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発言番号0001-0050のログです。

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0050 これからが楽しみ
名前: 有希  投稿日: 2001年08月15日 (水) 03時02分08秒

りゅうじんさん、やっとお出ましですね (^・^)
お待ちしていました。
ここでもりゅうじんさんのいろいろな発言、楽しみにしています。

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0049 心霊科学教会は・・・
名前: 有希  投稿日: 2001年08月15日 (水) 02時59分33秒

ご挨拶が遅れました
> はじめまして、最近、龍人さんのところに出ています。

りゅうじんさんのところの掲示板はいつも目を通していますから、川崎さんの投稿も読ませていただきました (^・^)

> 現象に興味をもつのは良いですが、私達の目的は、心霊現象ではないわけで。

そうなんですか。
実は、一度だけ「心霊科学教会」の集まりに参加させていただいたことがあります。
そこでの内容は霊的真理より心霊現象、という感じでした。
川崎さんのいらっしゃるところは別なんでしょうか。
それとも、私がたまたま行った所がそうだったんでしょうか。

最初からぶしつけな質問でごめんなさい m(__)m
今後ともよろしくお願いします。

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0046 お久しぶりです。
名前: りゅうじん  投稿日: 2001年08月14日 (火) 18時13分59秒

こちらでははじめまして。りゅうじんです。盛り上がってますね。

有希さん〜
>これを読まれているほとんどの人はペーパーバーチさんと同じ意見だと思います。

うん。みんなのことは知りませんが、僕はよく分析されたなと思いました。
まあ、ペーパーバーチさんや僕は、日頃、ありがた迷惑を実感することが多いのかもしれませんね(笑)。人里離れてみたい気持ちもわかります。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/

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0045 「シルバーバーチの霊訓 (四)」
名前: アラム  投稿日: 2001年08月14日 (火) 18時06分45秒

P25の「物理的法則だけでなく、霊的法則も存在することを証明してあげること」が誤訳で「霊的法則が存在することを示すことだけではなく、霊的真理そのものを示すこと」に心の道場さんが訂正したということですが、同じ箇所と思われるものが潮文社の『シルバーバーチの霊訓 (四)』のP97に「物理的法則を超えた別の次元の法則の存在を証明するだけでなく、霊についての真理を啓示するということです」という訳で出ていました。

P43の「発達にも二種類あることを知らないといけません。精神に係わるものと霊に係わるものです。前者は心霊能力の発達にすぎませんが、後者は魂の成長そのものです」という箇所も『シルバーバーチの霊訓 (四)』のP99では「発達にも二つの種類があることを知ってください。霊そのものの発達と、霊が使用する媒体の発達です。前者は魂そのものの進化であり、後者は単なる心霊的能力の開発にすぎません」という訳で出ていました。
ペーパーバーチさんが「要するにここに書いてあることは、霊能者だからといって立派な人間とは限らないよ、ということなんだと思いますけど」と述べていますが、近藤千雄さんはP100で「ここでは、それがすなわち人格の向上を意味するものではないことを指摘し、超能力者だからといってすぐに崇めたがる風潮を戒めている」と述べているのですね。

少し翻訳の仕方が違いますが、同じ霊言を訳したものでしょうか?

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0044 精神の発達 と 霊の発達
名前: アラム  投稿日: 2001年08月13日 (月) 21時55分31秒

まず 有希さんの「これって再生の原理をしっかり理解できていないと区別できないんだろーな」という意味がわかりません。

ペーパーバーチさんの「霊能者だからといって立派な人間とは限らないよ」というのもここでの意味としては合わないように思います。

やはり、「精神に係わる発達と霊に係わる発達とがある」という事だと思います。

有希さんは「単に霊能力だと」と述べていますが、精神に係わるのが「心霊能力」、一般には「超能力」と言われているものだと思います。それに対して霊に係わるのが「霊能力」だと思います。

有希さんは「霊に係わる事というのは一人になって素直に理性を中心としている感覚というか」と述べていますが、これも精神に係わることだと思います。

スポーツや本を読んで思索するといったことも精神の発達のための手段でしょう。「小乗」と「大乗」の話がありましたが、「小乗」の修行は主として精神の発達に係わっていますし、「大乗」の修行は主として霊の発達に係わっています。

精神の発達は霊的媒体と肉体とに係わってきます。肉体の中に眠っている力や物的エネルギーを解放していくことでもあります。
仙人や行者の修行なども精神の発達のための修行ですし、それとともに心霊能力が開発されていきます。
山奥で静かに一人で暮らすという話がありましたが、それで発達させることができるのは精神の方で、霊の向上は全くありません。
精神の発達によって強くなるのは信じる力や自分の望むものを引き寄せる力など、思いの力、念力などです。物事に一筋に打ち込む意思の力や他人の言動に心を揺さぶられない力なども精神の発達によることでしょう。

それに問題なのは、「心霊的能力と霊性の発達は関係ありません」と言われますが、精神に係わる力は悪用も可能だということです。
思いを集中する力は悪念の集中も可能にします。肉体を病気にしたり、不幸な出来事を呼び寄せたりといったこともできます。地獄と呼ばれる下層界では他人に対して害を与えたり、束縛したり、支配したりする力が強い方が勝ちだと思われているようですが、これも精神の力です。

霊の発達は、無私の思いで利他の行為を行うこと、霊的真理を実践することで達成されていきます。それによって徳性ものばされていきます。

心霊的能力は精神の発達によって開発されますが、そこに他者への思いは関係しません。自分を中心にして開発していく自分の力です。
それに対して霊能力は霊力に接触し、それを流す能力ですから、どれだけ自分を無私の状態にできるか、どれだけ高級な力を受け入れられる状態になれるか、どれだけ他の人のために役立ちたいと思えるかということが関係してきます。その力の源泉が自分にではなく、霊に、その本源としての大霊にあるからです。ですから、本人の人格の成長とも係わってきます。

精神の発達と霊の発達に関してはコナン・ドイルの霊界通信も参考になるかもしれません。霊界の界層が精神を中心としたものから霊を中心したものへと発達していくようになっていることを述べています。P429に関連したイラストがのっていますが、近藤千雄さんの訳の「霊界」の上に「Mental」と書いてあります。これは「精神」という意味でしょうから精神がこの界層まで係わりを有していることになります。

以上は私の意見ですが、間違っているかもしれません。

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0043 割り込みます
名前: かわさき  投稿日: 2001年08月09日 (木) 11時39分55秒

はじめまして、最近、龍人さんのところに出ています。この間別の掲示板に書かせてもらいましたが、ホストが表示されるので削除しました。私はストーカーがいるので、ホストを検索されるとまずいので。

心霊は、霊界でもイギリスがリードしているのは確かです。もちろん各国独自の研究がありますが。私は日本心霊科学協会の会員ですが、韓国も盛んで、人智学系の人達が頑張ってますね。私の背後霊にケルト系のイギリス人やイギリス国籍をもつドイツ人がいます。ケルト系の霊ががんばっています。古代史は詳しくないのでわからないですけど、キリストの経綸の一貫でしょう。

現象に興味をもつのは良いですが、私達の目的は、心霊現象ではないわけで。
シュタイナーはそれを批判して、心霊科学者は唯物論者だといいました。
やはり、高次と統一し、人として如何に生きるべきかがとわれるべきで、
心霊科学という言葉には誤謬がありますね。そのところを理解していない学者さん達は物質科学的に心霊を分析します。サイ科学や超心理学の方向にいってしまう。

「霊訓」がこの世に出るには、何百年もまえから霊界が準備します。
高級霊が地上の霊媒に降りるには細心の注意が必要です。できるだけ無駄な波動はブロックしたい。霊能者と指導霊の二者の問題ではなく、「霊訓」を受け取る社会全体にかかわるものなのです。つまり、高級な「霊訓」を得るには
霊能者本人のレベルもありますが、それ以上に、現界の社会情勢や幽界の浄化の状態が問題になります。なぜなら、「霊訓」は人類全体に降されるものだからです。その意味でもイギリスが「霊訓」し易かったのでしょう。

ところで、こちらには浅野和三郎のコンテンツがありますが、私の所には浅野正添の「宇宙創造概観」があります。これも何かのご縁かも、またきますね。

http://spiritual_sciense.tripod.co.jp/

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0042 アメリカの初期スピリチュアリズムと高級霊訓
名前: アラム  投稿日: 2001年08月06日 (月) 22時57分32秒

ペーパーバーチさんは
>アメリカはどちらかというと物理的な現象に興味がいっているのが多くて、イギリスの方が内面的というか、精神的な方に興味が向いていたということがあったんじゃないでしょうか。

と述べられていますが、アメリカの初期スピリチュアリズムはその前にA.J.デービスの調和哲学があったこともあって、心霊現象よりも死後の世界の実在の証拠と心霊哲学を中心としていたようです。
重要そうな霊界通信もかなりあるようですし、哲学的な心霊書も多く出版されていたようです。

それに比べるとイギリスの初期スピリチュアリズムは物理現象を中心とした科学的研究を主としていたように思われます。

長田さんは
>何でイギリスを選んだのですか
と質問されていますが、霊界の計画で、スピリチュアリズムの中心の舞台がイギリスになっていたからではないでしょうか。

アメリカの初期スピリチュアリズムの中心は心霊哲学者で、イギリスの初期スピリチュアリズムの中心は心霊科学者だったといえると思います。

アメリカでは、職業霊媒の輩出によって、現象に関心の中心が移ってしまって、イギリスでは、心霊現象研究から心霊思想に関心を持つ人が増えてくるという逆の動きが起こっています。

私が疑問に思うのは、「なぜ、「高級霊訓」といえるものがイギリスを中心にしているのか?」ということです。

アメリカの初期スピリチュアリズムにおいて多くの心霊哲学の元となる霊界通信が得られているのに、「高級霊訓」といえるものは全くないのでしょうか?

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0041 霊的真理を区別すること
名前: 有希  投稿日: 2001年07月24日 (火) 02時06分56秒

アラムやさんが書いてくださったことに対してですが、もしかしたら私は「必須の霊的真理と他のもの」の「他のもの」をアラムさんが言わんとしていることと別なものとして理解してしまったのかもしれません。

私が区別する必要を感じないと言った「別のもの」とは、「より高度な霊的真理」と理解したのですが、アラムさんの言わんとしていたのは「知っても知らなくてもどちらでもいい真理」ということだったのでしょうか。もしそうならそういうのがあれば便利だとは思いますが、シルバーバーチがいたるところで繰り返し述べていることは必須のものとして理解してもいいと思います。

> そうしたものについては、実践してみてその結果がどうなったのか ということと 経験から理解すること、
> テスター氏の「あなた自ら体験することによって認識していくほかはない(『現代人の処方箋』p40)」の
> 言葉の通りにして判断するのかもないのかもしれませんね。

ええ、そう思います。
この箇所をご存知ない方もいらっしゃるかと思いますので抜粋します。

   『摂理は数多く存在する。と言っても、それは聖なる書に書き記されているわけでもなく、石の平板に
    刻まれているわけでもない。あなた自ら体験することによって認識していくほかはない』

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0040 シルバーバーチがなぜ『動機が全て』と繰り返し説いているのか
名前: 有希  投稿日: 2001年07月24日 (火) 02時04分11秒

ペーパーバーチさん、先日は暑い中をお疲れ様でした。
といっても、暑さにも他のことにもメゲているようすは全然ありませんでしたけど (^・^)

私は基本的に人は個性も生活環境も体験も成長度も霊性も全てが違うため、人と人との意見が全く一致することはないと思っているので、ペーパーバーチさんの考えと違うところを正そうとは思いませんが、でも、ちょっとだけ述べさせてもらいます。

これを読まれているほとんどの人はペーパーバーチさんと同じ意見だと思います。
私も以前は全く同じではないにしろ、ペーパーバーチさんと同じように細かく突き詰めて考えていた時がありました。
そして、結果の善し悪しを吟味し始めたら、どんどん深みにはまって何が何だかわからなくなっていきました。
今思えばその時は理屈を考えてばかりいて、体験が追いついていなかったようです。
シルバーバーチの中に「動機が全てなのです」と随所に出てきていても、そうは言ってもねえ・・・とずっと悶々としていたんです。
でも、期が熟して悶々がピークに達した時、本当に教えてもらえるものだと思いました。
その時、私なりに出た結論がシルバーバーチの言葉と一致したわけです。

