心霊学研究所
『ジャック・ウェバーの霊現象』
ハリー・エドワーズ著/近藤千雄訳
('00.09.04登録)
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No.8は注目すべき驚異的な写真の一枚に数えられよう。そこに写っているのは幽体の頭部、つまり霊魂の頭である。生身の人間の霊的な身体(幽体)が写真に写ったのはこれが最初である。撮影したW・H・クレイトン氏は霊魂説を信じている人ではない。氏がその実験会に出席したのはたまたま良いカメラを所持していたからにすぎない。そのカメラはボックスタイプのもので、それがごく普通の、いささかおんぼろぎみの三脚に取り付けてあった。 この写真の重大性に鑑みて、これを撮ったクレイトン氏に操作上のミスはなかったか、また霊媒に共謀の可能性はなかったか、といった点について、これまで考察が為されてきている。 まず二重写しの可能性であるが、霊媒の身体および列席者の位置に微動だに狂いが見られないところを見れば、それはまず考えられない。白色光のもとでクレイトン氏が一枚撮って次の一枚を撮るのに数分の時間の経過があることを忘れてはならない。つまり感光板を取り出し、新しいのと入れ替え、フラッシュのバルブを取り替えるのには何分か掛かる。その上三脚が古くてガタガタしていたから、たとえ二重写しをしても、霊媒の身体の位置はこれほど正確に(重なって)は写らなかったであろう。まして列席者がその間じっと寸分違わぬ姿勢を保てたとはとても信じられない。 シャッター速度は1/50秒。クレイトン氏がシャッターを切った回数と、他の感光板に写っているものを照合すると、二重写し説は成立しない。 次に、霊媒自身の側でそういう二つの全く別個の表情が写るように工夫したとすると、霊媒は微動だにせずに、わずか1/50秒の間に二つの表情を作り感光させたということになる。しかもそれをフラッシュを閃《た》くその1/50秒の一瞬を見定めて行なったことになるが、そんなことは人間わざでは絶対できることではない。 かくしてこの二つの顔はシャッターを切った瞬間に同時にそこに存在していたと結論せざるを得ない。 ブラック・クラウドは外側の(前かがみの)顔は“霊魂の顔”だと言った。 外側の顔は何かという疑問に対して、これ以外に筋の通った説明は考えられない。従ってこれは霊媒の頭部の幽体に相違ないということになる。写真を拡大してさらに細かく検査しても、その説を裏づける結果が出ている。 内側の顔はウェバー氏のふだんの顔ではなく、ブラック・クラウドが憑依しているために変形している。入神中は幽体が肉体から離れ、その間に支配霊が肉体をコントロールするという説を裏づけている。 外側の顔は無表情の、霊媒の素顔である。あごのところが上着の襟のところで隠されていることに注意していただきたい。これは分解された上着と幽体の顔とが同じ密度(波長)であることを示している。 顔の位置は両者とも同じ平行線上にある。ところが目と口は完全に並んでいるのに耳だけがずれている。これは、一方が他方と一体となる際に回転運動が行なわれていることを示唆している。それは同時に、両者とも三次元的存在であることを意味するもので、従って肉体と幽体とは単に重なっているだけではないことをも意味している。この事実は写真が二重写しでないことをさらに裏づけている。 実はこの写真を撮った時に完全な肉体の頭は存在していない。 内側の頭部のうしろの部分は分解の途中の状態にある。透《す》けて見えることによってそれが判る。中心に見える黒く写っている部分は二つの顔が重なったところで、そこだけが完全に正常な頭になっている。 この幽体の頭にも肉体と同じ“広がり”がある。そのことは幽体の頭の髪の一部が肉体の頭にかかっていることで判る。両者が一体となる際に回転運動が行なわれていることを考えあわせると一層理解しやすい。 この写真はもともと上着の脱着現象の際の分解の過程を写す目的で撮ったものである(第八章参照)。 それが図らずもスピリチュアリズムの霊魂説、すなわち人間には肉体のほかに幽体があって、それが死に際して肉体を離れ、“霊”の世界で生活するという説を裏づける結果となっている。 この写真ののちにも霊媒の身体が非物質化されることを証明する現象が何度か起きている。一つは強い赤色光の中で起きたことだが、霊媒の頭と手と腕が急に見えなくなった。すぐ近くにいた列席者の目には上着の首のところが“穴”になり中が空っぽに見えた。その時すぐ隣にいたウェバー夫人は何だか気味が悪かったという。 次の晩の実験会は赤色光が弱くて前日ほど霊媒の姿がくっきりと見えなかったが、エリオット牧師とJ・W・バイアリ氏の二人がブラック・クラウドに呼ばれて、霊媒の手と腕のところを触ってみるように言われた。触《さわ》ってみると、そこには何も無いのである。袖に手を突っ込んでみたが、腕は無かった。そのあと突如として手と腕が戻った。 本章は現象をありのままに述べるに留め、詳しい解釈は施していない。写真のもつ意義と、生身の人間の幽体が写真に写ることの重大性については、述べようと思えばいくらでも述べられるところであるが。 |