心霊学研究所
『ジャック・ウェバーの霊現象』
ハリー・エドワーズ著/近藤千雄訳
('01.04.09登録)
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ハリー・エドワーズと言えば世界にその名を知られた英国の心霊治療家である。一九七六年に八三歳で他界するまでのほぼ半生をスピリチュアリズムの普及活動と心霊治療による治療活動に捧げている。とくに後半生の治療活動は目覚ましく、世界各地からの治療申し込みの手紙が三十年間に延べ一四〇〇万通にも達している。 その全てが実際の治療を受けたわけではないが、統計によると、氏の治療を受けた患者の八十パーセントが“好転”し、そのうちの三十パーセントが“完治”している。そうした患者はすべて医学によって“不治”の宣告を下された人ばかりであることを忘れてはならない。 言いかえれば医学治療で治癒率ゼロのものが、エドワーズ氏にかかると右の治癒率となるということで、これはまさに驚異という外はない。その中に“奇跡”と呼べるものが三十パーセントもあるということである。 エドワーズ氏の無二の親友であり、ジャック・ウェバーの実験会の推進に終始協力した心霊ジャーナリストで霊媒のモーリス・バーバネル氏が、のちにエドワーズ氏の治療所を引き継ぐことになったレイ・ブランチ氏に対し 「私が思うに、ヘンリーはイエス・キリストが地上で行なったことよりも大きい仕事をしていると思う」と語ったことがある。(ヘンリーの通称がハリー) その時二人は一緒に昼食中であった。ブランチ氏はコーヒーをまぜていた手を止め、多分バーバネル氏が大ゲサなことを言ったテレ隠しに笑い出すだろうと思って氏の顔を見つめていた。が、メガネの奥の目はまさしく真実を語った人の目で、真剣そのものだったという。(レイ・ブランチ著「ハリー・エドワーズ----偉大なる治療家の生涯」) そのエドワーズ氏がジャック・ウェバーとの出会いによって心霊現象の実験に真剣に取り組んだ頃は、その治癒能力はまだ本格的な段階に至っていなかった。参考までに氏がはじめてスピリチュアリズムを知り、さまざまな霊的体験を経て、ついに心霊治療家となっていった過程を、心霊著述家ポール・ミラーとモーリス・バーバネルによるエドワーズ氏の伝記 Burn to Heal から一部を抄訳して紹介しておこう。 エドワーズ氏がはじめてスピリチュアリズムに触れたのは、エセックス州のある教会における霊視家のデモンストレーションに出席した時だった。エドワーズ氏はマジックが趣味で、マジッククラブに属していたほどなので、その時もどうせタネがあるに決まってると考え、そのタネを暴いてやるつもりで出席した。 ところが、司会者の説明は何のことか理解できなかったが、霊視家が述べたことは証拠性があり、強烈な印象を受けた。氏はそこで二つの結論を出してみた。一つは霊視家の言ったことは間違いなく真実である。そしてもう一つは、しかしそれは“さくら”との共謀であるということ。 それにしても----氏はもう一歩踏み込んで考えた。あの霊視家はあの時一回きりでなく何回も、それも幾つもの会場でやっている。もしそれをすべて“さくら”を使ってやるとなると相当な数のさくらがいるし、第一、いつかはバレてしまうはずだ。かくして最後に到達した結論は、霊視現象は確かに言われた通り実在するということで、以来ずっと揺らぐことがなかった。 二度目は一九三四年のことで、この時は夫人と友人のレイトン女史(写真No.2参照)を伴って出席した。この時は公開の交霊会で誰でも自由に出席できたが、そこでもまた強烈な印象を受けた。そして何回か出席しているうちに、これといって確証はないのだが、自分に協力しようとしているスピリットが何人かいることを告げられて、自分にどんな霊能があるのか試してみる気になり、三人でいっしょに霊能養成会に入会した。 最初のうちはこれといって変化はなかったが、やがて「からだのリズムが速くなり、呼吸も速くなっていくのを感じ、自分の心が別の考えによって支配されてしまうのであるが、それを口に出そうとしてもノドが意のままにならなかった」という体験をする。 