スピリチュアリズム勉強会&座談会
('02.05.11作成)

第12回('02年4月21日)
「シルバーバーチは語る」
9章 キリスト教のどこが間違っているのか

その2


 

ペ:では次のページP145の7行目

教会と呼ばれているものの中には、中世の暗黒時代の遺物が少なくありません。そもそも大霊はいかなる建築物であってもその中に閉じ込められる性質のものではありません。あらゆるところに存在しています。石を積み重ね、その上に尖塔をそびえ立たせ、窓をステンドグラスで飾ったからといって、大霊が喜ばれるわけではありません。(P145)

これも実際、キリスト教だけじゃなくて、仏教でも他の宗教でもなんでも言えることですよね。

有希:そうですね。

長田:びっくりするほど立派ですからね〜。

ペ:まぁ、仏教の寺院は別に暗黒時代の遺物じゃないないかもしれないですけど、でもそのための民衆の犠牲というか、それを造るための苦労が他のことに割かれていたら、どんなにいい世の中になっていたかというのは、やっぱりないとは言えないわけで。
僕は美術を学んできた人間なんで、そういうの(歴史的建造物)を全部否定するというのも苦しいものがあるんですけど。やっぱり仏像や寺院でもいいものはいいなぁと思いながら見るし、ヨーロッパの教会なんか実物を見ると圧倒されます、これはスゴイな〜と。それだけでもいけないですし。なかなか難しいところですよね。この世的な価値も捨てきれないというところが。
そういう点で、ヨーロッパの教会とかは美術的価値も出てきているとは思いますけど、現代の新興宗教が作っている大きな建物とかは、もう本当に存在価値がないというか、擁護する点が全くないので。もう出来ちゃっているのは、まぁしゃ〜ない許してやるとして(笑)、これから作ろうとするような団体には、絶対ダメですよ、と。

有希:キリスト教というとやっぱり、宝石の散りばめられた王冠なんかを連想します。いつも思い出すのが「ブラザーサン・シスタームーン」という映画なんですけと、あれはすごく良く出来ているなぁと、いつも思います。キリスト教の暗黒時代の間違っている部分と、イエスの教えが対称的にうま〜く表されているんですよね。見てない人がいれば、ちょっとお勧めですけどね。

ペ:そういう点では、キリスト教より仏教のほうがマシかなという気がしますよね。如来像とかは、飾りないですから。菩薩は飾っていますけれども。

有希:仏教は修行が厳しいですよね。私の知り合いにお坊さんの奥さんがいるんですよ。そこにたまたま遊びに行った時に雲水さんがいて、寒いのに廊下にずっと素足で座っていて、そこの和尚さんが出てくるのをずっと待っていたんです。ああいう姿見た時に、なんかすごいというか、荘厳さを感じました。着飾っていないし、食べ物も非常に質素でしたから。もちろん中には生臭さ坊主もいるんでしょうけど。そういうのを見た時に、やっぱり長に立つ人の影響って大きいなと思いました。長に立つ人が生臭さだと、下につく人たちも、ああ、この程度でいいんだ、というようになっちゃうじゃないですか。でも一番上に立つ人が本当にしっかりしていて、ちゃんとしたものを伝えていこうとすると、後に続く人たちというのはそれを見習ってやっていきますよね。

ペ:その通りですね。

有希:鈴木さん、何かありますか?

鈴木:包括的なことになってしまいますが、これを読んで疑問に思ったのが「じゃあ我々はどうしようか」という話なんです。宗教が悪いのはわかったんですけど、じゃあ我々はどういうふうにしたら良くなるのか、というそこらへんがちょっと疑問なんです。また、さっき言われたように一心に人のためにと思っていたら、自然と道が開けるということですか。