そこでもう一度シルバーバーチを読み返しました。
その時目に入ってきた言葉は

『地上での良いことと霊界での良いことは逆の場合が多いのです』
『悪いと知ってした場合と、知らずにした場合とでは罪の重さは違います』

だったんです。
確かに地上で悪いとされていることの中には善いこともたくさんあるし、逆もまたたくさんありますよね。
そこで、なぜシルバーバーチが繰り返し繰り返し動機の重要性を説いているのか、なぜシルバーバーチは結果を重視しないのか、それを改めて考えてみた時、とてもすんなり納得できたわけです。
そして、『霊的視点』を持つことの大切さも同時に学んだように思います。

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0039 レッドマンのこと
名前: アラム  投稿日: 2001年07月22日 (日) 22時29分52秒

シルバーバーチがインディアンを媒介霊として、自らもインディアンとして語ったことについて、ペーパーバーチさんは「人種差別へのアンチテーゼという要素」、「人種の特色として霊媒としての能力に長けていた」ということ、有希さんは「自然の中にマッチしていきている」、「大自然をそのまま受け入れて生きている、というところで霊的真理と一致する面が結構あったのかしら」と述べておられますし、友人の方は「インディアンの真理とシルバーバーチの語った霊的真理とは全く同じものと断言できます」と述べられていました。

私もシルバーバーチの説いている霊的真理とレッドマンの真理とは全く同じものだと思います。
私は『レッドマンのこころ』を読んで、そう思いました。

レッドマンにも多くの種族があり、全ての種族の信仰する真理が一致するとは思えませんし、確かに野蛮な面もあるとは思います。
しかし、純度の高い真理の部分はスピリチュアリズムの真理と全く同じだと思います。

特に「大霊」についての概念はとても優れています。
「ある行為に出る時、そうすることが大霊を崇拝することになるのだという信仰のもとに行うのであれば、それがすなわち大霊を崇拝していることになるのであり、他人の権利を侵害することにならないかぎり、その行為は敬意をもって認めてやらねばならない(p21)」、「大霊がこの地球をお造りになった時、レッドマンにはレッドマンの方法を、ホワイトマンにはホワイトマンの方法をお授けなりました。それぞれに人種が違い、生活が異なるからです。われわれはこれまでどおりの信仰を維持すべきであり、あなた方はあなた方の信仰を維持すればよいのです。お互いがそれぞれの手段で神に向かえばよいのであり、ケンカをしてはなりません」「インディアンはあなた方に信仰を押し付けるようなことはしません。あなた方なりの信仰に敬意を表します。それがあなた方の神の理解の仕方であると考えるからです(p26)」
「あらゆるものが大霊の中に存在し、大霊を通して活動する。われわれの崇拝心と忠誠心は、その大霊に向けなければならない(p29)」「恵みは全て大霊より下される。ゆえに、敬虔なる気持ちで大霊を志向しなければならない」
「大霊の恩恵に浴するためには、祈りと犠牲と思いやりのある生活を重ねることが必要である(p30)」「大霊についての知識を得るためには、鍛錬と断食と寝ずの行を重ねることが必要である。その知識とともに導きが得られる(p30)」「神はただ一つ、“大霊”がおわすのみと心得よ(p31)」
「大霊を畏敬せよ。それと同時に、他人がそれをどういう形で敬おうと、それを尊重せよ。なんとなれば、すべての真理を手にした者は一人としていないのであり、自分が敬虔なる気持ちで敬っているものは他人からとやかく言われる筋はないのと同様に、他人が聖なるものとしているものには敬意を払わねばならない(p32)」「いついかなる時でもウソをつくことは恥ずべきことである。大霊はいついかなる時も偏在しているからである(p32)」
こうした「大霊」への信仰が生活と一致しているのがレッドマンです。白人さえ「この地球上で北米インディアンほど高潔な民族はありません。“大霊”と呼ぶ神の存在を認識し、死後の生命を信じております」「一度誓ったことは、自分の方が裏切られないかぎり、忠実に果たします(p64)」「持てる者は持たざる者に気持ちよく与えるし、何でも共有しようとする(p65)」「彼らは精神が高尚で自尊心も高い(p66)」「彼らが感情をあらわにすることはまずありません。つねに名誉心と魂の高尚さを保ち、自制心を失うことがありません(p66)」と評価しています。
レッドマンと戦った人たちも「貧しい者や困っている者、未亡人や孤児のことを優先的に考慮するのみならず、そのまずしさや困窮の状態をいくらかでも軽減してあげようとします(p69)」「不正を黙って見過ごすことができない」「あいつら(インディアン)はウソつきを軽蔑する。あれほど太っ腹な人種を私は知らない(p70)」「正しいのはいつも彼らインディアンであり、間違っているのはいつもわれわれアメリカ軍だった」「彼らが協約を破ったことは一度もありません。われわれが協約をきちんと履行したことも一度もなかったのです(p71)」「彼らが捕虜を焼き殺したとか、皮を剥いだとか、むごい責め苦を与えたという証拠はどこにも見当たらないのです(p77)」と述べています。

もしも、レッドマンの信仰への考え方がもっと広まっていたのなら、宗教間の戦争が少なくなっていたかもしれません。
レッドマンの信仰がキリスト教への信仰以上に広まっていたならば、アメリカがもっと素晴らしい国になっていたかもしれません。

キリスト教とレッドマンの宗教ではレッドマンの宗教の方が優れているように感じます。
「われわれにも、先祖からわれわれへ、そして子供たちへと引き継がれてきた信仰があります。その信仰において、われわれインディアンは全員が一致しております。いただいた恩恵に感謝するように、お互いが慈しみ合うように、みんなで手を取り合って生きるようにと教えております。信仰のことでわれわれがケンカをするようなことは決してありません(p135)」
「あなた方もわれわれも、ともに大霊によって造られました。が、あなた方ホワイトマンとわれわれレッドマンとは、大きな違いがあります。肌の色も違えば習慣も違います(p136)」「信仰においても、われわれの理解力に応じて、あなた方とは全く違ったものを与えてくださったと考えて、少しもおかしくないと思う(p136)」「大霊のなさることに間違いはないのです。それぞれに最善のものを与えてくださっているのです。われわれはこれで満足なのです(p136)」
レッドマンは白人に対して「友であり、兄弟である貴下」と呼びかけています。それに対して白人宣教師は「白人と同じ信仰を持たないと、死後に幸せはない」「白人の信仰が正しく、インディアンの信仰は間違っている」と述べ、さらに、「しょせん、神の宗教と悪魔の宗教との間には友好はあり得ない。よって貴様たちと手をつなぐつもりはない」と述べたといいます(p134、
p137)

こうした白人のレッドマンへの信仰への弾圧はついに「そもそもあなた方の神ゴッドと、われわれの神グレイト・スピリット(大霊)とは全く相容れないものだ。ゴッドは自分の民を愛しても異民族は嫌う」「われわれの崇める大霊はそのようなえこひいきはなさらない」「もしもゴッドが宇宙の神だというのであれば、それはよほど好き嫌いをなさる神に相違ない。ホワイトマンに都合のよいことばかりを教えて、われわれレッドマンのことは何も述べていらっしゃらない(p176)」と言わせるまでになってしまった。
「大霊を、まるで飢えた野獣のごとく想像してはいけません。人間にせよ動物にせよ、飢えをしのぐ犠牲を用意すれば許してくださるというものではありません。貢物を用意すれば罪を逃れられるかに説く、ウソつきの口車に乗ってはなりません(p112)」

レッドマンのキリスト教への認識とシルバーバーチの述べるキリスト教の問題点が一致していることに気付きます。

戦争についてですが、レッドマンの「皆さんに親切にしてあげたいのですが、その疑問があるので、あまり親切に救いの手を差しのべるわけにはいかないのです。あなた方がこの地に来たのは、交易のためではなく、私の人民を侵し、私の国を取ってしまうためだと、多くの人が言っているのを耳にしています」
「トーモロコシをあげようとしないのは、ご覧の通り、あなたの部下がみんな武装しているからです。怖いのです。武器を船に置いていらっしゃい。ここでは武器はいりません。われわれはみんな友人なのですから(p146,p147)」の言葉にこそ戦争をなくす鍵があるように思います。シルバーバーチの説く基本的真理を身につけ、社会を築いていたのがレッドマンであるように思われます。

「人間の魂は永遠に不滅である(p31)」、「いよいよ死期が訪れたら、これから次の生活の場へと進んでいくのだということを知っておくべきである」
「その死後の世界での境遇は地上での所業によって決まるという認識をもって、腹を決めることである。“死の歌”を高らかに口ずさみながら、勝利の凱旋をする英雄のごとくに死に赴くがよい(p31)」
「彼らは肉体はただの殻であると考え、せいぜい遺族の気持を慰める程度の供養しかしない。肉体を離れた霊は、次の世界へと進み、肉体より立派な新しい身体をまとうと信じているからである(p48)」
「“死”への恐怖 これが、あなたの心に住み込まないような生き方を心掛けなさい(p112)」、「あなた方の先祖は、墓の入り口を通り抜けると、それきりあなた方のことを忘れる。あなた方も彼らのことを忘れる。が、われわれの先祖霊は地上のことを決して忘れない(p177)」
「この地球上のどこにも孤独な場所、誰もいない場所は一つもない。いずこも先祖の霊でにぎわっているのだ。ホワイトマンも実は決して孤独ではない。人間として正しく、そして優しい心さえ忘れなければ、先輩の霊たちが力を貸してくれる(p177)」
「私は“死“という文字は一度も用いていない。“死”は存在しないからだ。ただ生活の場が変わるだけなのだ(p178)」

こうしたレッドマンの言葉からはスピリチュアリズムが伝えるのと全く同じ真理が感じられます。

レッドマンの宗教とスピリチュアリズムの違いは、有希さんの友達が述べられたように「霊界から見た、地上 及び 神 についての真理 であるのに対して、地上から見た、霊界 及び 大霊 についての真理であること」です。

「いつこの世にやってきて、去ったあといずこへ行くかは、誰にも分からない」、「その世界にどういうことが待ち受けているかは確かめることはできない(p31)」、「うるわしき谷、のどかなせせらぎ、壮大なる山々、木々にかこまれた湖 彼らはしばしばその美しさが忘れられず舞い戻ってきては、われわれのもとを訪ね、導きを与え、慰めてくれる(p177)」というようなレッドマンの言葉が彼らの宗教の限界を示しているように思われます。

全く同じ真理を地上と霊界の双方から説いたものがレッドマンの宗教とスピリチュアリズムであると思います。

なお、レッドマンは生前にキリスト教をそう評価していなかったように思われますが、交霊会に出てくるレッドマンは地上の要素がなくなったキリスト教への理解を深めて、それを加えて説いているように思われます。
そうして説くものは基本的にはシルバーバーチの説くものに似てくるようです。

大変 長くなりまして、どうもすみませんでした。

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0038 訂正します
名前: アラム  投稿日: 2001年07月22日 (日) 00時48分51秒

下の書き込み
>(『現代人の処方箋』p40)の言葉の通りにして判断するのかもないのかもしれませんね。

(『現代人の処方箋』p40)の言葉の通りにして判断するしかないのかもしれませんね
の誤りでした。

ここに訂正いたします。

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0037 必須の霊的真理について
名前: アラム  投稿日: 2001年07月22日 (日) 00時39分28秒

有希さんは必須の霊的真理と他のものと区別することについて
>でも、どうやって区別します?
>私は区別する必要性は感じないけどなあ
と述べられていますが、「スピリチュアリズム・ニューズレター 第7号」では、必須の霊的真理(基本的な霊的真理)について「魂の成長をなすために不可欠な知識、霊的真理の核心ともいうべき知識です。シルバーバーチが繰り返し繰り返し強調しているものが、それに当たります」と述べられていました。

また、「スピリチュアリズムの霊的真理を手にしたことの一つの意義は、「魂の成長」にとって必要不可欠な真理が何であるかを、明らかにし得るところにあります」と述べられていました。

