真偽はそれで分かるのではありませんか?」
飯沼さん、いいですか。ここで問題にしていることは、私が自分の心を知っているかどうかというようなことではないのですよ。私が自分の心を知っていることは当たり前ではありませんか。あなたの霊界通信が、正しいのかどうかを問題にしているのです。私の心の真偽でなく、あなたの霊界通信の真偽を問題にしているのです。あなたはアラムさんへの回答の中で、「個人宛てのメッセージに関しては、その個人を導く指導霊なり守護霊なりからの情報は、霊団を通じて受信します」と言っています。ならば私の守護霊から情報を引き出して伝えてくださればいいだけのことです。私の守護霊からの情報では、先回のメールで提示したような質問には答えられないとでも言うのでしょうか。個人メッセージについては、相手の心の姿になると言っていますが、他の霊媒者でも答えられる質問に、あなたの霊界通信では答えない(答えられない)のでしょうか。この問題については、チャンスがあれば、今後のメールのやり取りの中で、順を追ってひとつひとつ確認していくことにしましょう。
 ここでのもう一つの問題は、あなたが個人向けのメッセージは、心の姿について述べるのであり、それについては主観的判断に任せられるとしている点です。まるで心の姿のメッセージには、客観性がないと言っているように受け取れます。こうしておけば、当たった当たらなかったは主観の世界でのことで、確証は誰にもできないという筋立てになります。最後までメッセージの真偽、当たり外れがはっきりしないことになります。それはひいては、検証テストでも判断が出せないという方向に進んで行くことになります。しかし飯沼さん、心の姿のメッセージでも、メッセージ内容の客観性、真偽性は明らかになるのです。こんなことは少し現実に当たったことがある人なら常識的に分かることなのです。心の内容、心理については確かに受け止め方の個人差や、表現の幅はあります。しかし、だからと言って通信内容自体の真偽が全く分からないまま、主観の領域だけに止まるということにはなりません。それはあなたが勝手に言っているだけであって、心の姿(内容)であってもちゃんとした客観性はあるのです。心の状態を表したメッセージが、事実と合っているかどうかは当事者なら当たり前のこととして分かることなのです。現に有希さんは、あなたのメッセージがほとんど当たっていなかったと言っています。心のメッセージだから受け取り方次第でいろいろ解釈できる、だから客観的判断はできないということではありません。結論を言うならば、たとえ心のメッセージであっても通信の真偽の判断はつけられるということです。ですからそれも検証の対象になるということ、真偽のほどは十分確認できるということです。いずれにしても今ここで問題にしていることは、先程から何度も言っているように、あなたの霊界通信がスピリチュアリズムの公認を受けられるようなものであるかどうかということです。そのためにあなたが喜んで、厳格な検査に応じる姿勢があるかどうかということなのです。

飯沼さんには申し上げたいことが多々ありますが、これ以上ペーパーバーチさんに迷惑をかけてはいけません。またの機会に回すことにします。ペーパーバーチさん、長々と本当にすいませんでした。次回からは短くいたします。
※先回のメールを間違えて消してしまいましたので以下に載せておきます。

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1013 悠々塾さんへ質問
名前: Mr.しろ(旧傍観者)  投稿日: 2001年09月04日 (火) 22時03分19秒

ペーパーバーチさん、はじめてあなたの掲示板に投稿させていただきます。ハンドル・ネームについては、「傍観者」は固有名詞のつもりでいたのですが、不要な問題を作りかねないとのご指摘にそって、次回からは「Mr.しろ」 で名乗ることにします。今回はこれまでの悠々塾さん関係の掲示板の内容を見て、感じたことを述べることにします。

まず悠々塾が私たちと同じく、シルバーバーチを真理の拠り所としていること、自らの立場をスピリチュアリズムと位置付けしていることを有り難く思いました。8月20日、「同じくシルバーバーチから学ぶ者同士として…」、また「この国のスピリチュアリズムに一石投じることができれば幸いです」とありました。また有希さんのボード8月12日にも、「同じくシルバーバーチに学ぶ者同士として…」とありました。飯沼さんは度々、シルバーバーチを引用して、ペーパーバーチさんや他の人達に反論しています。
 悠々塾の内容は、まさに霊界通信のオンパレードです。そして有希さんやペーパーバーチさんのボードにも、その霊界通信が一方的に登場しています。それに対して外部から、悠々塾に霊界通信を降ろす霊団が、どの程度のレベルのものかという質問が投げかけられています(ペーパーバーチさん、有希さん、通行人さん)。そうした質問に飯沼さんは、霊界通信は内容によって判断すべしとのシルバーバーチの言葉を用いて応対しています。そして自分たちの霊界通信のレベルに対する質問に、直接答える事を避けています。また「お読みになった方々が、それぞれに判断され見極めるべきもの(2月12日、祐造&さき)」という悠々塾の他のメンバーによる同様の見解も示されています。
率直に言って、霊界通信で本が書かれる、霊界通信で人生相談をする、霊界通信で相手を諌めるということが悠々塾によって行われている以上、どのような霊がそうした通信を送ってくるのかと思うことは極めて当たり前のことでしょう。「どの程度のレベルの霊ですか」と聞くことは、スピリチュアリズムの観点からみたとき、意味のないことでしょうか。