有希:そうですね。でもその前に、自分がちゃんとした知識を得ることが必要だと思います。ただむやみやたらに人のためと思っていても、案外、人の為が人に害を与える場合だってありますから。しっかり判断できる力を持って、その上で本当に人の役に立つというのはどういうことかと考えた方がいいと思います。それこそ、ホームレスにオニギリを配るのも人の役に立つことですけど、霊的真理を知った人がそればかりやっていたら、真理に対する責任が果たせなくなります。シルバーバーチの言っている「人の役に立つ」ということは、「魂の成長にとって役に立つこと」です。場合によっては、その人を傷つけることになったとしても、その人の魂にとって利益になればいいわけですよね。私は相手のことをよくよく考えてした結果として人を傷つけてしまうのは仕方ないと思うんです。本当にその人に良くなってほしいと思って厳しいことを言えば、人によっては傷つくことだってありますよね。それと、傷つくかどうかはその人の性格次第ですしね。他愛のないことからでも傷つく人は傷つくし、どんなに厳しいことを言っても傷つかない人は傷つかないわけですから。人が傷つくことを恐れていたら何もできません。だから私は見せかけだけの優しさというのは無責任の現れだし、相手をだめにする場合も多いと思うから、嫌なんです。本当にその人の将来とか、死んでから影響するものに関して、確実なことを伝えられるかどうかというのが、私は一番大切だと思っているんです。

鈴木:今の話から頭に浮かんだことは、教職者とかそうでないにかかわらず、間違っている人には厳しいかもしれないけど間違っているとちゃんと言っていけば、それが積み重ねで良くなると言うようなことですよね。

ペ:ただ相手が受け入れられるように訴えないとダメですけどね。この人はちょっとでも厳しいとことを言ったら、もう心を閉ざしてしちゃうだろうなという人はやっぱりいますから。
それで僕、ちょっと違うことを言いたいんですけど、スピリチュアリズムというのは、目的は霊性の進歩のためとか言っていますけど、どうしてそうしなければいけないのかと言うと、結局幸せになるためなんだと思うんですよ。霊性が高まった方が自分も幸せだし、みんなも幸せになれるから。で、究極的な目的を「みんなが幸せになるため」とすると、そうなるために具体的に誰でも実行できる方法は何だろうと考えるんです。
一つはいま有希さんが言ったようなこともあるんでしょうけど、でもそれって1日24時間ずっとそれをやれるかというと、そういう機会にめぐり合わないとできないことですよね。そうすると結局「なぁんだ、限られた人のための、限られた機会だけの、抽象的なことばっかりだな」と思う人も出てくると思うんです。だから、誰にでも必ず当てはまるということはないかなと、世界中の100%全ての人がいつでも出来ることはないかと、ずっと考えていたりもするんですけど、結局それって自分の仕事というか、今自分がやるべきことを誠心誠意やることが一番大切なんじゃないかなと思うんです。どんな仕事でも、僕がやっているデザインの仕事にしても、何でも、それぞれがその仕事のプロとしての矜恃《きょうじ》を持って、本当に真剣にやれば、世の中絶対に良くなると思うんです。それができてないから農水省の狂牛病とか、厚生省の色々なこととか、政治のこと、どれも根本的にはそういう問題ですよね。
そういう意識を持つということなら限られた人だけではなくて、そこらへんのコンビニのバイトだって、本当に接客業としてのプロ意識を一人一人が持つようになれば、本当に住みやすい世の中になると思うんです。って、なんかつまんない道徳のお話みたいと思う人もいるでしょうけど、なぜそうしなければいけないかというその理由の部分を教えてくれるのがスピリチュアリズムだと思うんですよ。だからどんな仕事でも、自分のやることに自覚を持って、プロ意識を持ってやるようにしましょうと、そんなことを僕は思っているんですけど。

有希:シルバーバーチが言っているのは「利他愛」ですから、どんな場合でも、お互いに自分のことより相手のことを考えていけば、悪くなるはずがないんですよね。人のことを考えずに、まず自分の利益とか保身を考えるから、最初はいいけれど、結局そのツケが自分の首を締める形で回ってきてしまうんですから。接する人はいっぱいいるわけだから、その接する人一人一人に誠意を持って、ということかな。シルバーバーチの言っていることはそんなに難しいことじゃないんですよね。

ペ:僕がおもちゃ屋をやっていた時でも、このお客さんにはどんなものを勧めたらいいかなというのを、お客さんから話を聞いたりしてやっていましたよ。そんなことでもいいんですよ。

有希:ペーパーバーチさんの言う「プロ意識」というのは、そういうことですよね。

ペ:まあ、普通だったら何が売れているからこれを勧めておけばいいだろうとか、でもそれって相手のことを考えていないじゃないですか。ちゃんと相手のためにとか、そういうシルバーバーチの言っているような要素を心にとめるだけで、ちょっと変わってくるかなと。結局それが「プロ」としての矜恃だと思うんですよね。それは思っただけで、うまくできるかどうかはわからないですけど。でも、努力することは可能だし、みんながそういう努力をすれば、必ず今より楽しく暮らせる世の中になるんじゃないかなと思うんです。