例えば、『霊訓』であっても、読み取りの実験について書いてあるところなどは必須の霊的真理ではない部分だと思います。
インドの真理やエジプトの真理について書かれている部分も必須の霊的真理ではないと思います。必須の霊的真理について学んだ後で参考にするべき部分ではないでしょうか。

その点ではテスター氏の著作には多くの必須の霊的真理について述べられているように思います。

「シルバーバーチの霊訓」においても必須の霊的真理とそれ以外の真理とを分けてまとめたようなものがあった方がいいなあ と思うのです。

実践的な霊的真理の部分はかなり必須のものが多いのではないかなあと思っています。

そうしたものについては、実践してみてその結果がどうなったのか ということと 経験から理解すること、テスター氏の「あなた自ら体験することによって認識していくほかはない(『現代人の処方箋』p40)」の言葉の通りにして判断するのかもないのかもしれませんね。

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0036 RE:0017 愛することの“恐さ”
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2001年07月21日 (土) 14時47分49秒

有希さん、こんにちは。今更ですが、遅ればせながらお返事します(^^)。

ちょっと考えてみると、話のレベルが変わってきてるのをゴッチャにしてしまっているんじゃないかなと思えてきました。ちょっと整理してみます。
1)考えなしの言葉で嫌な思いをさせた(もしくは傷つけた)場合
  例1:障害者の子供を持つ親に対して「出来損ないの子が出来て大変だね。でも、いつか良いこともあるよ」……もちろん本人は励ましたつもり。(本当にこういうことを言う人はいるらしい(-_-;)
  例2:子供が出来ずに悩んでいる人に対して「子供はまだつくらないの?」
2)その人なりの最善を尽くしたつもりだったが、結果として傷つけた(相手の霊性を阻害した)場合

この二つは違うように見えますが、根本的な問題点は同じと考えます。つまり、相手に対する適切な行動をとれるだけの能力、または霊性が足りなかったということです。程度の問題はありますが、自分の行動の結果は必ず自分で埋め合わせなければならない……シルバーバーチの言う“償いの法則”が働きますから、何らかの形で償わねばならないハズです。
如何に本人が善意のつもりでも、未熟さ故の罪というのはあると思います。“咎め”られるかどうかは知りませんが、いつか自分自身で埋め合わせなければならない……というのが僕の考えです。

ただし、2の場合は例外、というか、似ているようでまったく違う事例も考えられます。

3)相手に対する行動は適切だったが、対象者は傷ついたと“思った”場合
  例:反社会的な宗教に入った人を説得。相手は、信仰を否定されたと思って“傷ついた”と感じた。

これは本人は「傷ついた」と思っているが、実際には「気に入らない事態に陥ったことに不満を持った」というだけの状態です。この場合は“償う”必要は生じないと思います。なぜなら、傷ついたと思うのは本人の問題に過ぎないからです。これを2のような、本当に相手の霊性を阻害した場合と一緒にするとワケがわからなくなります。つまり、相手のためになったか否かと、相手が喜んだか否かは、本当は切り離して考えるべきということです。

以上をふまえた上で、コメントに入ります。


|同じ思いからの行動の結果として、相手が感謝してくれたら良いことをし
|たことになって、相手が傷ついたら悪いことをしたことになるなんて、何
|か変ですよ、これって。

何故でしょう?

相手と自分との相互関係の中で生れてくる行動なのですから、それが相手にどういう影響を及ぼしたかという結果を抜きに判断するのは、それこそおかしな話なんじゃないでしょうか。同じ思いから同じ行動をしても、相思相愛なら喜ばれ、相手次第ではストーカー(犯罪)になります(^^;。シュタイナーは「悪とは時期はずれの善である」と言ったそうですが、その“時期”を判断する責任は無いのでしょうか? いや、絶対に“ある”と、僕は思っているわけです。

たとえば上記1)の例2がそうでしょう。例1だって、もしかしたら言われて喜ぶ相手もいるかもしれない。でも、その言葉が相手にどういう影響を与えるかを考えずに投げつけるなら、それは利己性の発露以外の何物でもありません。刃物を渡すとき、刃の側を相手に差し向けたりしないでしょ? まして、仮に相手が盲目だったら、普通よりずっと気を遣って渡さなければならないでしょう。いずれにせよ、相手にとってどうなのかを考えた上で渡す責任があるわけで、無造作に刃物を投げ渡して、相手に刺さったのはうまく受け取れなかった相手の責任というのは無責任な話です(^^;。(念のため付け加えると、仮に相手がたまたまうまく受け取ったとしても、自分自身の不適切な行動に対する責任は生じると思われます)

自分だけで完結してしまうなら、それは自慰行為でしかありません。相手がいる以上、お互いに気持ちよくならなければ、いくら自分のテクニックの正しさを言い張ってもどうしようもないということです。(はっ、いったいどういう譬え話をしているのだ(^^;)


|でも、償うってどんなことです?
|相手の傷を癒すことですか?
|その辺は私にはまだ良くわかりません。

それこそ一概には言えないはずですよね。僕は基本的には「自分の霊性を高めることで同じ間違いを繰り返さなくなる事」も“償い”の重要な要素の一つ……というより、そうでなければ何が間違いだったかも判らないでしょうから、前提条件と言うべきかな? 考えなしの言葉で傷つけた程度のことなら、その相手にちょっと謝るだけで“償い”は済むでしょうし、間違った宗教を教えたり、その他何らかの形で霊性を損なったなら、そのぶん手助けをするのが(その方法も一概には言えませんが)償いでしょう。自分の行為が相手の霊性進化の障害になっており、再び前に進むために“癒し”が必要なら、それも償いのうちに入るかもしれません。


|地上だけの観点で見たらそこで癒しということが重要な意味を持つと思う
|んですけど、その人にも霊的な背後がいるし、その背後がいろいろな状況
|を材料にしてその人の成長に全力を尽くしていることを考えたら、やはり
|自分の責任は善いボールを渡す所までなんだと思えてきます。

善いボールを渡すことが出来たなら、その通りだと思います。ただ、“善い”と思っているのは自分だけの独りよがりかもしれないわけで、結果的に渡したものが善くなかった場合、そこに責任が生じてくるのは当然のことではないでしょうか? 自分でまいた種は自分で刈り取るのが大原則であって、失敗しても相手の背後任せで自分には償うチャンスが与えられないとしたら、その方が恐ろしいと思うんですが……。また、その程度の覚悟がなければ、“愛”という言葉を語る資格なんてないと思います。


|そうやって愛した方が傷ついた場合はどうなります?
|傷つけた相手が悪いのでしょうか?

それは自分が悪いんでしょう。仕事なんかと同じです。依頼された仕事を引き受けたにもかかわらず、納期に間に合わなくてクライアントに損害を与えたら……賠償責任を負うのは自分です。無理な納期を押しつけたクライアントじゃない。出来ないなら引き受けてはいけないんです。
でも、愛することは仕事とはやっぱりちょっと違いますから、否応なく引きずり込まれてどうしようもなくなって、一緒に傷つくことも含めて愛なんだろうなぁ、とは思いますけどね(って、ついでのように書いてますが、ここが一番肝心な所のような気もします)。

だから、有希さんは「愛することが恐くなります」と仰ってますが、もちろん「愛することは恐いこと」なんじゃないんでしょうか? 楽しいだけの“愛”なんて、本当の愛じゃないでしょう。だってお互いが、本気で生きている自分に(そして相手に)触れるんですから、恐くないはずがないんです。それは男女の愛に限らず、友情でも、その他の人間関係でも。一つ間違えばお互いの人生や、命にもかかわることだってあるわけですから。僕みたいに人間関係に不器用な人間は、山奥で一人で暮らせたらどんなに楽だろうって思いますよ。でも「恐さ」と引き合うだけの「快感」があるから、それは良いものなんじゃないでしょうか。

たぶん、自動車の運転みたいなものなんじゃないかと思うんですよ。各々の技術如何で、首都高を300km/hで飛ばせる人もいれば、農道を30km/hで走るのさえ恐い人もいる。速度が上がるほどに快感は増すが、同時にリスクも大きくなる。技術レベルを上げれば安全性を高められるが、低速でも人を殺す可能性(恐さ)はゼロにはならない。……考えれば考えるほど似てると思うんですが、それで何が言いたいかというと、その恐さを知らない人間は、車の運転も、人を愛することも、やっちゃダメなんじゃないか、と思うわけです。

※注:僕は300km/hも出したことはありません(当たり前だ)。せいぜいメーター読みで×0.57ぐらいです。……あ、いや、もちろんそんなのフィクションに決まってます。昔の話だし証拠もありません。だからタイホしないでください(^^;。

http://www.paperbirch.com/

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0035 必須の霊的真理
名前: 有希  投稿日: 2001年07月21日 (土) 09時33分57秒

アラムさん wrote:
> 「霊的真理を理解できないレベルの人だから伝えなくてよい」と考えるようになると間違いになると思います。

そうですね。
これは思い違いしやすい部分ですよね。

> 「未熟な魂」の持ち主であれば、伝えられなければ一生知らずに終わってしまうかもしれません。

はたしてそうでしょうか。
霊界は霊的真理に何度も会わせてくれてると思いますし、受け入れ易い時期も数回はあるはずです。
問題はその人が自分の意志と霊性で受けいれるかどうかじゃないでしょうか。
世の中にはメディアを通して様々な情報が氾濫していますから、今の時代はどこからでも霊的真理を知ることができると思います。
ですから、霊的真理を知る機会はたくさんあるけど、その人が受け入れなかったということであって、一生知らずに終わってしまうということは、現代では考えにくいと思います。
ただ毒になるものも手に入り易くなっているので、それに対する防御反応が働いてしまって、返って真理を受け入れにくくしているのかもしれません。
それとか、世の中の人にとっては霊的真理よりも毒の方が心地良かったりしますから、真理が大切で必要だとわかった後でも、つい毒のほうに手が出てしまって惑わされてしまって、真理を忘れてしまうこともよくあることですしね。

> この必修の霊的真理は本物の宗教の団体であれば、どの団体の教義にも含まれてはいます。

必須の霊的真理という捉え方はおもしろいですね。
言い得てると思いました。

> しかし、それ以外のものもごちゃ混ぜになっているので、どれが大切なのかが信者には理解できなくなって
> います。どうでもよいような事が必修の霊的真理と同じ程度の重要性があると思われていたり、必修の霊的
> 真理よりも重要だと思われたりしています。

そうなんですよね。
確かにそういうことってすごくあると思います。

> ホームページの役割も確かに大きいとは思いますが、「未熟な魂」の持ち主ですとこうした霊的サイトを見る
> こともないのではないでしょうか。

さあ、それはどうでしょう。
その人に必要なら守護霊なり背後霊なりが見せてくれると思います。
ただ、見た後はその人の霊性によりますけど。

> しかし、必修の霊的真理がより必要とされているのは「大人の魂」の持ち主ではなく、「未熟な魂」の持ち主の方でしょう。

本来はそのはずです。
大人の魂を持った人はごく自然に霊的真理を求めるし、ごく当たり前に実行しますから、あえて示さなくてもいいですもんね。

> まず、必修の霊的真理を他のものと区別して示すということが必要ではないでしょうか?