 飯沼さん!堀江さん!林さん!祐造さん!さきさん! シルバーバーチが、「霊界通信は内容にて判断するように」と度々言っていることは事実です。しかし皆さん方はそれと同時に、シルバーバーチが、他の霊界通信に対して、その真偽、並びに霊的レベルを徹底して吟味するように強調していることをご存じでしょうか? シルバーバーチは常に理性を用いて通信を吟味しなさいと言っています。時には理性を用いて私自身(バーチ)を吟味しなさいとも言っています。もし皆さん方がそうしたバーチの発言を知らなかったとしたら、大変重要な基本を見落としていることになります。またそのことを知っていながら、あえてこれまでのようなことをして来たとするなら、それはスピリチュアリズムにとって極めて悪質なこと、詐欺に近いことをしていることになります。シルバーバーチの言葉の一部だけを取り上げて、それを自分たちに都合よく利用していることになります。
いいですか飯沼さん、シルバーバーチは、全ての霊界通信にたいして、徹底して通信の真偽と、その通信のレベルを判別することを私達に求めているのです。したがって「どの程度の霊ですか」という質問は、まさにスピリチュアリズムの精神にかなったことであり、それどころかスピリチュアリストにとっての義務と責任と言えるのです。そうした外部から寄せられた当然の質問に対して、シルバーバーチに学ぶ者を自認されるあなたが、はっきりとした返事をしないことは、シルバーバーチの教えそのものを踏みにじることになるのです。シルバーバーチの言葉を自分たちに都合の良いように取り上げながら、最も肝心なことを無視するということはアンフェアーであり、スピリチュアリストとしては許されないことなのです。もう一度言いますが、飯沼さん、あなたはシルバーバーチに学ぶ者であることを、ご自身ではっきりと公表されているのですよ。飯沼さん自身が、自らをスピリチュアリズムの立場に置いているのですよ。

 霊界から送られてくる通信や霊媒現象に対して、徹底した吟味の姿勢を取り続けてきたのが、まさしくスピリチュアリズムの歴史そのものなのです。飯沼さんや他の悠々塾の皆さんは、スピリチュアリズムがどのような点において、他の宗教や民間信仰と一線を画しているかをご存じでしょうか? すべての霊界通信を鵜呑みにするのでなく、それを徹底して吟味し、その中から本物といえるものを捜し出してきたのが、スピリチュアリズムなのです。この厳しい検証姿勢があるがゆえに、スピリチュアリズムは他の民間の祈祷師やお伺い、あるいは新興宗教と根本的に違っているのです。
 欧米においてはかつて、科学者による霊媒現象(霊界通信)に対する徹底した吟味が行われました。クルックスやリシェー、ホジソンなどの科学者が、人生をかけてニセ霊界通信を摘発してきました。それは一体、何のためだったのでしょうか? そうした厳しいチェックに合格した本物の霊媒と霊界通信があって、今日のスピリチュアリズムの基礎が築かれたのです。霊界通信に対する徹底吟味、それこそがスピリチュアリズムにおける原則中の原則である事を忘れてはなりません。あなた方がシルバーバーチに学び、スピリチュアリズムに身をおこうとするなら、こうしたチェックの過程を堂々と受けなければなりません。それがなかったならば、あなたがたの霊界通信は、幸福の科学のニセ霊言シリーズと全く同じことになるのです。自らシルバーバーチの教えに反し、スピリチュアリズムでないことを表明していることになるのです。教祖を中心とした単なる新興宗教づくりをしていると同じことになってしまうのです。