鈴木:それを多くの人に広めるにはどうしたらいいんでしょうね。みんなにそういう気持ちを抱いてもらうためには。

有希:これは本当に地道ですね。気の遠くなるほどの遠い道のりです。

鈴木:今、自分が会っている人に対して、誠心誠意接することで、自然に広まっていくことを待つしかないのでしょうか。

有希:そうですね。だから、自分が中心になって広めていこうとすると、範囲が広過ぎるのでとてもじゃないです。でも霊界があって一人一人の背後に必ず守護霊がいるから、そういう働きかけは常にしているはずなんですよ。例えば、何も知らない人がいるとしますよね。でもこの人の後ろにも必ず守後霊はいるので、誠心誠意接した時に、この人の魂が開くんですよ。そうすると守護霊のインスピレーションがその人の中にパッと入ってきて、「ああ、自分はこれじゃあいけないな」ということになります。そういう関係があるから、自分が何かしようと思わなくても、まず誠心誠意、利他愛で接しようとしているだけで、ずいぶん変わるはずです。

長田:それから、自分の中にどれだけの深い知識というか、霊的視野を持っているか、というのでも人との接し方が違うと思うんです。例えばおなじ「頑張ってね」という言葉にしても、地上までしか見えてない人と、相手の霊界まで見えている人とでは、人格にも差があるし、伝わり方は絶対違うんじゃないかなと思うんです。で、より多くの人にシルバーバーチを知ってもらいたいと思って、いろんな人に本を手渡しても、実際なかなか無理なんですよね。それより、自分がもっと深いところまで理解して、人格的にも成長していけば、必ず周りは影響されるし、霊界が働いて、それに引きつけられる人が集まってくるんです。

ペ:シルバーバーチがよく言っているのが、一人の人にでも教えてあげられればそれだけで充分だということです。たくさんの人にシルバーバーチを読んでもらうとしても、1回読んで忘れちゃうような勧め方をするよりも、本当に心に刻まれるような伝え方をたった一人でもできれば十分だと思うんですよ。ホラ、ねずみ構みたいなもんで、1人の人が2人ずつに伝えれば、何世代かだけで日本の人口を越えちゃうという(27代目までの合計でほぼ日本の人口に達します)。あんまり大きく、何十人何百人もの人に伝えようと自分の使命みたく考えると、かえって何も出来なくて、1人か2人に確実に伝えてあげて、その人の人生に影響あったらもうそれだけでいいんじゃないかなと思うんですけどね。

鈴木:人が他人のために何かをしようと思わなくなった理由というのがあると思うんです。私はそれの理由が教育だと思っているんです。小さい頃から受験戦争の中にいて、他人を蹴落として上がって行くみたいに、自分のためだけの生き方に向けられて教育されてきたじゃないですか。そういうのが積み重なって、霊的なことを受け付けないような人格ができてきたと思うんです。もしそれが人の為にやったことで評価されるようなシステムになっていたら、もっと変わるんじゃないかと。

有希:それができれば本当はいいんですけどね。

ペ:いま自分たちでは無理でも、少しずつでも霊的知識が広がっていけば、そういう世の中のシステムを変えられる人が出たり、自然に変わって行くかも知れませんよ。いや、そうなって行くべきだと思いますけど。強引にスピリチュアリズムを啓蒙しても、却ってそれは遠まわりになるだけなんじゃないでしょうか。

有希:そう、その場は忘れられても、魂の中に種として残ってくれればいいなぁと思います。種が残っていれば、ずっと後になって、それがきっかけで「そういえばシルバーバーチとか言っていたな〜」でもいいし、「利他愛とか言っていたなぁ」でもいいし。もう20年位前かな、キリスト教の伝道師ですごく有名なビリー・グラハムという人が日本に来たことがあるんですよ。後楽園球場かどこかを借り切って伝道集会をやったんです。その演説がとても素晴らしかったらしくて、みんな総立ちになって、拍手が鳴り止まないぐらいだったらしいです。その時ビリー・グラハムが最後に「では私と一緒に手を取りあって、自分を捨てて主のために伝道していきたいと思う人出てきてください」と言ったら誰もいなかったということがありました。大衆的に広めるというのはこういうことなんですよね。それよりも地道でいいからコツコツと日常生活の中でやっていくということにすごく大きな意味があると、思うんです。小さいことができなければ、いざという時にもできないと思うので。