そのうちこんどは無理やり起立させられ、しゃべろうとする欲求が湧いて来て、つい大声で「全ての人類に平和を!」などと叫んで、他のメンバーをびっくりさせたりした。このことについてエドワーズ氏は、当時は平和と反戦運動のことで頭がいっぱいだったので「多分霊能を伸ばすためにスピリットが潜在意識の反射運動を利用してやったのでしょう」と説明している。 この体験のあと氏は入神状態で演説するようになった(入神談話)。声も違えば、用語もまったく普段使っているものと違っていた。 そのうちこんどはパノラマ風の生き生きとした光景を霊視するようになった。それはきまって人生の表と裏を表わしたもので、神に背いてあがく罪深い人間と、天国へ向かう幸せな人間の姿であった。 エドワーズ氏はそれまで祈りというものをしたことがなかった。ところが入神談話を重ねるうちに、その話の中に祈りの言葉がひんぱんに入るようになり、同時にバイブルの中の読んだこともない文章が飛び出すようになった。そうした入神談話が、まるで他人の話を聞くように、いつも意識的に聞こえたという。従って氏自身にとってはそれだけで、すでに別の知的存在が自分の身体を使っている証拠として十分であった。 その入神談話をしていたのは、ジョージ・デイズリー氏によってアメリカインディアンのホワイトフェザーという名の霊であることを教えられた。 その頃から病気を治療したいという願望が次第に強くなっていった。エドワーズ氏は夫人と数少ない友人とで独自のサークルを結成し、本格的に霊能の養成を始めた。患者を直接治療する活動を開始したのは実はこの養成会においてであった。そして、なかなか成績がよいので、週のうち一日を治療日とすることになった。 かくして心霊治療家としてのスタートが切られたのだった。 ところで、読者の中にはなぜ心霊治療家のエドワーズ氏が分野のまったく異なるジャック・ウェバーという物理霊媒をこれほどまで熱心に実験の対象としたのか、疑問に思われる方がいるかも知れない。 実はその疑問に対する回答の中にこそ、エドワーズ氏が心血をそそいだ物理的心霊現象の真の意義が秘められているのである。そこを理解していただかないことには、本書を読まれた意味も、エドワーズ氏が本書を書いた意味も失われることになる。 それは大きく二つに分けられる。一つは人間の五感では捉えられない知的存在《スピリット》がいることを立証すること。これは当然のことながら、その知的存在の生活する場、いわゆる死後の世界または霊界が存在することも意味する。目にこそ見えないが、この宇宙のどこかに存在するわけである。 もう一つは、そのスピリットは人間の力量も想像もはるかに超えた驚異的な霊力《パワー》を出すことが出来るということを示唆している。死後の世界の存在も破天荒の事実であることに相違ないが、さきの疑問との関連において観るかぎりでは、この方がより重大な事実と言えるかも知れない。そのパワーの中に“不治の病”をいとも簡単に治してしまう治療力も含まれているからである。 バイブルその他の聖典に見られる奇跡的治癒の数々も、原因は霊的パワーにあったのであり、その治療を施した人、たとえばイエス・キリストはそのパワーの通路に過ぎなかったわけである。 エドワーズ氏が本書を著わした時は、能力的にも人間的にも、また霊的知識の点でも、まだまだ未熟であった。が、のちの偉大なる世界的治療家、バーバネルをしてイエス・キリスト以上と言わしめた大治療家が、その基礎づくりの時代において、二年間にわたってジャック・ウェバーという一物理霊媒の心霊実験に携わり、徹頭徹尾、まさにしつこいほどの細かい観察によって、スピリットの存在とその霊力の威力を目《ま》のあたりにし、そして得心したことは、その霊力の背後に控える高級神霊界の遠大なる配慮があったものと推察されるのである。 思うに、本書で披露されたエドワーズ氏を始めとする各界の出席者の態度こそ、真理探求者の見本と言うべきである。事実は事実、現象は現象として有るがままにその存在を認める。次にそれが時間的、空間的、力学的観点からみて霊媒自身の仕業でも、あるいは霊媒と列席者との共謀でもないことを立証する。それを更に写真で実証する。そして、この段階に来てはじめて目に見えぬ人間以外の知的存在の働きを想定する。 