霊界通信のレベルが内容によって判別されるということは事実です。またそれだけでなく文体、雰囲気、言葉づかいも判断の基準となります。悠々塾の霊界通信に対して、飯沼さんをはじめ皆さん方は通信内容を見て判断せよというのですが、その内容に対して率直な疑問が投げかけられているのですよ。それと同時にその雰囲気についても疑問がもたれているのです(ペーパーバーチさん)。もし皆さんが自分たちの霊界通信は本物であると言うのであれば、それをスピリチュアリストに納得のいくかたちで、証明しなければなりません。こうしたことは本来飯沼さん自身がすべきことなのです。あなたが堀江さんと組んで霊界通信を降ろすというのであれば、飯沼さんはサニワの役目を果たすことになっています。サニワがすべきことは、それが本物の霊かどうか、どの程度の霊かを見定めることなのです。飯沼さんはこれまで、こうしたサニワとしての当たり前のことをしっかりとしてきたのでしょうか。もしそれをしてきたと言うのなら、皆さんの率直な質問に対して、納得のいく答えができて当然なのです。
私はこれまで十数人の霊媒者に対して、霊界通信の調査をしたことがあります。霊界通信それ自体が本物かどうか、もし霊媒現象が事実ならばどの程度の霊なのかを調べたのです。別に難しいことをする必要はありません。私しか知らないことを、相手に質問し、それに答えてもらうだけのことです。それによって、「本物の霊界通信か、単なる人間の演技か」の区別は容易につけられます。そしてその通信が本当に霊界からのものであるならば、次に質問の内容を、人生訓レベルの次元に上げることで、相手の霊格を判別できるようになります。こうした結果、霊媒現象の真偽と、霊のレベルを判別できるようになります。
悠々塾から発せられる霊界通信は、かなり個人的な細部にまで及んでいます。すなわち霊界通信としては詳細な部分にまで触れられているということです。ここで私は飯沼さんと堀江さんに、わたし自身について次のような質問をいたします。どうか霊界通信の答えを教えて下さい。(答えは、飯沼さんが要約して端的に示して下さい。)

?私の祖母について ?私の妻の職業について ?私の趣味について
?私のカコの出来事について ?私の最近の大きな出来事について
?私の病歴について ?私の身体的特徴について
?私が今一番困っていることについて

いずれの質問の答えも、かなり特徴的な内容になっています。中には霊的世界とかなり密接な関係のあるものもあります。言うまでもなく霊界の人々にとっては明白に知られていることばかりです。これまで飯沼さんたちが公表した、他の人々に対しての霊界通信と同じレベルで、十分回答できるものとなっています。もちろん霊界通信である以上、それに伴う必然的なあいまいさが生じることは十分に承知しています。これまで他の人々に対してメッセージを受け取ったのと同じように、私の質問に対する答えを受け取って下さればよいのです。
 これまでの経験から、この質問の半分にほぼ正確に答えていただいたら、その霊界通信は本物だと判断します。これまで試して来た中で、本当の霊媒者では、いずれもそれぐらいの回答率を示しています。

飯沼さん、私はあなたがスピリチュアリズムを標榜する以上、またシルバーバーチを引き合いに出す以上、スピリチュアリストとしての常識的なルールをクリヤーして欲しいのです。霊界通信をもって人々のために、あるいはスピリチュアリズムのために貢献しようとするなら、こうしたテストに堂々と臨み、見事にクリヤーしていただかなければなりません。これまでスピリチュアリズムが築き上げてきた伝統を、あなた方にも踏んでもらわなければなりません。私個人は、あなた方が誰もが認めるスピリチュアリストになって、人々のために貢献していただきたいと願っています。飯沼さん、あなたは悠々塾の他メンバーの永遠の生命に対して大きな責任を背負っています。しかし今のままでは、その重大な責任が果たせるとは思えません。死後、他のメンバーから非難され、大きな後悔をするような事態になりかねないとも思っています。
もしこうしたテストに合格しないようならば、スピリチュアリズムの認める霊界通信とは到底言えません。はっきりと言ってニセモノか、全くの潜在意識の産物ということになってしまいます。もし飯沼さんが今このテストに合格されたら、皆さんの前に晴れて正真正銘の霊界通信であることを証明することになります。飯沼さん、私はあなたの返事を心から待っています。もしわたし自身が納得いく答えが得られたなら、その時私は悠々塾の霊界通信は本物だ、スピリチュアリズム的だと声を大にして言うことができます。

ペーパーバーチさんと有希さんへのお願いがあります。私はお二人の掲示板が、真にスピリチュアリズムに立脚したものであることを認めていますし、これまでの努力に感謝しています。そうした純粋なスピリチュアリズムの掲示板に、未だスピリチュアリズム的なチェックを受けていない通信(これまでの悠々塾の霊界通信のようなもの)を載せることはやめていただきたいということです。スピリチュアリズム的に認められない霊界通信は、ボード管理者の権限で排除することは当然だと思います。私がここで述べたような簡単なテストをお二人が直接なさり、二人が本物(信用できる)と認めたものだけを載せるようにしてもらいたいと思います。真偽の確かでない霊界通信を自由に載せることは、スピリチュアリズムの権威をおとしめることになります。そうした明確な一線がないと、スピリチュアリズムを新興宗教と何ら変わらないレベルで扱うことになってしまいます。スピリチュアリズムの掲示板としての権威が失われてしまうように思うのです。いかがなものでしょうか?