ペ:僕なんかも世の中にそんなに大きく影響力を与えられる人間だとは自分でも思わないわけで、だったら自分にできることって何かなということを考えると、せいぜいHP作る位かなという程度なんですよ。そんな世の中に大きく広めると言ってもその人にそれだけの力がなかったら無理ですからね。いくらスピリチュアリズムが素晴らしいといっても、その人に伝える力がなければ広められないわけで。やっぱり自分のできる範囲のことからやっていくのがいいんじゃないかなと思うんですけどね。「小さなことからコツコツと」西川きよしですよ(笑)

有希:そんなこといってましたかね。なるほど。

ペ:国会議員なんだから大きなこと出来るんじゃないの、という気もしないでもないですけどね〜。

有希:本当は国会議員にスピリチュアリストがいるといいんですよね。一人や二人じゃちょっと少ないから、何人かいるといいですね。いつか、スピリチュアリストが政治に出るという時代がくるんじゃないかしら。

鈴木:話は全然違うんですけど、質問してもいいですか? スピリチュアルヒーラーさんがいますよね。あの方たちは病気治しているんですよね?

有希:そうですね。

鈴木:霊界からの力を患者さんたちに流して治しているんですよね。あれは、病気じゃない人には流せないんですか?

有希:流すことはできると思います。

鈴木:じゃあ、多くの人に流せば、流すほど、その人が霊的に目覚めるというか、気づくかもしれないですよね。

ペ:多少は影響はあるかもしれないですけど、なかなか難しいと思います。そもそも病気持ってない人はそういう所には行かないだろうし、何にも関係無いのにエネルギーだけ送るというのはやっぱり難しいですよ。何かお互いにつながりがどこかに無いと。接点が無いとエネルギーが流れていかないので。

長田:あれは、霊界の存在を証明するために起こされたことですよね。それまで、そういうことを信じていなかった人が自分の体を通して、霊の存在に気付いていくということですから。だから、痛みを取ってあげても、その人が治ったとしても、気付こうとしない人は、気付かないんですよね。

有希:病気も何にもない人にもエネルギーは流せるけど、「ああ、元気になった」で終わっちゃうんじゃないかしら。

ペ:もしかしたらちょっとぐらい性格が前向きになったりすることはあるかもしれないけれど(あっても一時的なものでしょうけど)、霊性進化を目標と考えると、そういう外的な力でどうこうしたって意味無いですよね。それにヒーラーにしても霊界の治療に関わっている霊にしても、治したいという思いがあってそういうことをすると思うので、なかなか健康な人に対してというのは難しいんじゃないですか。できないことはないんだろうけど。

鈴木:はい、わかりました。

長田:やっぱり、人間が大きく変わる時というのは、何かきっかけがあると思うんです。本にも書いてあるように、苦しみとか、困難とかね。それを通じてもっと良くなりたいとか、目に見えない力があるとか、新しい自分を発見したりとか、真理に出会うきっかけがあると思うんです。

鈴木:要は、苦しみとか何かがあってはじめて成長のきっかけになるということですよね。だから、何もないところでは何をやっても何も起こらないということですよね。

有希:そうでもないですよ。大切なのは、その人が求めているかどうかということかな。求めている気持ちの大きさに応じて霊界が働いてくれるのですから。苦しみで目覚める人はカルマとの兼ね合いですよね。

長田:ヒーラーに出会うのも、こうして出会うのも、偶然ではないということですから、必要な時には必ず必要なことが与えられるということですよね。そのきっかけとして、必要なら自分が霊界に使ってもらえるという感じかな。だから、仕事でも何でも、何をやってもいいような気がするんです。ただ、さっき言われたように、「役に立ちたい」とか、機会があれば「霊的真理を伝えたい」という思いを持っていると、そういう機会が巡ってくるというか。でも、実際家族の中でも自分一人でも勉強すると、全ての考え方とか、発する言葉が違うから、家族に対する影響力というのはすごく大きいですけどね。

 


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