でも、どうやって区別します?
私は区別する必要性は感じないけどなあ・・・

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0034 大人の魂になる道
名前: 有希  投稿日: 2001年07月20日 (金) 11時35分54秒

ユミさん wrote:
> 「どうしてこんな未熟な自分がこの真理を受けられたのか?本当に自分が時期の来たひとなんていえるのだろうか?」
> と考えたことがありました。

ユミさんもそう考えたことがあったんですね。
私も最初の頃はよくそういったことを考えました。
私なんかでいいんだろうか・・・こんな自分でも導いてもらえるんだろうか・・・って。
一見すると謙虚なようですけど、霊界に対して考えるとなんて失礼なことを考えていたのかと、ずいぶん後で気がつきました。
真理を友人に伝えようと思って熱くなっていた時、「私なんか真理を受ける値打ちなんてないし、だめだよ」って言われた時にハッとしました。
そうじゃないんだよ、人間なら誰でも受けられるんだよ、って何度言ってもだめでした。
人に言って自分の未熟さに気がつくことって多いですよね。
そんな体験をしてからずいぶん経ちました。速いものです。

> まだまだ未熟で「大人の魂」と胸を張って言い切れないものがあることは重々感じながらも
> 精一杯精進していくしかないなあと改めて思っています。

同感です。
きっと死ぬまで「自分は大人の魂にまで成長した」とは思えないだろうし、実際そうなれるかどうかもわかりませんもんね。
だったらどうするかというと、自分の成長はもう考ええずに、ただ実行し続けるしかないと思っています。
その実行が適切であったなら結果として成長できるのでしょうから。

> 今度は「一人でも多くの時の来た人に真理を伝える」ことが心からの願いとなりました。

そうですね。
最終的にはそれしかないですもんね。
たった一つ、これをしようとするだけで様々な状況に遭わせてもらえるし、自分の未熟な点が浮き彫りにさせられます。
そして、いろいろな峠を乗り越えざるを得なくなりますから不思議なものです。
そうやって少しずつ大人の魂へと導かれるものなんでしょう。
「真理を伝える」ことは大人の魂に近づく最短の道なのかも。

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0033 全ての人への霊的真理
名前: アラム  投稿日: 2001年07月20日 (金) 00時59分57秒

スピリチュアリズムでは「一人でも多くの時期の来た人に霊的真理を伝える」、「理解できる人が理解してくれれば良い」という姿勢が強く感じられます。押し付けないという意味では確かに良いのですが、「霊的真理を理解できないレベルの人だから伝えなくてよい」と考えるようになると間違いになると思います。

高い内容を広めるのであれば高い霊性と教養を身につけた「大人の魂」に伝えるのは当然であると思います。しかし、霊的真理にも様々な段階のものがあり、基本的 と言うよりも義務教育レベル、必修科目としての霊的真理があると思います。これは全ての人に伝えるべき霊的真理です。

こうした必修の霊的真理は「大人の魂」の持ち主であれば、それまでの人生の経験の中で誰かに伝えられなくても悟ってしまっているかもしれません。しかし、「未熟な魂」の持ち主であれば、伝えられなければ一生知らずに終わってしまうかもしれません。

シルバーバーチの「自分が手にした真理を次の人へ伝えてあげる それが真理を知った者の義務です(p35)」 「地上の人間がその本来の姿で生きて行くには、大霊の摂理、霊的真理を理解する以外にないからです(p36)」 「皆さんとともに、そういった居眠りをしている魂を目覚めさせ、大霊の摂理に耳を傾けさせてあげるべく努力しようではありませんか(p36)」という言葉からは「一人でも多くの人に霊的真理を伝えよう」という思いが読み取れます。

「大霊の摂理」とシルバーバーチが呼んでいるものこそ全ての人が知らなくてはならない霊的真理です。必修の霊的真理、宗教を「中心となる教え」と定義するならば、真の宗教と言えるでしょう。
これは「たとえ理解されないとしても伝えることはしなくてはならない」ものです。この地上人生の間に理解することができなかったとしても、一度触れておいたので、肉体を離れた後で目覚めが早くなるということもあるかもしれません。

この必修の霊的真理は本物の宗教の団体であれば、どの団体の教義にも含まれてはいます。しかし、それ以外のものもごちゃ混ぜになっているので、どれが大切なのかが信者には理解できなくなっています。どうでもよいような事が必修の霊的真理と同じ程度の重要性があると思われていたり、必修の霊的真理よりも重要だと思われたりしています。

ホームページの役割も確かに大きいとは思いますが、「未熟な魂」の持ち主ですとこうした霊的サイトを見ることもないのではないでしょうか。
それに必修の霊的真理以上の高度な内容も発信しています。

「シルバーバーチの霊言集」でも必修的な単純な霊的真理だけではなく、霊界からの視点でなければ理解できないような高度な内容が入っています。

しかし、必修の霊的真理がより必要とされているのは「大人の魂」の持ち主ではなく、「未熟な魂」の持ち主の方でしょう。

まず、必修の霊的真理を他のものと区別して示すということが必要ではないでしょうか?

高い内容の発信ということでは心の道場のニューズ・レターが代表的ですが、一般向けの必修の霊的真理を伝えるものも必要であると思います。
心の道場の『スピリチュアリズム入門』でも一般向けとしては必修部分を超えています。

「低いところに向けても仕方ない」という見方もありますが、「低いところだからこそ伝えなくてはならない」という見方もできます。
義務教育として、必修のものとして、全ての人へ伝えなくてはならない霊的真理があると思います。

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0032 おじゃまします
名前: ユミおばさん  投稿日: 2001年07月18日 (水) 22時41分38秒

有希さん 長田さん そしてペーパーバーチさんお疲れさまです。
一緒に勉強させていただき、かつ楽しませていただいてます。
さくらさん本当にお久しぶりです。お元気そうですね。
アラムさん そしてほかの皆さんこんばんは。ちょっとお邪魔します。

有希さんが書いていらっしゃる「大人の魂」と「一人でも多くの時の来た人に真理を伝えること」・・・・かつて自分が伝えてもらった側の立場から10年前を思い起こしています。

「どうしてこんな未熟な自分がこの真理を受けられたのか?本当に自分が時期の来たひとなんていえるのだろうか?」と考えたことがありました。しかし先輩たちからさまざまなことを学んだり「シルバーバーチの霊訓」等の書物を読み進めながら、それまでの人生を真理で整理することと、そこからの実生活を真理に沿わせる努力をすることで、やっと10年かかって成長させてもらったと実感しています。かなりシンドいと思ったこともありましたが、今は心から幸せものだと感謝しています。

今度は「一人でも多くの時の来た人に真理を伝える」ことが心からの願いとなりました。
まだまだ未熟で「大人の魂」と胸を張って言い切れないものがあることは重々感じながらも
精一杯精進していくしかないなあと改めて思っています。

それから友人の方のインデイアンについてのメールについて少しばかり・・・・・。
私も西部劇の影響でインデイアンは野蛮人で悪者と決めつけていました。(確かにそんな人もいたかもしれませんが)その認識を変えてくれたのはインディアンの血をひいた作家フォレスト・カーター著の「リトルトリー」という本でした。(「めるくまーる」から出版されています)

メールのなかに「お金の制度がなかった」ということが書いてありましたが、「自分の土地を所有する」という意識もなかったと聞いたことがあります。そんな人達を白人は居留区へ追いやったのですね。ヘタをすれば私だって差別する側に回っていたかもしれないと思うと偉そうなことも言えませんが、「リトルトリー」を読んでよかったと思っています。高級霊が使いたい媒体だったことは納得できました。

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0031 友人からの感想
名前: 有希  投稿日: 2001年07月18日 (水) 15時45分22秒

先日、遠くにいる友人から勉強会に関する感想メールをもらいました。
掲示板に載せてみたら、と言ったところ、私が気に入った部分があれば載せても構わないということでしたので、私の一存で勝手に載せることにします (^・^)

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

勉強会の内容拝見させて頂きました。
こういった話し合いの場があると同じ真理を持った人間にもさまざまな視点から物事を見ているのだなって、思いました。でもそれは、どっちが合っていて、どっちが間違ってるとか、そーいう意味では、ございません。自分の持っていなかった観点を学べるすばらしい場であるなー、って思っております。

最近私が思うようになった事は、シルバーバーチの霊訓を真に理解するには、心を幸せの感情で満たして、始めて理解できる物だと思っています。
勉強会で有希さんは、

> インディアンというのは自然の中にマッチして生きているじゃないですか?
> 大自然をそのまま受け入れて生きている、というところで霊的真理と一致する面が結構あったのかしら。 

とおしゃっておられたので僕なりにお話させて下さい。
彼らは、文字という手段を持たない種族でした。彼らは、自然から霊的真理を学んでいました。それは、霊と会話をしていたと言う意味でもありますが、彼等は、木や石や動物や母なる大地(地球)すべての物と会話をする事ができたそうです。というよりもすべての人間が会話をする事ができるのですが、私達はそういった大切な事を現代の時代の中で忘れてしまったって言う方が正しいと思います。

僕は、本当の真理は、ひとつであると思ってます。でもそれは、スピリチュアルリズムだけが、本当の真理を言っているとは絶対に思いません。なぜなら本来真理は、自分で考えて探して、思い出す物であると思っているからです。では、どこから見つけだすのか?その答えをしっているのが自然なのです。

この間私は、三日間断食してみました。その理由と言うのが、ひとつに自分の体内に溜まっている不純物を出す事と、断食をする事により、五感が研ぎすまされ、自分なりに今悩んでいる問題の答えになったらと思い、始めた事でした。結果として、その時には、答えを見い出せなかったのですが、とても不思議な体験をさせて頂きました。あれは、二日目の時だったのですが、その時はとにかくお腹が減ってボーっとしていました。(たかが三日でも僕には一週間にもカンジてしまいました、ホント弱いです、、。)実際動く体力があるなら、温存しておきたいほどでした。

そんな時、自分の家にある、家のライトの中から「ジッジ〜」てなんかハエが飛ぶ時の音が聞こえてきました。最初は気にもしていなかったのですが、音が一向に止まなかった為、ハエの事を一瞬考えてみました。その時の僕の感情は、「ハエだって生きているんだから、熱いだろうな。」だったと思います。そう心が感じ、気付いたら、いつの間にかハエを助けようって思い、無事にハエを救出しました。しかしすでに少し手遅れで、ハエは極度の光の強さを浴びすぎ目をやられてしまい、どっちが上でどっちが下かもわからない状態になってしまっていたのです。

自分の手の平の上で一生懸命飛ぼう飛ぼうと頑張っているハエを見て、悲しみを感じ、神に祈りをしながら、外に行きそこでまたボーっとハエを見ていました。なんでこうなったんだろう?なんでハエはこんな目に合ったんだろう?心にあるそんなかすかな疑問を抱きながら、ボーっとただただその場に手の平のハエと過ごしていました。そんな時、ハエがバタバタしなくり、いよいよお別れの時かな?って思った時、ハエのおしりから卵が一個づつ出てきたのです。そうそれは、ホントに妊娠したお母さんが一生懸命生もう生もうとしている時にそっくりでした。本当に苦しそうでした。いつ死が訪れるか分からない中で、一個でも多く生もう生もうとしておりました。

その時、「こんな小さなハエにも神の一部である神性が宿っているんだな」ってそう実感しました。あの時僕が気付かなかったら、この子供達も死んでしまっていたなって、。僕は、神が僕にこのハエと出会わせくれた事に感謝しています。

なにが言いたかったと言いますと、もし僕達が神に何か祈る時、それは、人間だけを対象にしてはいけないって事です。動物達や植物やその他のすべての生物達の幸せも祈れて始めて、霊的真理であると思っています。インディアンという種族は、そういった事を自然から学んできました。彼等はよく木や石に話しかけました。それは木や石は、人間がこの地球で生活をするずーっと前からその場にいたからです。だから彼等の方が神についてよく知っているのです。

そうしてインディアンは、神が自然の法則である事を知り、そして、霊界という物があると言う事も知る事になりました。(しかし中には、自分が霊界から来たと知っていた人物も多々いたと思われます。)簡単にインディアンの真理を説明しますと、もしシルバーバーチの説いている真理が霊界側から見たこちらの世界であるならば、インディアン達は、こちらの世界から見た、いずれ戻るべき霊界や神に対しての真理なのです。

だから私はこのインディアンの真理を学びながら、シルバーバーチの霊訓を理解していこうと思っております。ちなみにインディアンの言っている真理は、シルバーバーチの説いている物と同じであります。はっきり断言させて頂きます。

考えてみますと日本で昔ありました、高橋信次先生のGLAも本当の霊的真理でありました。どの時代にもちゃんとした真理を知っている霊を霊界側が送っているとすれば、スピリチュアルリズムと同じ真理を説いた物が世界中にあってもおかしくないと思います。
その中でインディアンは、僕にとって一番為になる知識であります。

最後にあるインディアンが言っていた言葉を紹介させて頂きます。

   おお父よ、わたしはあなたの声を風のなかに聞き、

  あなたの息はこの世界中のすべてのものに生命を与えています。
   お聞きください。
    わたしはあなたの前に、あなたのたくさんいる子供たちのひとりとして、今、立っています。
  わたしは小さくて弱く、あなたの力と智恵とを必要としています。