飯沼さんは、通行人さんの「盗作」ではないかとの指摘に対して、この霊界通信によって多くの人達が救われている現実があるとの内容を述べて(8月27日)、反論しています。「私どもの通信をあなたがどう評されようと一向にかまいません」と言っています。しかし飯沼さん、あなたの論法を進めれば、最終的にはスピリチュアリズムそれ自体を否定してしまうことになるのです。キリスト教でも、自分はこれによって救われた、心に平安がもたらされるようになった、病気が癒されるようになったという多くの人々がいます。飯沼さんと同じような主張をする多くのクリスチャンがいます。ではそのことで全ての救いの問題が解決されているのでしょうか? ちょうどそれと同じような質問がシルバーバーチになされています。キリスト教で救われたと思っている人がいるのだから、それでいいのではないかという意味の質問をシルバーバーチにしています。それに対して、シルバーバーチはその考えに毅然と異議を唱えています。これ以上長くなってはいけませんので、飯沼さんあなた自身が、その答えをシルバーバーチの中から探して下さい。あなたが言っていることは、自己満足をもって自己正当化していることに過ぎません。スピリチュアリズムが本当に分かったら、およそ口にすることのできない言葉を言っているのです。これと同じような意見を述べている方が他にも見えますが、全てスピリチュアリズムを正しく理解していないところからの安易な発想です。

飯沼さんには率直に申し上げたいことがまだまだあります。それについてはあなたの答えを待ってからにしたいと思います。飯沼さんに一言先に申し上げておきますが、私へのメッセージが降りたなどと言って、ボードに書き込むような事はしないでください。あなたが私の質問に答えてくれて、なるほど飯沼さんの霊界通信は本物だと納得いった時には、どうぞ自由に掲載してください。とりあえず今回は、飯沼さん、あなた自身の言葉による返事を待っています。もちろん答えは、このペーパーバーチさんの掲示板でお願いします。ペーパーバーチさん、長々と失礼しました。急いで書きましたので、誤字脱字など見苦しい点があったらお許し下さい。

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1010 悠々塾さんへ2
名前: 通行人  投稿日: 2001年09月04日 (火) 21時24分41秒

2001年08月29日 (水) にあなたはこう発言されました。
>「ある人へのメッセージ」をそちらに投稿したのは、言葉の遣い方や御説が以前先生から直接伺ったものとあまりに似ていたために、「通行人さん」がどなたであれ、その時期がきたと判断したのです。

 と述べて、「通行人」(わたし)に対してのメッセージとして、あなたは慌てて「霊界通信」をされることとなります。

以下悠々塾の掲示板より引用
[01/08/28(火)-23:06]
> 霊団からの導きに全て委ねて、ここから受信致します。

○あなたにはすでに分かっているはずだ。何が“問題”なのか。あなたが、与えられた働きにまい進し、ひたすらそれに打ち込んできたことはあなた以上に、あなたを導く者たちはよく分かっている。あなたの働きを最も評価し、喜んでくれているのは、ほかならぬ霊界側である…

 わたしは笑いが止まりませんでした。なぜなら、飯沼様、わたしはこの「あなた」などではありませんから…。

 というより、ニアミスですらありません。わたしはあなたの背後霊とやらがわたしに対してしゃべってくれるこうした事柄に、身にこれっぽっちの覚えもありませんもの。なぜならわたしは(いたたまれなくなって)あの時、初めて、この掲示板に投稿した者だからです。

 あなたの背後霊の目は、節穴ですか?それともその時、あなたの背後霊はお風邪でも召されて、体調でも悪かったのでしょうか?

 私自身は、ははぁ、口ではどうあれ、腹の中ではこんな風にk氏のことを思っているのかなぁ、と思って読みましたけどね・・・。

 飯沼さん、あなたの「霊界通信」とはいったいなんですか?
 まさか自分を都合よく「肯定化」し、自らの発言を「権威」づけるための都合よい道具にしているのではありませんね?!