心霊現象の調査研究にこれ以上の実証性と科学性はもはや無用である。これで十分である。あとは探求者個人の直感的洞察力の問題にかかってくる。 科学の歴史にその名を残した偉人が一方において心霊現象に深くかかわってスピリチュアリズムの真実性を確信し、学界からの批難をものともせずにそれを公表し書物まで出版した例は少なくない。物理学者のオリバー・ロッジがそうであり、理化学者のウィリアム・クルックスがそうであり、博物学者のアルフレッド・R・ウォーレスがそうであった。 そのウォーレスがいみじくも言っているように「事実というものはどうしようもないもの」である。その「どうしようもないもの」を見栄や偏見からどうにかしようとする学者がいかに多いことか。まるで宇宙は自分が拵えたのだと言っているみたいな口を利く学者がいかに多いことか。 事実は肯定するより否定する方がはるかに困難なはずである。シェークスピアではないが「この世にはお前が夢想だにしないものがいくらもあるんだ」というセリフを献上してあげたい御仁が多すぎる。 一方、摩訶不思議なものをすぐに有難がる人種が多いのもまた困りものである。古来、一宗一派を開いた人物が大なり小なり霊的能力を具えていたことは、洋の東西を問わず確かな事実であるが、今なおそうした「教祖さま」が生まれては消えていっている。こうした事実は超能力を具えた人間のまわりに、その人を神の座に祭り上げようとする人間が大勢いるということを示しており、同時にまた、その御輿《みこし》にすぐ乗ってしまう霊能者が多いということでもある。 霊的能力そのものは善でもないし悪でもない。具えているからといってその人が偉いわけではない。英国の心霊治療家モーリス・テスターが心霊月刊誌ツーワールズ(一九八三年十一月号)で「心霊治療家を聖人と思うなかれ」と題して次のように述べている。
「世間には、心霊能力を具えた人はほかの面でも立派なものを具えているに相違ないという誤った認識がある。だから、そう思っている人は治療家を霊格の高い聖人と思い込み、病気を治すだけでなく未来のこともわかり、運命を改めることもできると信じて、結婚の相性から引っ越しの是非、はては投資の問題まで持ちかける。 治療能力はいろんな人が持っている。どういうタイプの人がそれを授かるかは判らない。脳髄がそれに向いているということかも知れないし、同情心が普通の人間より強いからかも知れない。もしかしたら前世で人のために尽くすことが少なかったので、その補いのために人の病を治す仕事をさせられているのかも知れない。そのほかいろんなケースが考えられるが、いかなる人間がいかなる理由で選ばれるのか、又それを誰が選ぶのか、本当のことは私にも判らない。 はっきりしていることは、それが霊的な能力にすぎないということだけである。霊格の高さを示すものはないのである。むしろその逆のように思えるケースの方がよくある。つまり人間的にみて程度が低いと思える治療師が大勢いる。そういう人は何とか立派そうに見せようと、いろいろ工夫する。医師のような白衣をまとったり、診療用のベッドを置いたり、祭壇をしつらえてローソクをともし、香をたき、宗教的な置きものを飾ったりする。 こうしたやり方に見事に参ってしまう人がまた多いのである。だから例のルルドへ年間何万もの人が詣でるということにもなるのである。実際には、その何万人もの人のうち本当に治っている人の数は、私のような個人の治療家が一か月で治す人数に、も及ばないのであるが。 何か錯覚しているのではないかと思える治療家も多い。一人の病人を治したことで、もう大変な使命を背負った神の使徒であると思い込み、自分の考えを神の声と信じて患者に説く。結局こうした治療家は自分を精神的指導者と思い込んでいるのであるが、これは錯覚である。 心霊治療家は霊力の証人であってそれ以上のものではない。霊の威力《パワー》を見せつけることが出来る----そういう能力を授かっているということである。苦しい病から解放された患者がいろいろと知りたがるのは無理もないことである。これは一体どういうことなのか。自分を治してくれたエネルギーは一体何なのか。これから自分はどうすればいいのか、等々。