   どうかわたしを、美のなかに歩ませ、なにとぞこの眼に、赤と紫の夕陽をお見せください。
  この両手が、あなたの創られたものを、尊敬させるようにしてください。
   この耳を、あなたの声が聞こえるように、鋭くしてください。
  そうすればきっと、あなたがわたしの一族に与えられた教えを、一枚一枚の木の葉や、
    ひとつひとつの岩のなかにあなたが隠された教訓を、このわたしも、理解するかもしれません。

   父よ、わたしは力を求めています。
   偉大なる敵と戦うことができるようになるための力ではなく、その力で、汚れのない手と、
  濁りのない眼をもって、わたし自身があなたのもとを訪れる準備をさせてください。
   もしそれがかなうのなら、日没の太陽が姿を消すように、わたしの生命が終わりを迎えたとき、
  いささかも恥いることなく、わたしのスピリットはあなたのもとを訪れることができることでしょう。

   アメリカ先住民の言葉

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

その後、もう一通頂きました。

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

実は、卵を生んでくれた事はすっごくうれしかったのですが、その子たちをどこに置いたら、一番安全か分からなくて悩んでいたんです。でもたしかホワイトイーグルは、「私達は、神の中にいます。そして、神は、あなた達の中で生きているのです。」って言葉を思い出したので、近くに生えていた木から一枚葉っぱを頂いて、その上に親バエと卵を乗せて家の前に置いて、後は神様におまかせいたしました。そしたら、急に夜、雨が降ってきて、朝見に行ったら、いなくなっていました。私は、神様がその卵にとって一番安全な場所に移してくれたと思っております。(勝手な言い分ですね、、。ゴハン食べる前の感謝の祈りの時に最近いつも考え祈っております。)

あの時僕は、単純に人間を中心に霊的真理を考えてほしくないって事を言いたかったんです。大霊は、すべての物に生きている意味があってお作りになった思います。だから動物も植物もその他の生物もみんな生きる権利を与えているはずです。でも彼等が霊的真理を学んで、他の物に尽くすのは、人間より難しいハズです。だから人間は、自分よりもか弱い生物に愛を与えないといけないんだと思います。そうする事によって、すべての生き物がつながっている事を始めて理解できるはずです。

みんなは、木が立っているのが当たり前に思える時がありません?でも木も最初は、小さな木の実だったのです。木の枝だから、離れて地面に落ちて、鳥やリスなどの動物から身を守り土の中に入る、そして、芽を出すまで水を補給して、やっと実は、木になれるまでのプロセスを踏んだのです。でもそこから何十年掛けてそして大きな木になり僕達生きてる生命の為に酸素を作ってくれるのです。これは、木にとっての大きな使命であります。木も意味があってここに生まれてくるのです。そんな事を今話した過程の中で感じられると思います。これが自然から学べられる知識です。

僕は時々思います、人間は、ホントは自分で真理を見つけ出さなくては、ならなかったのではないかと。でもそれが出来なかったから、イエスやシルバーバーチなどの高級霊が私達に啓示してくれたと思います。でも言い換えれば、自分達でも見出せたって事だと思います。少なくても一日一回は、同じ時間や同じ場所で瞑想しなさいと言われるのは、そーいった事をビジョンとして、守護霊や背後霊から得る為の人間のプロセスなのかも知れません。

そーいった事と言うのは、霊的真理を自分で見い出す為の順序という意味です。すべての物事は、順序にそっています。季節も春夏秋冬この順番は、絶対に変わりません。人間も何かに悩み考え、その考えから得た自分なりの答えから、行動を起こし、その行動が自分の態度となって現われ、そして、結果となって現われると思います。これも一種の順序だと思います。サークルです。すべては、サークルで出来ているのかもしれません。だから木には、木のサークルがあって、人間には人間の何かを得る為のサークルがあるのではないでしょうか?どうです?おもしろいと思いません?

それらは全部私の仮説ですが、でもそこに非常に私は、奥深いもの感じます。インディアンがなぜ円柱の家やドリームキャッチャーなどの丸い物を自分達の身の周りに置いたかわかりますか?それは、円(サークル)というものに特別な物を感じたからです。彼らは、火を囲んで話し合いの場をよく持ちました。囲んでいるという事が彼等は、すごく大切な事なんだっていってます。太陽も丸い、月も丸い、太陽が沈む時も弧をえがいてまた戻ってくるのです。科学的に考えれば、重力の一言で終わりますが、それもサークルだと考えれば、何か意味があるのでは?と思えてきません?私は、その答えにスピリチュアルリズムが大きく関わっていると思っております。

私は、今また新しいインディアンの本を読んでいます。最初は、ラコタ族ではじまり、2冊目にチェロキー族のそして、今、ホピ族のそれぞれまったく懸け離れた場所で生活していて、なんでこうも彼等のもっている真理が全く同じなのか?不思議でしょうがありませんでした。でもシルバーバーチは、「真理は浸透していくものです。」って言っていたのを思い出した時、その答えのカギが瞑想であり、知識を得る為の順序なのかも知れないと思ったのです。

一般の方は、インディアン=野蛮なイメージを持っている方が多いですが、僕はかれら程、霊的真理に忠実に生きいた種族はいないと思っております。どこかのホームページである人間が死んで霊界に返っていったら、すべて今まで生きて来た世界と見た目は同じなのに、お金を支払う制度がないってストーリーの内容を書いた方がいたのですが、インディアンもお金の制度を作っていませんでした。はたから見ると「単に文明が遅れていただけだよ。」って思うかもしれないけど、実際は、かなり違います。

彼等は、自分や自分の家族以外にも与えるすばらしさを知っていたのです。もし部族の人間がお腹を空いていたら、自分の分がなくなってしまっても、与えてあげられるものは、あたえるという考え方を持っていたのです。だからお金なんて制度作る必要がなかったのです。お互いがお互いを助け合う習慣が当たり前だったからです。僕は、そんな考え方を持った人達が好きです。心から尊敬しています。私もそんな人間になれたら、なんてすばらしい事だと思っております。

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

以上が友人からのメールです。
2通分ありましたからずいぶん長くなってしまいましたけど、こういう大自然の感覚を素直に受け止めている人がいるということをぜひ皆さんに紹介したかったので、あえて長いまま転載しました。

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0029 大人の魂
名前: 有希  投稿日: 2001年07月17日 (火) 16時32分40秒

> 「理性に訴えたい。言うなれば大人の魂、つまり高い霊性と教養を身につけた人物に訴えてみたい(p25)」
> というシルバーバーチの言葉ですが、スピリチュアリズムが「一人でも多くの時のきた人に真理を伝える」こと
> によって広まっていくこととつながりがありそうですね。

そうですね。
つながりは大いにあると思います。
ただ、「時の来た人」というのは霊的真理を受けとめるのにふさわしい時期にいる人のことであって、「大人の魂」とはちょっと違うかなと思います。
それと、霊的真理は受けいれられるけれど、霊性が低くて良いものとごまかしているものの区別がつかない人は高い霊性を持っているとは言い難いと思います。

大人の魂とは、もちろん最初から成長した状態で生まれてきた人もいるでしょうけど、大部分は時期が来て霊的真理を受け入れ、その後いろいろな体験を積む中で魂が練り上げられて成長した魂のことだと思うんです。
そういう魂の人は霊性も高く、理屈はどうあれ、善いものと悪いもの、高レベル低レベルなどをちゃんと見分けることができるのではないかと思います。

大衆布教に対するご意見はとてもうまくまとめられていて、その通りだと納得しました。

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0028 大人の魂への訴え と 大衆布教の違い
名前: アラム  投稿日: 2001年07月15日 (日) 22時19分15秒

「理性に訴えたい。言うなれば大人の魂、つまり高い霊性と教養を身につけた人物に訴えてみたい(p25)」というシルバーバーチの言葉ですが、スピリチュアリズムが「一人でも多くの時のきた人に真理を伝える」ことによって広まっていくこととつながりがありそうですね。

「魂が真理に目覚めて感動するには、それぞれに時期というものがあるのです(p61)」「霊的成長と進歩はゆっくりと進められるものです」(p64)」と語られています。

それに対して、新宗教やニューエイジ運動においては、できるだけ早く、多くの人へ普及したいとの願いがあります。そこでは地上の人間のレベルに合わせようとして、霊的真理でない事を方便として使用したり、人々の興味・関心を
引こうとして現世利益や霊的現象の見世物を強調したりします。

多くの人への普及という願いが、最低レベルに合わせるという手段を取らせることになっていくのでしょう。
教説にしても、罪を犯す多くの人にたいしては「罪を犯すと神罰がくだる」とか「死後、審判があって、地獄におちる」という脅しになったり、なにも現世によいことがないと思っている人に対しては「死後、素晴らしい世界が待っている」という気休めになったり、悟ることができないと思っている人に対しては「死後はみんな悟れる」とか「座るだけで悟れる」といった内容のないでたらめのようなものに変化させていきます。「祈れば救われる、天国へ行ける」といったものも同じようなものでしょう。

低い内容の教説や霊界通信は魂の成長レベルの低い人に合わせたものであるかもしれないわけで、「本当はもっと高度なことを伝えたいが、多くの人が理解できるのはこの程度だろう」と通信霊が内容を落として伝えている可能性もあるわけです。
シルバーバーチにしても、大人の魂に訴えるのでなかったら、もっとレベルの低い内容を語らねばならなくなったかもしれません。

多くの人へ伝えるという場合には、内容のレベルを落とす必要が出てきますが、それが行き過ぎると、多くの宗教団体やニューエイジ団体のように人々の興味・関心をひくものはあるが、本当の霊的向上に役立つものがほとんど見当たらないという結果に終わってしまうことが多いのではないでしょうか。

交霊会を開いても、参加者のレベルが向上しないので、同じようなレベルの内容を繰り返すということになるのではないでしょうか。
「地上界へ届けられる叡智にも、インスピレーションにも、霊的真理にも、限りがないのです(p38)」の言葉からすれば、霊的に成長した人の開催・参加する交霊会では、より意味の深い通信が得られるはずです。
霊的に成長していない人は同じような内容が繰り返されていても、その不思議さに驚き、自分の関心を満たしてくれれば喜ぶ、といったことを続けるだけなので、大人の魂のように理解をして、それより進んだ知識を得るという進展が見られません。
同じことが宗教教義についても言えます。何百年、何千年と進展のない同じ教義を繰り返すだけなので、霊的進歩を目指す人を失望させることになっています。

そのため、理解の進んだ何人かの選ばれた人々に対して、一般には知られていない寺院、僧院などで高度な内容の教えを伝えるということをしていたらしいですが、スピリチュアリズムではより多くの大人の魂へ教えを開放することにしたようですね。

シルバーバーチが「霊界からのメッセージをできるだけ単純明快な形で解き明かす(p25)」と語っていることからも、望む人には教えを開放するという姿勢が見えてきます。

「望むならば、公開する」という点がそれまでの秘教集団とは異なりますし、「受け容れる準備の出来た人に理解してもらう」という点が大衆迎合型の宗教団体とは異なる点だと思います。

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0027 「類魂」
名前: 有希  投稿日: 2001年07月15日 (日) 01時19分05秒

アラムさんはシルバーバーチをよく読みこなしていらっしゃるんですね。
驚くと同時に、とても頼もしく思いました。

「類魂」は「再生」と共に霊界の住人であっても全てを理解できないほどの真理だと聞いています。
とするなら、地上にいて重い肉体に閉じ込められて地上的視野で見る方が強い私たちには「類魂」の事実は到底全てを理解できないものだと思っています。
でも、アラムさんの意見を読みましして、なるほどと頷かされることばかりでした。
私個人としては、以下の意見とほぼ同じになります。

> 「実は私はインディアンではありません」と語ったシルバーバーチは三千年の間に霊的進化を遂げた高級霊
> ですから、もう個霊としてではなく、類魂の巨大な意識としての存在だったのではないでしょうか?
> その意識の中に媒介霊としてのインディアンの知識や記憶も構成要素として含まれているのではないでしょうか?