 飯沼さんも、もちろんご承知のはずです。良いことを行えば、良い報いを受けるように、知っていて悪いことを行えば、必ず悪い実をも刈り取るということを。これは主に誰か人間や霊がそうするというのではありません。因果摂理が裁くのです。誰もその人の因果を軽くしたり、重くしたりなどできはしません。ただその人のまいた種をその人が刈り取るのです。ですから、あなたがもし確信的に悪を行い続けているとすれば、ゆくゆくは大きな罰を受けるだけのことです。決して「暗黒界」があなたを唆したからではないのです。あなたがまいたら、あなたが自己責任でもって、刈り取るのです。その法則、それに伴う結果を知っていて、何かされるのであればそれも致し方ないでしょう。ただわたしのような小心者には神の摂理に悠然と逆らうなど、そんな真似はできませんが。

 そして飯沼さん、ペーパーバーチさんの言い方もあったかもしれませんが、でも私も同様に思うこと、懸案があるのです。それを分かっていただきたい。わたしも偽善者をそれこそたくさん見てきたんです。その中には上の人にこびへつらって、贈り物をしたり、パーティーをしたり、時には送迎係りを申し出たりして、すり寄ったりする人、そのように近づいておいて、その人の弱みを握り、しかるべき時に、それとなくそれをちらつかせて、操縦する、そうした下劣な根性の人を社会で、そして宗教界で見てきたのです。それと同じ「きな臭さ」をペーパーバーチさん同様、わたしも何か直感的に感じてしまうんですよ。いやあなたがそうだというわけではありませんが、そう感じさせるようなところもあったということを知っていただきたいのです。

 また飯沼さん、あなたもご存知のように、優れたスピリットというのに共通していることの一つの特徴は、非常に「謙虚」であるということです(だから内奥の自信がないということではありません)。バーチは霊媒が返す賛美を受けるのをいつも拒絶し、栄光をただ神のみに帰していたのではありませんでしたか?ナザレ人イエスも「なぜわたしのことを良いと呼ぶのですか、良いのはただ神お一人なのです」と言ったのではありませんか?
 高級霊たちがそうであるなら、ただの人間に過ぎないわれわれは、なおさら謙遜でいかなければいけません。われわれは、驕り、高ぶり、傲慢といったものと日々戦っていかなければならないのです。

 近藤氏とて同じことです。あなた方が「先生」、「先生」とまるで無知なキリスト教徒が牧師や教父にするかのように、あがめたてまつったとして、それで本当に近藤氏が喜ぶのでしょうか?

 あなたの発言を見て2,3思ったことをもう少し言わせてもらいます。

 2001年08月30日 (木)
>一度も自分たちを「高級霊」や「高級霊団」などと名乗ってはいません。

 高級霊でないなら、一体何であなたに霊界通信などを降ろすでしょうか。霊界では幽界の霊ですら、うかつに地上に帰ってきておしゃべりしたりするようなことは罪深いことなのです。それを破っておしゃべりしたり、からかったりするのは、低級霊や、邪霊、或いは死んでからも自分が死んでいることが自覚できないような、ウロウロした地縛霊くらいなものです。分別をわきまえた霊はうかつに人にしゃべったり、話し掛けたりはしないものです。ましてや個人的でどうでもいいことをしゃべったり、未来の予知をしてみたりしないのもそうです。
 そしてバーチは霊言の中で、はっきりと「我々の霊団(イエスを筆頭とした地球浄化の特命を受けた)の許可がないものと、勝手に霊界通信などするようなことがあってはならない」とも警告しているではありませんか。

 >加えて、たとえ、いわゆる低級霊や邪霊とは、「まだ学びの進んでいない未熟な者ではあるが、全体から見ればそこでは彼らなりの貢献をしている」とも伝えています。(ここでは詳細は省きます)

 ここも先日言った事を繰り返さなければならないのでしょうか。それはあくまで究極での話であって、実際上はそれによって悪を正当化はできません。あなたはよくよく究極的な話を持ち出して、善の務めを怠ってもいいかのようなニュアンスでお話されますね。
 
 わかりますか。たとえば「失敗は成功の元である」という言葉があります。ではその(いわば究極的な)言葉をもってして、自分が失敗してもいい、と開き直って失敗ばかりしている人を、あなたはどう思いますか?
 病気や苦しみにだって意味があります。だからといってあなたは歯がキリキリ痛むのに(この状況に、そうした言葉をそのまま適用して)、歯医者にも行かず、それを放置などしてはおかないでしょう。
 或いは害虫が出るのはもともと人間の地球の管理の仕方が悪いのだ、という霊言があります。だからといって(そうした言葉をそのまんまこうした状況に適用して)あなたは夏の夜、蚊がブンブン言って寝れないような時でも、蚊取り線香やベープマットを一切使わないようなことはないでしょう?