が、そうした問いに一々答えてはいけない。 治療家としての正しい態度は次のように言ってあげることである。“お役に立ててうれしく思います。私はあなたを治してあげることによって霊の威力をお見せしたのです。これで霊力が存在することに得心がいかれたでしょう。私は宗教家ではないから、その霊力をあなたがどう呼ばれてもかまいません。生命力、宇宙エネルギー、大霊、神、なんでもよろしい。私はあなたにドアを開いてさしあげた。そこまでが私の仕事であって、そのドアの向こうにある真理の花園までどういうコースを辿って行くか、その真理をあなたの人生にどう摂り入れるか、それはあなた自身の問題です。これで私の役目は終わったということです。” そこで私は治療家諸氏に“驕るなかれ”と申し上けたい。どう装ったところで、治療効果には何の影響もない。霊力はあなたを通過して流れるのであって、あなた自身から出ているのではない。あなたは単なる道具にすぎない。あなた自身が霊力を出すのではない。あなたの外部から入り込んで来るのである。 大勢の人が自分の足もとに脆《ひざまず》くことを期待してはいけない。イエス・キリストですらたった十二人の弟子しかもたなかった。しかもそのうちの一人のトマスは最後まで疑り深い人間だった。」
エドワーズ氏の辿った人生は決して平坦なものではなかった。生計を立てるという一人間としての苦労も並大抵ではなかったが、心霊治療家としての仕事においても、医学界からの非難、中傷、軽蔑の中を戦い抜くことはよほど強固な信念と自信、そして強じんな精神力なくして出来ることではなかった。 もっともエドワーズ氏にはイエスをも凌ぐとまで評されたその驚異的な治療力という武器があった。氏の人生のクライマックスは英国心霊治療家連盟という全国組織を結成し、その会長として次々と公開デモンストレーションを行なったころであるが、大ホールで何千人もの観衆と何十人、時には何百人という医師団を前に、数々の奇跡的治癒をいとも簡単に披露してみせた。目の不自由な人がその場で見えるようになったり、壇上に上がるにも人の手を借りねばならないほどの足の不自由な人が、片時も手離せなかった杖を置いて帰るといったことは、氏に関するかぎり珍しいことではなかった。 が、氏を語る上で決して忘れてならないことは、そうした超人的奇跡を次々と起こしながら、金銭欲と名誉心から完全に超脱していたことである。氏の態度のどこにも自惚れというものが見られなかった。もしもそれが目につくような人柄であったら、バーバネルも“イエス・キリスト以上”とは言わなかったであろう。自惚れはすべてを帳消しにするものだからである。 そうした偉大な人格を支えたものは何か。もちろん生来のもの----つまり生まれつき高い霊格を具えた高級霊であったことは間違いない。が、高い霊格の持ち主も、肉体に宿り五感の牢獄に閉じ込められると、その霊的判断力は曇り、人間的煩悩に負けて道を見失ってしまうものである。 エドワーズ氏の場合は霊的仕事の出発点において、このジャック・ウェバーによる心霊実験を通じて、徹底的に霊の威力を見せつけられ、人間がいかに小さな存在であるかを思い知らされたということが、その後の人間形成の大きな支えになったものと推察される。物理的心霊現象の意義が氏において最も正しくかつ有効に発揮されたということが言えよう。 コナン・ドイルが「電話のベルが鳴る仕掛けはたわいないが、そのベルが驚くべき知らせの到来を告げてくれることがある」と言っているが、正に至言である。本書で紹介された現象を今すぐ目の前で見ることが出来ないのは残念であるが、少なくとも報道されている通りのものが現実に起きたということだけは紛れもない事実である。訳者自身それに類する実験に立ち会った者として確信をもって断言できる。 その現象の示唆するところは正に人生にコペルニクス的転換をもたらす。訳者自身がその精神的革命を体験している。その体験が本書の翻訳のそもそもの動機であることを最後に付言しておきたい。 なお翻訳に当たっては初版本(一九四〇年版)を使用した。その後出版杜から改訂新版の寄贈を受け、校正の際にそれを参照したが、写真は初版本の方が写りが良いので全てそれを使用した。 一九八五年八月 近藤千雄 |