> 「同じ意識体を構成する複数の分霊がそれぞれの意識層で表現されております(p312)」がシルバーバーチ
> としての高級霊と媒介霊の関係にもあてはまっているのでしたら、「私はインディアン」ということも「実は
> インディアンではない」ということも両方とも正しいということになるのですが。

理論上は以上のような感じで落ちつくのですが、感覚的にはなかなか理解できないものですね。
今まで「再生」と「類魂」の感覚をずっと探ってきました。
あるところまではとてもよくわかるのですが、それ以上になるとあまりにも緻密過ぎると言うか、固体が邪魔をしてなかなか掴みきれないのが残念なところです。
死んで霊界へ行ったとしても、はたしてどこまで知ることができるものなのか・・・楽しみの一つです

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0026 類魂としてのシルバーバーチ
名前: アラム  投稿日: 2001年07月14日 (土) 23時27分35秒

有希さんの仰る通り、レッド・インディアンとして地上時代を過ごした霊が、高級指導霊と同じ霊系に属する類魂集団のメンバーであった場合は区別ができないかもしれませんね。

この場合の類魂集団は通常の同一レベルの「類魂」ではなくて、様々な意識レベルの同じ霊系の複数の「類魂」が属している「類魂」ということになりますね。

ただ、「インディアンを自分自身であるかの表現」と記されていますが、もし、単なる媒介霊というだけではなく、類魂集団の一員であったならば、高級霊シルバーバーチ自身がインディアン霊と一体化していた可能性もありますね。

「こうしてインディアンに身をやつさねばならなかったのです」と「実は私はインディアンではありません」と告白するまで、「私たちは、あなた方が“野蛮人”とよんでいるインディアンです(p32)」、「西洋人の精神構造は私たちインディアンとは大分違います(p237)、「私たちインディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりました(p331)、「私は白人ではありません。レッド・インディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました(p336)、「私が地上にいた頃、インディアンの民族が大切にしていた祭りが二つありました(p378)」、「私たちインディアンは、地上時代に重要視した時期が巡ってくると、仲間たちで集合して祝うのです(p379)、「ウィグワムまで持ってきて」「私がインディアンとしてこの地球上で生活した時は、ウィグワムの中で暮らしていました(p387)」と語っていますが、こうしたもの全てが「そうであるかのように表現されたもの」と言われると認め難い感じがします。
そして、大霊への祈りで何度も「ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます」と述べていたのが、でたらめだったことになるのでしょうか。

「実は私はインディアンではありません」と語ったシルバーバーチは三千年の間に霊的進化を遂げた高級霊ですから、もう個霊としてではなく、類魂の巨大な意識としての存在だったのではないでしょうか?
その意識の中に媒介霊としてのインディアンの知識や記憶も構成要素として含まれているのではないでしょうか?

「同じ意識体を構成する複数の分霊がそれぞれの意識層で表現されております(p312)」がシルバーバーチとしての高級霊と媒介霊の関係にもあてはまっているのでしたら、「私はインディアン」ということも「実はインディアンではない」ということも両方とも正しいということになるのですが。

さらにシルバーバーチ自身が「私は別の意識に切り換えなくてはならない」「その時の私は、普段シルバーバーチとして親しんでくださって意識よりも一段と高い次元の意識を表現しなければならないのです」「私の意識の中でも高等なバイブレーションに反応できる回線を開き、高級霊がそれを通路として通信を送ってくる。それを私が地上の言語で表現するわけです(p236)」と媒介霊としての働きについて語っています。
それで、媒介霊が語っている場合もあるのではないかと思ったのです。

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0025 来てくれて嬉しい〜 (^・^)
名前: 有希  投稿日: 2001年07月14日 (土) 03時34分52秒

さくらさん、お久しぶりです。
もう大丈夫なんですか?

>  やはり、この世に存在するもの全て,理解を進めるていくと一切が試金石であることが解りますね。
> 各人同調するものに違いもありましょうが、その同胞にとって意義のあることを気持ちよく進んで接する
> ことが何時でも自然に出来る様に心掛けしたいです。
> 生命の本質が霊であるとして、私達は人間と云う媒体であり、私にはその術も愛おしく認識されます。
> 同時に自己を省みることを忘れずに、よりしっかりとしたスピリチュアリズムの真価へ向かうべく、
> 倖せを感じつつ一層努力して生きていきたいと思っています

いやあ、同感ですねえ。
個性も進む道も具体的にはいろいろ違っても、思いが同じというのはすごく嬉しいです。
またぜひ会いましょう。

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0024 レッド・インディアン?
名前: 有希  投稿日: 2001年07月14日 (土) 03時33分13秒

アラムさん wrote:
> 大霊へ捧げる祈りの時や、二十二章の「シルバーバーチ、子供と語る」の時などにはインディアン霊も語って
> いるように思われます。

確かに「私がインディアンとしてこの地上で生活した時は・・・(p387)」という箇所がありますからそう思えますけど、類魂ということを考えたら果たしてどうでしょう。語っている存在が地上で見られるように個人としてしっかり区別できるならインディアンそのものが語っていることになりますけど、元々語っている高級霊とレッド・インディアンは同じ霊系にあり、そしてそのレッド・インディアンを媒介として語っていることと類魂特有の「私があなたで、あなたが私」という世界、更には何回か再生した中での意識を含めて考えてみるなら区別は難しいのではないかと思うのですが。

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0023 ご無沙汰しておりますが、
名前: MUPさくら  投稿日: 2001年07月13日 (金) 00時52分20秒


え〜、、浜松の交流会は無くなったんですね。皆さんお世話になりました。
 今度機会があったらお会いしましょう。
「勉強会&座談会」発足とのこと、遅ればせながらおめでとう御座います。
この場で私などは発言にまともに参加する身分柄では御座いませんで、ただ今後の御発展を影ながらお祈り申し上げさせて頂きます。
 やはり、この世に存在するもの全て,理解を進めるていくと一切が試金石であることが解りますね。各人同調するものに違いもありましょうが、その同胞にとって意義のあることを気持ちよく進んで接することが何時でも自然に出来る様に心掛けしたいです。
生命の本質が霊であるとして、私達は人間と云う媒体であり、私にはその術も愛おしく認識されます。同時に自己を省みることを忘れずに、よりしっかりとしたスピリチュアリズムの真価へ向かうべく、倖せを感じつつ一層努力して生きていきたいと思っています(その為に、現在ある種の自重モードかな(^^;))。
 さて、果たして感想になったでしょうか?失礼致しました。。。

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0022 シルバーバーチとは何者か
名前: アラム  投稿日: 2001年07月11日 (水) 22時36分48秒

「シルバーバーチ=レッド・インディアンと思っている人が沢山いると思います」「元々の語っている存在は地上に再生してくる必要が全くないくらいに成長した高級霊」との事ですが、大部分を語っているのは確かに高級霊だと思うのですが、時々は媒介霊であるインディアンも語っているのではないでしょうか?

大霊へ捧げる祈りの時や、二十二章の「シルバーバーチ、子供と語る」の時などにはインディアン霊も語っているように思われます。

皆さんの言うように インディアンと名乗って出てきているだけなのでしょうか?

『シルバー・バーチ霊言集』を出した桑原さんは「シルバー・バーチはインディアン」と決めつけているようですね。

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0021 待っていました
名前: 長田  投稿日: 2001年07月11日 (水) 15時33分18秒

ペーパーバーチさんお疲れ様でした。
私にとって今回の勉強会は知識を深めるのにとても役に立ったと思っています。というのは、みんなが当り前のように分かっている事が私にとってはすっかり抜けていて、真理の内容ばかりを追いかけていてそこに至るまでの経緯などには全く興味がなかったということが、改めてわかりました。
だから抜けていた部分が埋められたような感じでとってもプラスになりました。ペーパーバーチさんの積み上げられてきた知識に感謝しています。
たわいもない質問ばかりの私でしたが、基本的な知識の充実に役に立てれば幸いです。

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0019 ニューエイジの癒し と スピリチュアリズムの癒し
名前: 有希  投稿日: 2001年07月06日 (金) 11時34分55秒

アラムさん wrote:
> スピリチュアリズムの癒しには、霊力による癒し、霊的真理を知ることによる癒し、霊との交流による癒し
> などがあると思います。

そうですね。
私がいつも思うことなんですけど、地上的な見方と霊的な見方では同じ言葉の意味もずいぶん変わってしまうなあと。
この「癒し」にしても、ニューエイジがよく言う「癒し」はその場限りの慰め、気を紛らわす要素が強いように思います。そうすると同じ状況がやってくるとまた気を紛らわさなければいけなくなるし、慰めてもらわないと不安で仕方がなくなると思うんです。

でも、スピリチュアリズムで言う「癒し」は単なる逃げとか気を紛らわすことではなく、アラムさんが書いてくださったように「霊的な癒し」ですよね。「霊的な癒し」って、魂を洗濯することなのかもしれません。

霊的なことを知らない人は、愛する人に先立たれると全てを失ったように感じるものですけど、実は肉体がなくなっただけで本当は生きているということがわかるってことは、行方不明になっていた子供の消息がわかった安心感に似ていると思います。これはもう気を紛らわすどころか、心の内から湧きあがる喜びですもんね。

> 癒しだけにとどまっていてはいけない事は確かですが、霊的向上への入り口として「癒し」も用意されて
> いるのではないでしょうか?

もちろんそうだと思います。
そういえば「私は霊力の証を見た」の中にこんな言葉がありましたよね。

『霊的真理を知ることによって、あなたは健康と一緒に人生までも立て直すことができる。ドロドロとたこの世的な問題に対して全く新たな視点から対処できるようになる。取り越し苦労、怒り、恨み、物欲、色欲、強情、こうしたものが消えて、愛と喜びと理解と霊的価値を求めるようになる。(p103)』

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0018 スピリチュアリズムの癒し
名前: アラム  投稿日: 2001年07月03日 (火) 22時05分14秒

「癒し」の要素はニューエイジ系だけでなくスピリチュアリズムにもありますね。

「心霊治療」はその代表的なものでしょうが、それ以上に、愛する肉親の死によって悲しみに包まれた人に「愛する人は死んではいない、目には見えなくなったが、霊界(幽界)で生きている」と示してあげることが多くの人への癒しとなったことでしょう。

戦争で愛する若者達が多く他界していった時代には、残された人達にとって「交霊会」が癒しの場であったと言えます。

「愛してくれる人が一人もいない」と絶望している人には、霊界で愛する肉親が見守ってくれていること、縁の深い友人が多くいること、いつでも守護霊がついていてくれることを知ることが癒しとなるでしょう。

スピリチュアリズムの癒しには、霊力による癒し、霊的真理を知ることによる癒し、霊との交流による癒しなどがあると思います。

癒しだけにとどまっていてはいけない事は確かですが、霊的向上への入り口として「癒し」も用意されているのではないでしょうか?

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0017  愛する動機と結果
名前: 有希  投稿日: 2001年06月27日 (水) 07時45分17秒

やっとペーパーバーチさんのご登場ですね (^・^)

> お遊び掲示板じゃないからタグもいりませんよね? 

ええ、なくても全く支障はありませんものね。

> 色遣いもなかなか爽やかでいいでしょ?

実は、私のパソコンの色設定と同じだったので、最初見た時小躍りして喜びました (^・^)
とってもきれいでいいですよお (^・^)

> 牧師の話はどうでしょう? 