 高橋さんにひとこと(投稿日: 2001年09月03日 (月) 21時59分16秒)

 ある記事に真理が見え隠れするかたというだけで、その記事を書いている人や団体がストレートに正しい、という単純な論法は成り立ちませんよ。どの新興宗教も真理と偽りを混ぜ物にしています。真理を餌にして、誠実な人を寄せておいて肝腎なところで自分たちのための奴隷とします。統一教会にしろ、幸福の科学にしろ、真理をある程度混ぜているでしょう。彼らも馬鹿ではありませんよ。彼らは彼らなりに真理の強力さを知っての上なのです。モルモン教にしろ、エホバの証人にしろ、聖書、イエスの言葉を混ぜているでしょう。そうでなければここまで信者は伸びるものではありません。末端の人はいつもいい人ばかりなのです。悪いのは情報を操作して信者を操る、一部の悪巧みを持つ上層部なのです。繰り返しますが、問題は真理が含まれているかどうかといった単純なことではありません。

 あえて言うならば、その話の最後がどうか、顛末はどこへ向かっているかということです。真理はこれこれこうですから・・・金もってこい、とか信者増やせとか、俺様は偉大だ、俺様にひざまづけ、ということになるからおかしいのです。

 最後になりますが、悠々塾の皆さんにお願いしたい。飯沼さんも悪気はなかったんだと思います。ただ悠々塾という会をなんとか盛り上げようと、その一心で、道化師(ピエロ)であり続けるしかなかった、そんな彼をどうか見捨てたり、責めたりはしないで下さい。そうではなくて、むしろ平穏を保ち、時にはだまされたふりをしてあげてもいい、そうしてしばらくしてから、霊言なんてつまらない、という風に言って、会がスピリチュアルヒーリングであるとか、毎回テーマを決めて研究会とか、もっと健全な方向に行くように上手く持っていく等もできると思います。それでこそ、友情、それでこそ、スピリチュアリストたる愛。
 
 今日、わたしも真の霊言を愛するものとして、ひとこと言う衝動に駆られました。そしてTMHさん、Mr.しろさん、有希さん他スピリチュアリズムを愛する方々による、タイムリーで的確な投稿の数々に感謝します。今後とも友好的で建設的な対話、そして悠々塾さんの(よい意味での)発展を希望してやみません。

 それでは失礼します。

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1009 花粉症について
名前: TMH  投稿日: 2001年09月04日 (火) 19時13分53秒

ここ数日のペーパーバーチさんと悠々塾の方々とのやり取りを拝見しておりました。そして悠々塾のHPもじっくりと読ませて頂きました。

お互いの意見の相違は致し方ないと傍観を決め込んでおりましたが、昨日のようなご意見が出てくるに及び、恐らく僕にしか気づかないであろうマターを、第三者への判断材料として提供すべきであるという義務感に駆られましたので、ご指摘させていただきます。
それは専門家(耳鼻咽喉科学会専門医、元国立大学文部教官、鼻アレルギー講義担当助手)として見た場合、悠々塾のホームページの中に現代の医学の常識と照らして数々の疑問な点があるということです。具体的には、「9.最近話題の事件、出来事を霊的視点からみれば」の中の「花粉症」についてです。

まず「スギ花粉症」が戦後日本人の心の動きが原因で発症したとおっしゃっていますが、この論法には無理があるばかりでなく、患者の人権を揺るがす問題を含んでいます。(この点については後述します。)もしそうだとしたら「スギ花粉症」が北海道や沖縄には見られないのはどういうことでしょうか。北海道や沖縄の人々の心の問題は、本土の日本人とは違うのでしょうか。それとも北海道や沖縄は日本ではないとお考えなのでしょうか。
ちなみに北海道は函館を除いて、「シラカンバ(シラカバ)花粉症」が一番多いのですが、「シラカンバ」の担当するエネルギーの役割があるなら教えて頂きたい。

「スギ」花粉と「ヒノキ」花粉は形がよく似ていて、交差抗原性が強く(約6〜7割が重複)、最近は「スギ・ヒノキ花粉症」として分類されることが多くなっており、しかもヒノキ単独の花粉症はごく少ないといわれています。ですからスギの植物としてのエネルギーと、ヒノキのエネルギーの役割がおっしゃるようにかけ離れているのは疑問です。単純に考えても過度の「保ちたい」ということへの違和感は戦後の日本人の心の動きとは関係ないでしょう。例えば江戸時代(元禄など特に)の人でも同様の問題があったと思うのですが、それならばなぜ江戸時代には「ヒノキ花粉症」があまりなかったのでしょうか。

花粉症は主に風媒花を吸入抗原とする気道アレルギーで、虫媒花花粉症は特殊な場合(農作業で大量に吸引するような場合)に限られています。花粉の多さに比べ花粉症患者があまり発症しなかったセイタカアワダチソウがよい例です。虫媒花のエネルギーに対する違和感(アレルギー)はどうなっているのでしょうか。