こちらの方がより適切な引用ですね。

> ということで、有希さんは「自分の行動が利他愛を持ってしたことであるなら、たとえ相手が傷ついた
> としてもそれは咎められないんじゃないかと考えたわけです」と書かれていますが、これはどうかなーと
> 思います。やはり、自分の考えなしの行動によって相手が傷ついたなら、悪いのは自分でしょう。

何も考えないでだったらそうですね。
でもいろいろなケースがありますから、一概には言えないんじゃないでしょうか。
ただ、シルバーバーチの言う「罪」と「咎め」は別だと思うんです。
咎められはしないけれど、もし正しいと信じていたにもかかわらず、それが後で間違いだと気がついた場合は当然それ相応の償いというか、修正は必要ですもんね。
自分が悪い場合もあるし、相手の甘えとか弱さ、利己性によるものもあると思うのですが。
それに同じ言動の結果にしても、傷つく人と逆に感謝できる人もいるわけだし。
同じ思いからの行動の結果として、相手が感謝してくれたら良いことをしたことになって、相手が傷ついたら悪いことをしたことになるなんて、何か変ですよ、これって。

> 「自分の行動が利他愛を持ってしたことであるなら、たとえ相手が傷ついたとしても、それを償うチャンスは
> 必ず与えられる(だから恐れず行動すべし)」

もちろんそうですよね。
でも、償うってどんなことです?
相手の傷を癒すことですか?
その辺は私にはまだ良くわかりません。
地上だけの観点で見たらそこで癒しということが重要な意味を持つと思うんですけど、その人にも霊的な背後がいるし、その背後がいろいろな状況を材料にしてその人の成長に全力を尽くしていることを考えたら、やはり自分の責任は善いボールを渡す所までなんだと思えてきます。

ところで、自分の時間を割いて、仕事とか、家族を後回しにして人のために何かしたことってあります?
自分が全責任を背負うつもりで、人を愛したことってあります?
もちろんお節介じゃなく望まれてです。
善意でやったつもりなのに結果的にその人が傷ついたとわかった時は、愛した方はもっと傷ついて打ちのめされます。
そうやって愛した方が傷ついた場合はどうなります?
傷つけた相手が悪いのでしょうか?
悪い、悪くない、という判断の仕方自体、何か違うような気がします。

そういう体験を何度かすると、こんなにつらい思いをするぐらいならいくら頼まれても冷たくあしらった方が良かったのかな、とか、何もしない方がマシなのかなと考えたりして愛することに臆病になっていくんです。
それとか、自分が傷つかないでいることは相手を愛することになるのかなあ、ってことも思ったりもするんです。
そうやって結果ばかりを重視していると、愛することが恐くなります。
まあ、それも乗り越えるべき部分なのかもしれませんが・・・

そんな体験をしてあれこれ考える機会を持つと、シルバーバーチの言葉が魂に染みてきます。
つらい思いはしても、たとえ自分が傷ついたとしても、やっぱり愛することってすばらしいんだ、ってね (^・^)

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0015 まとコメ(長いです(^^;)
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2001年06月26日 (火) 07時12分50秒

ふ〜。物質界のお勤めに沈んでました(^^;。この掲示板も、はじめる前は閑古鳥が鳴いたらどうしようとか思ってましたが、なかなか良い感じでお話が進んでいるようで、良かった良かった(^^)。

>有希さん
掲示板、結局コメントが付けられない形に設定しました(管理者だけコメント可能)。お遊び掲示板じゃないからタグもいりませんよね? 色遣いもなかなか爽やかでいいでしょ?(この掲示板プログラム付属の設定の一つを使っただけですけど)

|その中で死刑執行人の話があるんですけど、死刑執行という仕事に対して
|「知らずにしていたのであれば咎められないが、いけないと思いながらし
|たのであれば咎められる」という内容でした。

牧師の話はどうでしょう? これも死刑執行人の話と途中までは同じで、キリスト教の教えを正しいと信じながら説いたなら良いが、間違っていると思いながらだったら罪になるというものですが、こちらの話には続きがありますよね。つまり、どちらにしても、間違った教えを説いた相手を一人ひとり訪ねて訂正しなければならない。

ということで、有希さんは「自分の行動が利他愛を持ってしたことであるなら、たとえ相手が傷ついたとしてもそれは咎められないんじゃないかと考えたわけです」と書かれていますが、これはどうかなーと思います。やはり、自分の考えなしの行動によって相手が傷ついたなら、悪いのは自分でしょう。
いや、だから行動を起こしてはいけない……じゃなくて、むしろ次のように考えるべきではないかと思うんです。

「自分の行動が利他愛を持ってしたことであるなら、たとえ相手が傷ついたとしても、それを償うチャンスは必ず与えられる(だから恐れず行動すべし)」

僕は「あれ?困ってるのかな〜」と思ったら声を掛けますが、何でもなかったら何もしません。自分が、知らない人に声を掛けられても鬱陶しいだけだと思う人間なので(^^;。


>長田さん
おっ、長田さん来ましたね(^^)。文字おこしご苦労様でした。今頃2回目の文字おこしをしてらっしゃるのでしょうね。頑張ってくださいね〜。

|すごーい知識家で間違っている事は絶対みとめない!というような強さを
|持っている人だと思っていましたが

うわああぁ、そんなふうに思われてましたか! 僕の知識なんて全然大したことないと思ってますし、どちらかと言うと熱情と闘魂の人でありたいと思ってるんですが(^^;。ううん、どちらにしても実情とはかけ離れてるかも。

そんなわけで、反省はいつもしています。問題はその反省がなかなか活きないことで……。
でも、基本的に僕はダメ人間なので、いま普通の社会人として生活できているのは、スピリチュアリズムに基づいて反省してきた事が少しは生きているおかげじゃないかなと思っています。これこそ最高の現世利益(違うか(^^;)


>ユミおば……おじょうさん(^^;
浜松の勉強会は無くなってしまいましたが、これからはこちらでよろしくお願いします。僕なんかを「知識が豊富」なんて、それは買い被りと言うものです。本当にきちんと勉強している人が聞いたらヘソで茶をわかしちゃいますよ〜(意味不明)。

|私はおばさんだからおばさんの気持ちがよくわかるんですが、ちょと考え
|させられました。でも要はおばさんだからということではなく状況により
|けりってことでしょうね。

そうですね。状況によりけりだし、おばさんにもよりけり……(^^)。話し掛けてイヤな思いをさせてしまう人は……

「私はこんなに親切なのよ。障害を持っている子にも偏見なんて無いの(なんて考える時点ですでに偏見に囚われていたりすると思いますが)。この可哀想な人たちに(こういう傲慢な考え方の人は多いと思う)親切に声をかけてあげる私って、なんて優しいんでしょう。なに? 私が親切にしてやってるのに、何か文句あるの?」

とか思っているんじゃないかな〜。もっとも、おばさんならぬ僕には本当のところは判らないんですが……。

結局、話し掛けることが悪いはずはないし、その人なりに相手のことを思いやる気持ちが少しでもあれば、話し掛けられて不愉快に感じたりはしないと思うんですよね。実際「おばさんにはイヤな思いをさせられることが多い」ということは、イヤだと思わない場合もあるということですから(^^)。
おばさんの本能(笑)で、好奇心丸出しで話し掛けるから無神経な言葉で傷つけてしまうんじゃないでしょうか? たとえば長田さんが仰ってたような逡巡する気持ちがあるなら、それは「相手がどう感じるか」を少なからず考えているわけで、そう言う人は“イヤな思い”をさせることは無いんじゃないかな、と思ったりします。


>アラムさん
こちらでもよろしく。一緒に勉強していきましょう。

霊的宇宙の集団という説は「なるほど」ですね。そう考えると「下から2番目というのはレベルの話だ」という僕の想像にも説得力が出てくるような気がします。
ただ、このレベルの話には結局何が正しいのか判断する「手がかり」さえ無いのが辛いところです。想像するしかありませんものね。

「癒し」についても考えさせられました。僕なんかは単純に、「癒し」ということばかり言っているニューエイジャーには嫌悪を感じますが(それだけではダメだという考えは変わりませんが)、考えてみれば肉体を鍛える場合でも、トレーニング(苦難)と休息(癒し)を交互にしないと筋肉はつかないと言います。一日トレーニングしたら、24時間だか48時間は休まないといけない。そうして休んでいる間に筋肉が発達するんだそうで。
(だから、毎日筋肉を酷使し続ける肉体労働者は、ボディビルダーのようになったりしないわけです(^^))

精神的なところでも同じ事は言えるかも……とか言いつつ、あまりニューエイジ的な「癒し」って、イメージが湧かないんですけどね。今の僕には、子供の顔を見るのが一番の癒しです(*^^*)


>ALL
なんか知りませんが、低級霊に取り憑かれているような人たちのサイト(^^;の宣伝がありましたので削除しました。この掲示板は勉強会の専用掲示板ですので、宣伝のみの書き込みはお断り致します。

今回は最初のケースでしたので、有希さん長田さんと相談してからと思っていたので遅くなりましたが、今後、宣伝投稿は発見次第即刻削除します。

http://www.paperbirch.com/

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0014  霊的大人になるには
名前: 有希  投稿日: 2001年06月17日 (日) 07時07分13秒

長田さん wrote:
> やはり善意から出た言葉は、たとえ適切な言葉ではなかったとしてもそこには
> 愛のボールが投げられているので、それをどう受け取るかは相手次第ということになってしまいますね。
> だからどんどん愛のボールを投げればいいのですよね。

と思います。
受けたボールを活用すれば自分にとっていい結果になるし、どんなにいいボールでも生かしきれずに捨ててしまったら自分にとっては大損。
人はいいボールが来ることばかりを望むし、自分が受けられないボールが来るとつい相手に不満を持ってしまったり、受けそこなって転んで傷つくとすぐに責任転嫁をし始めます。
受けにくいボールをうまく受けられて、いいボールにアレンジして投げ返すことができたら、それが霊的大人ということなんでしょう。
いいボールも悪いボールも、全て活用して肥やしにし、自分の身につけていきたいものですね。

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0013 私も考えました。
名前: 長田  投稿日: 2001年06月15日 (金) 09時02分38秒

ユミさんの意見に私もちょっと考えさせられました。
それで書こうと思ったら有希さんに先に書かれてしまいました。残念(-_-;)
やはり善意から出た言葉は、たとえ適切な言葉ではなかったとしてもそこには
愛のボールが投げられているので、それをどう受け取るかは相手次第ということになってしまいますね。
だからどんどん愛のボールを投げればいいのですよね。
実は私、この愛のボールを投げたいのに躊躇してしまって投げれないでいるんです。いつも行くスーパーに一人で車椅子で買い物に来る女性がいるんですが、知らない人だし何と声を掛けたらいいのか?その人に会う度にあ〜ぁ、今日も声を掛けれなかった(-.-)とね。
でも今度会ったら「こんにちは」ってまず言ってみようかな。
何だか勇気が出ました。ありがとうございます。

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0012 更にそこから考えさせなれて得た自分なりの結論
名前: 有希  投稿日: 2001年06月14日 (木) 12時27分37秒

ユミさん wrote:
> 私自身障害者の親として、「私だったら、誰であれ話かけてくれたら嬉しいけどなあ。
> どうして傷つくのかなあ」と思ってしまったわけです。気になったのはこの点でした。

そういうことだったんですね。
これは乗り越えた人ならではの言葉かも。
苦しみの最中にいる人は、特に自暴自棄になっている人は話しかけられるとダメな人も結構いるみたいですもんね。

でも、よくよく考えてみたら、話しかけてほしいと思っている人もいれば、話しかけてほしくないと思っている人もいるわけですから、相手がどう思うかを推測して話しかけるかどうかを決めるなんてことは、霊能者でもできないんじゃないかと思うんです。
相手が傷つくことを恐れていたら、何もしない方が無難ということになってしまいます。
じゃあどうするのが一番ベストなんだろうって考えてみて、やはり「動機が大切」というところに落ちついてしまいました。

「じゃあ動機が正しければ何やってもいいの?」という質問をよく受けますけど、私としては「動機が利他愛から出ているなら何をやってもいい」という結論に達してしまいました。
シルバーバーチの中には、「知識には責任が伴う」というのが随所に出てきます。
その中で死刑執行人の話があるんですけど、死刑執行という仕事に対して「知らずにしていたのであれば咎められないが、いけないと思いながらしたのであれば咎められる」という内容でした。

つまり、霊界での判断は自分は自分、人は人、という部分があるのではないかと思ったわけです。
自分がすることと相手がどう思うかはある程度切り離して考えてもいいんじゃないかって。

逆発想をしてみると、ある人が悪意を持ってキツイ言葉を投げかけたとします。でも、言われた方はいろいろ反省することができてその人に感謝したとします。そうした場合結果としては良かったわけですけど、良かったのは反省した方であって、悪意を持って言葉を発した人は咎められて当然でしょう。というより、自分で自分を咎めることになるんだと思うんですが。