吸入抗原による気道アレルギーはもともと花粉症ばかりではなく、半数以上がダニやホコリ(いわゆるハウスダスト)を抗原として発症いたします。このハウスダストに対するアレルギーももちろん急増しており、その発症機序は花粉症とまったく同じなのですが、その霊的意義は何でしょうか。ダニやホコリも何かのエネルギーを担当しているのでしょうか。

アレルギー性鼻炎、花粉症などの気道アレルギーには、抗原による明らかな男女差があります。ちなみに男性は若年者のハウスダストアレルギーが多く、女性は中年の花粉症が多い(厳密には二峰性)というのは疫学的常識ですが、男女で心の問題が違うのでしょうか。

もともと乳幼児のアレルギー疾患は、ハウスダストを抗原としたアトピー性皮膚炎、気管支喘息が多かったのですが、最近幼児でも花粉症が増えています。これらの2〜3才の幼児も、植物のエネルギーに対する違和感を心の中で感じているのでしょうか。

最後の方の「花粉症が日本に多く、化学物質(科学物質ではありませんよね。念のため。)が外国に多い」というのは明らかに事実誤認です。世界三大花粉のうち、「スギ」などの樹木花粉は日本に多く、「イネ科」の牧草類(カモガヤなど)は主にヨーロッパ、「ブタクサ」などの雑草類は北米大陸に多いといわれています。アメリカ人の10〜15%が雑草の花粉にアレルギー反応を示すといわれており、日本の「スギ花粉症」に匹敵します。ですからこの文は「樹木花粉症は日本に多く、その他の草木花粉症は外国に多い」ならば納得できます。
ところで「化学物質」に対するアレルギーとは何を指しているのでしょうか。「シックハウス症候群」に代表されるホルムアルデヒドなどの環境中の化学物質に対するアレルギーを指しているのなら、日本人の発症数も決して少ないほうではないと思います。

さて一番根本的な問題ですが、ここでは花粉症の発症原因が心の問題のみで語られていることです。過去数千人規模で花粉症を含むアレルギー性鼻炎の患者を診察・加療してまいりましたが、その発症原因を心の問題のみで片付けるわけにはいかないというのが、花粉症の患者がどれほどその苦しさから逃れるために悩まれ、努力されているかを目の当たりにしてきたphysicianとしての率直な印象です。

僕個人の意見を述べさせていただきますと、特に日本における樹木花粉症の激増は、「環境の清潔化」と「都市化」が最大の要因だと思います。もともと環境が不潔であった近代までは、体の免疫機構は細菌や寄生虫と戦うことに忙しかったのですが、環境の清潔化や抗生物質の発達によって免疫にとってのいわゆる「外敵」が消滅した後、行き場のなくなったその矛先が健康人にとっては何の害にもならない「抗原」を強く認識し始めたのだと思います。これは想像ではなく、実際白血球の一種の「好酸球」は寄生虫を攻撃する特性があるのですが、これがアレルギーを起こした気道粘膜には多数浸潤しています。寄生虫の多い東南アジアでアレルギーが少ないのは、そのせいだといわれています。戦前の日本でも細菌感染の「蓄膿症(慢性副鼻腔炎)」が圧倒的に多く、鼻アレルギーをマスクしていたのだと考えられています。
また「都市化」との関係についてですが、最近の研究ではスギ花粉は単独で働くときよりも、ディーゼル粒子などと結合したときの方がより抗原性が強いと言われています(これをアジュバント効果という)。従って杉が鬱蒼と茂った山中よりも、むしろ都市近郊で花粉も多く排気ガスもある程度あるような地域の方が、花粉症患者は多いのです。また都市のコンクリートで固められた街路などに飛散した花粉は一度地面に落ちても吸収されることなくまた大気中にフィードバックして、抗原の密度を高めるようです。
これら「清潔化」や「都市化」に加えて、添加物に依存した食生活やいわゆる「環境ホルモン」などの環境中の諸因子などが人体の、遺伝子レベルからの体質に影響を与えているのではないかと考えられます。これらの要因が重なり合って常染色体優性遺伝と言われながら今まで発症していなかった「気道アレルギー」が、現代になってベールを剥がしつつあるのだと思います。

ところで「花粉症」に代表される気道のアレルギー性炎症が現代に激増している「霊的要因」が何かあることには、僕もスピリチュアリズムを学んでいるものの端くれとして異論はありません。それはいったい何でしょうか。真実はシルバーバーチレベルの高等な通信を待たなければならないようですが、少なくとも抗原花粉一つ一つのエネルギーの役割といったショぼい話ではなく、しいて言えば「清潔化」や「都市化」を強引に推し進め、それを礼賛する世相に対する種としての「霊的なアレルギー反応」とでも考えた方がまだしも納得がいきます。

項を終えるにあたって、悠々塾の皆様にとっては辛い指摘となったかもしれませんが、貴塾にはきっと指摘を受け止める力があると信じておりますので、悪しからずご了承下さい。

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1006 或る野次馬の感想
名前: 高橋  投稿日: 2001年09月03日 (月) 21時59分16秒

初めて投稿させていただきます。

ここ最近、悠々塾さんを巡って行われている一連の投稿を拝見しながら、感じたことを少し書きます。最初に断っておきますが、私は悠々塾の関係者ではなく、皆さんが「スピリチュアリズム」と呼んでいるものとの直接の関わりもありません。ただ、この掲示板のやりとりを以下のような目で眺めている人間もいるのだということをお知らせする意味で書きたいと思います。

まず、「スピリチュアリズム」云々を抜きにして、悠々塾さんの一連のコメントと、彼らを批判する人々のコメントを素直に読み比べたとき、どちらがより人間としての「誠実さ」と「愛」に溢れているかは誰の目にも明らかなように感じます。

話題の中心であるK氏に関して正確に何があったのか、私には知る由もありませんが、その出来事がどういうものであれ、真相を知っているのはシルバーバーチさんではなく、当事者である悠々塾の方であると思います。シルバーバーチさんが悠々塾の発言に対して「根拠のない中傷」など言う資格があるとは思えません。あなたの悠々塾に対する数々の罵詈雑言は、あなたの人間としての品位を貶めるものでしかありません。

次に、悠々塾の霊言(メッセージ)の背後にある霊団のレベルや動機云々についての詮索については、ナンセンスで愚かしいものだと感じます。<メッセージの源のレベルはメッセージそのものの質によって判断されるべき>であり、真の高級霊団ならば「自分はこれこれのレベルの存在である」などとは(どうしても必要なとき以外は)決して言わないでしょうし、メッセージの伝え手(悠々塾)も、たとえ知っていたとしてもそのようなことは言わないのが良識的な態度というものでしょう。受け取る側は、自己の良心の声と照らし合わせて、メッセージの真偽を個人の心の内で判断すべきです。それを、「あなた方のレベルを測ってやるから公開質問に答えろ」などというのは傲慢以外の何ものでもありません。

付け加えると、私が個人的に悠々塾のHPや掲示板でのメッセージ等読んで(おこがましくも)判断する限りでは、悠々塾を通して与えられている一連のメッセージは、非常に純粋で「高度な」ものだと思います。それは悠々塾の方々の動機の純粋さと掲示板上での慈悲深い態度によっても示されています。

敢えて言わせていただければ、悠々塾からのメッセージを読み込んだ上で、それが「本物」であると認識できないのは、その人の理解力の欠如か、自己の真実の姿から目を背けようとする姿勢のいずれか(あるいはその両方)を示しているのではないかと思います。

啓示が新しい形を取って訪れたとき、古い形にしがみつく者たちは誰よりもそれを必死になって否定します。過去のあらゆる宗教にも同じことが起こりました。今キリストが再臨したとしたら、それを最も頑なに否定し、彼を「反キリスト」呼ばわりするのはキリスト教の伝統固執主義者たちでしょう。

私は、悠々塾は日本の良質な「スピリチュアリズム」の流れを現在進行形で受け継いでいるグループだと思っています。

以上、出過ぎたことを書かせていただきましたが、今後、「スピリチュアリスト」と自称する一部の人々による思慮のない言動が、この運動の担っている崇高な大義を損ねることにならないよう願っています。

http://homepage1.nifty.com/pdo/

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1005 少しだけ時間があきましたので・・・
名前: 宮崎 護  投稿日: 2001年09月03日 (月) 08時48分31秒

Mr.しろさんへ
 霊界通信を検証するというあなたの姿勢は正しいものです。しかし、あなたの投稿を拝見していて次のようなイメージが浮かんできてしまいました。
茶わんを急須よりも上に持ち上げておいて、お茶をつごうとする不自然さです。・・・・・・・
 疑問を持つこと、理性に照らし合わせることは絶対に必要です。しかしそれと同時に必要なことがあります。それは真実を知りたいという切実な願い(それは謙虚さにも通じます)を持つことです。

有希さんへ
 「はじめに結論ありき」・・・・・これがあなたの心から柔軟性をなくしてしまっているのです。お気づきですか?

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