イメージとしては、誰かから何がしかのボールが自分に手渡される。そのボールには相手の人の思いが入っているものですけど、受け取ったボールをどう処理すかは自分の責任。そして、自分なりに処理したボールをまた誰かに手渡す。その受け取ったボールをどう処理するかはその人次第。
そんな風なイメージが湧きました。

ということで、自分の行動が利他愛を持ってしたことであるなら、たとえ相手が傷ついたとしてもそれは咎められないんじゃないかと考えたわけです。
それが悪い結果になったとしたら、許すかどうかは相手の問題であって、自分はしっかり反省して、次からは同じ間違いを繰り返さないように配慮する糧にすればいいかなと思います。
考え過ぎて相手が傷つくことばかり恐れていたら利他愛の実践ができなくなってしまいます。
もちろんできるだけの配慮は必要ですけど、私たちは躊躇することなく、いいと思ったことは臆病にならずにいろいろやった方がいいんじゃないかと思いました。
そして、もちろん相手を傷つけたと気がついた時は素直に謝ればいいと思います。
ただし、「自分は利他愛の動機でやったんだから」と開き直ってはいけないと思いますけどね。
でも本当の利他愛から出たことならそういうことはないでしょう。

ユミさんの言葉に啓発されて考え始めたらいろいろ出てきてしまって、こんなに長くなってしまいました。

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0010 考えさせられたこととは
名前: ユミおばさん  投稿日: 2001年06月13日 (水) 23時19分56秒

つまんないことかいちゃったなと後悔してました。でもちょっと説明させていただきますと、私の体験から若い時は知らない人に話し掛けるのは恥ずかしいしかなり勇気がいりますが、おばさんになるとわりと簡単にできるようになるんです。それも自分としては精一杯心を込めてるつもりなんです。でもそれって有希さんもおっしゃてましたけど、自己満足の世界でしかなく、相手の気持ちを傷つけたり不快感を与えてしまう危険性があるということは確かですね。でも一方で、私自身障害者の親として、「私だったら、誰であれ話かけてくれたら嬉しいけどなあ。どうして傷つくのかなあ」と思ってしまったわけです。気になったのはこの点でした。でもよく考えるとこれも私自身の中にある「私はいい人」という意識のなせるわざかもと。あーあ考えてたら面倒くさくなっちゃいましたけど、生活する中でごく自然に、ごく当たり前に相手にとって良いボールを投げられるピッチャーであり、相手からのボールをしっかり受け止められる良いキャッチャーになりたいです。トレーニングあるのみですね。

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0008  深い思慮をお持ちですね
名前: 有希  投稿日: 2001年06月13日 (水) 10時08分11秒

> スピリチュアリズムの通信学習のようなものでもあればいいなあ と思っていたところでしたから、
> このような学習の場ができた事を嬉しく思います。

ありがとうございます。
私もまだまだ知らないことばかりですし、考え方もまだまだ狭いと自覚していますから、皆さんの意見の中からいろいろ学びたいと思っています。

ペーパーバーチさんは
》全宇宙に存在する星の数の膨大さを考えると、その中で言葉通りの意味で“下から2つ目”というのはちょっと考えずらい
》レベルでいって下から2つ目のところだよ、という意味ではないのか
> と述べられていますが、霊界が同質・同レベルで境界となっていることを考えますと、この宇宙においても、同レベルの星が全てつながっているようになっているのではないでしょうか? 同レベルの星の属する霊的宇宙の集団があって、そのレベルの二番目に低い集団に地球が属しているということではないでしょうか?

う〜ん、なるほど (-_-)
私なんか単純に下から2番目と思っていましたが、確かに霊界という前提で考えるとアラムさんのおっしゃるように考えられますね。

> 癒しの問題ですが、これは霊的レベルに合わせてのものではないでしょうか。

本来はそうあるべきなんだと思います。

> ニューエイジ系の癒し「自分を許す」ということも同じようなものではないでしょうか?

ニューエイジと言ってもいろいろありますけど、私が知ったかぎりでは多くのニューエイジの人たちの受け止め方の原点は「利他愛」ではなく「自己愛」です。
「まず自分を好きになりなさい」というような内容が随所に出てきます。
その中には当然「自分を許す」ということも入っているわけですけど。
ただ、今回話題に出た「癒し」というのはそんなに深い意味ではありませんでした。
もう少し深く考えてみてもよかったですね。

> 癒しの言葉というのは必要とされるレベルにいる人に対して用いられるべきものなのではないでしょうか?

そうかもしれません。
それにしても、今は音楽にしてもビデオにしても、「癒し系」と称するものがたくさん出ていますよね。
スピリチュアルなことが一般化してきたという意味ではすごく嬉しいことです。

> 幽界の入り口でずっととどまっている人やサマーランドで長い間過ごす人がいるように、癒しの言葉、絶望している人に希望を与えるための言葉を求め、満足している人もいるのではないでしょうか?

そうですね。そういう人は多いと思います。

> 特別の人、自己処罰の思いや絶望の中にある人へ向けられた言葉が、全ての人に適用されると考える
> ところに誤りがあるのだと思います。

この内容をもう少し詳しく話していただけますか。

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0007 さっそく来て頂いてありがとうございます
名前: 有希  投稿日: 2001年06月13日 (水) 10時06分05秒

ユミさん、いらっしゃいませ。
おばさんって書いてあったから、くふっと笑ってしまいました (^・^)
という私もおばさんなんですけどね (^◇^)

> ひとつ気になったところ。障害者云々のところ。私はおばさんだからおばさんの気持ちがよくわかるんですが、
> ちょと考えさせられました。でも要はおばさんだからということではなく状況によりけりってことでしょうね。

どんなふうに考えたんだろう・・・(?_?)
差し支えなかったら教えていただけますか。

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0006 学習させてもらいます
名前: アラム  投稿日: 2001年06月12日 (火) 23時47分27秒

スピリチュアリズムの通信学習のようなものでもあればいいなあ と思っていたところでしたから、このような学習の場ができた事を嬉しく思います。
学習させてもらいます。 皆さん、よろしくお願いします。

ペーパーバーチさんは
》全宇宙に存在する星の数の膨大さを考えると、その中で言葉通りの意味で“下から2つ目”というのはちょっと考えずらい
》レベルでいって下から2つ目のところだよ、という意味ではないのか
と述べられていますが、霊界が同質・同レベルで境界となっていることを考えますと、この宇宙においても、同レベルの星が全てつながっているようになっているのではないでしょうか? 同レベルの星の属する霊的宇宙の集団があって、そのレベルの二番目に低い集団に地球が属しているということではないでしょうか?

癒しの問題ですが、これは霊的レベルに合わせてのものではないでしょうか。霊界においても、まずは死後直後には眠り、回復を図る境域がありますよね。
幽界では自分の思う通りになる。ここで、自分の願いを満たしてから、さらなる向上の道、多くの人々のための仕事に入っていく。
死後、既にないはずの病や傷に苦しむ人には「もう苦しむ必要はないのですよ」、自分の犯した罪に必要以上に苦しみ、自ら作り出した閉鎖された世界に閉じこもっている人には「あなたは許されています。そこから出ておいでなさい」と指導霊が語りかけることがあるようですが、ニューエイジ系の癒し 「自分を許す」ということも同じようなものではないでしょうか?
死後、霊的混乱の中にある人への教えが、クリスチャン・サイエンスの教えの元になったという例から考えても、癒しの言葉というのは必要とされるレベルにいる人に対して用いられるべきものなのではないでしょうか?
幽界の入り口でずっととどまっている人やサマーランドで長い間過ごす人がいるように、癒しの言葉、絶望している人に希望を与えるための言葉を求め、満足している人もいるのではないでしょうか?
ただ、「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉もありますが、親切のつもりで言っていると、その人の霊的向上の妨げになるということはあると思います。特別の人、自己処罰の思いや絶望の中にある人へ向けられた言葉が、全ての人に適用されると考えるところに誤りがあるのだと思います。

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0005 待ってました
名前: ユミおばさん  投稿日: 2001年06月12日 (火) 22時13分30秒

なかなか楽しそうではありませんか!面白かったです
やっぱ3人ぐらいがちょうどよさそうですね。でもロムされた方でお仲間に入りたくなっちゃう人がでてきそうですね。それもまたよろしかろうと思います。
有希さんと長田さんとは時々お話するのでお二人の発言はなーるほどと。
ペーパーバーチさんはほんとに知識が豊富でいらして感心しきりです。
発言もなかなか新鮮に感じられ、勉強になりました。まさにスピリチャリズムの戦士のようなお方です。でもここではどこかの掲示板での切り口とはだいぶ違っていて穏やかですねえ。

ひとつ気になったところ。障害者云々のところ。私はおばさんだからおばさんの気持ちがよくわかるんですが、ちょと考えさせられました。でも要はおばさんだからということではなく状況によりけりってことでしょうね。

これからの展開を楽しみにしています。今夜はこんなところで・

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0004 皆さん、よろしくお願いします。
名前: 長田  投稿日: 2001年06月12日 (火) 21時14分29秒

ペーパーバーチさん、すごーくきれいに出来上がりびつくりです。
さすがに手馴れたものですね。

私がこの会に参加させてもらって一番良かった事はペーパーバーチさんの「自己への絶望」の所です。すごーい知識家で間違っている事は絶対みとめない!というような強さを持っている人だと思っていましたが、それだけではなく
自己反省もちゃんとしている人だと知ってホッとしました。
私はシルバーバーチの霊訓以外はまるで知識が無いので、これから色々勉強してもっと広い意味での判断が出来るようになりたいと思っています。
皆さんの書き込みを楽しみに待っています。

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0003 ご挨拶
名前: 有希  投稿日: 2001年06月12日 (火) 09時26分17秒

いよいよ開始しました。
しかし、ペーパーバーチさんはページを作るのは手馴れたもんですよねえ。
私なんかまだまだ初心者の域を抜けませんから、ペーパーバーチさんに作ってもらってよかった (^・^)

なんせ未熟な3人が話していることなので、必ずしも内容が正しいとはいえません。
それで、もし気になったこととか、自分だったらこう考える、というものがあったら遠慮なくこの掲示板に書きこんでくださればと思います。

それと、参加して一緒に話してみたいという方はぜひぜひいらしてください。
場所は愛知県豊川市のペーパーバーチさんのお家です。
たまに浜松の私の家でも行う予定です。
曜日としては大体第3か第4土曜日の午前11時からですが、お互いの都合によって変更しますから一定ではありません。
とりあえず、次回は6/23になっています。
話し合う箇所は「シルバーバーチは語る」の第1章〜第3章を予定しています。
よろしくお願いします。

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0002 注意点など。
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2001年06月12日 (火) 00時34分07秒

取りあえず今のところ、タグは使えない設定になっています。
その代わり、ウェブサイトのアドレスを書いていただければ自動的にリンクされます。
↓こんな感じです
http://www.paperbirch.com/

リモートホスト(IP)およびブラウザは、表示はされませんが記録はとっています。匿名と勘違いして無責任な発言はしないこと(^^)。ハンドルネームは基本的に同一のものを使用してください。以前と違う名前で発言する場合は一言断ってくださいね。こっそり別名で投稿するのは(分身の術と言われ忌み嫌われる(^^;)マナー違反です。

ま、取りあえずそんなところです。
では、よろしく〜。

http://www.paperbirch.com/

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0001 勉強会&座談会掲示板、スタートです。
名前: ペーパーバーチ  投稿日: 2001年06月12日 (火) 00時33分34秒

お待たせしました。

スピリチュアリズム勉強会&座談会専用の掲示板です。管理は、私ペーパーバーチと、有希さん、それからええと、長田さんも来てくれるのかな?……が行います。実際の作業はペーパーバーチがやりますので、発言の削除やら修正依頼はペーパーバーチまで(但し、いったん投稿した発言はなるべく削除しないこと。また削除する場合も出来るだけ削除キーでご自分でしてください)

勉強会&座談会の内容に関することであれば何でも結構です。ご意見、ご感想などお気軽にご意見をお寄せ下さい。特にルールなどは設けておりませんので、ご自由にどうぞ。

http://www.paperbirch.com/

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